リナーレスのフラメンコ(ちょっとお勉強ブログ)

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

早速、先程のブログの続き、今度はリナーレスのフラメンコのお話です。ちょっとお勉強も入りますので、勉強したくない方は読み飛ばして下さい。(笑)

IMG_20181202_123815_779このブログ読者のほとんどの方がフラメンコを習っていらっしゃる方だと思うのですが、フラメンコの人でリナーレスといえば、「カルメン・リナーレス」。現代女性フラメンコ歌手を代表する素晴らしい歌い手、カルメン・リナーレスもその名の通りリナーレスの出身。(実はすごいリナーレス。隅み置けなくなってきた。)

写真は、先程のブログで紹介したラファエル博物館と同じ建物内にある博物館で紹介されているカルメン・リナーレスの写真です。

そしてカンテの好きな人ならきっと思い出す、「タランタ・デ・リナーレス(リナーレスのタランタ)」そうそう、そのリナーレスでもあるんです。

タランタといえば、鉱山の歌、スペイン語では「カンテス・デ・ラス・ミナス(鉱山の歌)」もしくは「カンテス・デ・レバンテ(東方の歌)」の一つになります。

おっと、この辺から私のクルシージョで以前開講した講義「タラント研究」の内容とかぶってきました。受講された方は思い出して下さいね。受講されてない方は、以下ブログで予習して、次回お申し込み下さいませ。(笑)

スペイン地図さて、話を元に戻して、まずなんで鉱山の歌なのかといえば、そのまんま、鉱山のあった土地で生まれた歌だから。このリナーレスもそうですし、同じアンダルシア州のアルメリア県もそう、そしてアンダルシア州の隣の州、ムルシア州あたりも昔は鉱山でした。(場所は地図で確認して下さいね。)

鉱山の歌の発祥に関しては説が分かれるようです。このリナーレスのあるハエン県や、先のアルメリア県、要するにアンダルシア州の鉱夫達がムルシア州に移住した際に伝えられた彼らの鉱夫の歌が、ムルシア州において現在の鉱山の歌のカンテの形式になったという説。そして、ハエン県やアルメリア県のアンダルシア州は関係なく、ムルシア州が発祥だという説。ここら辺はフラメンコ研究家の間でも説が分かれるようなので、どちらが正しいと私が言うことはできませんが、そういう説があるということは知っていてもいいと思います。

IMG_20181130_122421_190IMG_20181202_151519_510で、リナーレスに話を戻しますが、リナーレスも鉱山で栄えた町でした。リナーレス郊外の駅から町中に入っていく中で、こんなもの(写真左)を見つけました。バスの中からカシャっと撮ったのでちょっと見えにくいのですが、この鉄塔のようなもの、なんでしょう???詳しい人ならすぐに分かりますね!スペイン語だと「Pozo」(ポッソ)。直訳すると井戸という意味ですが、この場合、地上と地下300メートル以上にもなる鉱山内をつなぐエレベーターのようなもの。もちろん現代のエレベーターのような形ではなく機能が、という意味です。現在リナーレスでは鉱山は閉鎖されているためpozoは機能はしていませんが、鉱山として栄えた町のシンボルとして歴史的建造物扱いで残されているとのことです。町中を歩いていても、石畳の図がこのポッソだったり。(写真右)これには夫のアントニオもへーっとビックリしていました。というわけでこれもカシャっ。(写っている足はアントニオのものです。笑)

IMG_20181202_124608_486IMG_20181202_124118_300リナーレスのフラメンコの歴史ですが、他の土地と同様に、カフェ・カンタンテと呼ばれる、現在のタブラオ(食事をしながらフラメンコを観たり聴いたりできる場所)のような場所が1868年から1918年の間、18か所も開かれていたということです。これは当時スペイン全土の中でも抜きん出た数。(これはすごい数ですよ?現在のセビージャだってたくさんタブラオありますけど、18もあるかなあ???)というのも鉱山で経済が潤ったということが前提にあります。またそこでは苦しい鉱山での仕事を忘れるため、現実逃避のために鉱夫たちが階級の差なく、そのカフェ・カンタンテに集ったそうです。

IMG_20181202_130030_022IMG_20181202_130016_459

そしてリナーレスの人が誇りにする彼らのタランタ。その歌の原型、ファンダンゴ・ミネーロ(鉱山地区のファンダンゴ)は鉱夫達の労働の苦しみ、鉱山内での日常と密接に結びついていました。鉱夫たちの生活や人生は健康から全く程遠いところにありました。事故の危機から逃れられない毎日。彼らを襲う病気。短命。それにもかかわらず全く見合わない賃金。そんな彼らの人生観とは、「今日を楽しもう。明日は生きてはいないかもしれないから」。
そんな彼らから出る心の叫び。死、悲劇、神の慈悲、苦しみ、そして愛情や希望などが当時のカフェ・カンタンテで歌われ、彼らそこで日々の苦しい現実から逃れていたのでした。だからこそ、そこから生まれたタランタはこの街リナーレスのアイデンティティーとなっているのです。(以上、リナーレスのフラメンコの歴史とタランタ説明写真はリナーレスの博物館より。)

やはりフラメンコはその土地その土地でだからこそ根付いている。そういう歌というものがある。フラメンコにおけるリナーレスとはそういう土地なんだなあ、と。来ようと思って来た訳ではないのだけど、私、こういうことを知りたかったんだ、本やネットの情報じゃなくて、その土地に自分で行って、その土地のことを自分で学びたかったんだ、セビージャにはセビージャの、ヘレスにはヘレスの、レブリーハにはレブリーハの、ウトレーラにはウトレーラの、カディスにはカディスの、グラナダにはグラナダの・・・・etc土地をあげればキリはないけど、同じようにリナーレスにはリナーレスのフラメンコがある。もちろん今回リナーレスにちょっと訪れただけでリナーレスのフラメンコを全部知ることなんて絶対にできないのだけど、(セビージャに16年住んだってそれはできないのだから)それでも、ほんの、ほんの、ほんのちょっとでも、ああこういうことなんだなあって自分の体験として知ることができたというのは、本当に有難いことなのだと思う。アントニオに感謝しなくちゃ。

ちなみに、アントニオの授賞式会場に行く途中に、「Cabrerillo(カブレリージョ)」ペーニャ・フラメンカを見つけました。ペーニャ・フラメンカとは、フラメンコ愛好家が会費を払って運営している場所。舞台を設置しているので、そこでアーティストを呼んでコンサートを楽しんだり、自分達愛好家だけでフィエスタをしたり勉強会をしたり。バルもあるので食事したり。ペーニャによっては会費を払っている会員しか入れない所もあるのですが、このカブレリージョ、ドアが開いていたので、私、すっと入ってしまいました。リナーレスのペーニャにいきなり東洋女性が入ってきて、会員の皆さんぎょっとされてましたけど。(笑)セビージャやへレスのペーニャに東洋女性がいても全然珍しくないですが、さすがにリナーレスではびっくりでしょうね。しかも、「今日か明日の夜にカンテありますか?」とか質問する東洋女(私ですよ、笑)。そのカブレリージョではその晩コンサートがあったそうですが、さすがに40度の熱を出している夫をホテルに残して自分だけペーニャでカンテを聴くわけにはいかないので、残念ながら諦める。でもペーニャ会員の人が、次の日の夜にもリナーレスの他のペーニャでフラメンコがあることを教えてくれました。そのペーニャの名は「Plomo y Plata(プロモ・イ・プラタ)」訳すと「鉛と銀」。さすが鉱山の町リナーレス。そこで採れていたものがペーニャの名前になるという。結局次の夜も夫の調子がまだ良くならなかったのでそのペーニャにも行けなかったのですが、先程の会員の方がおっしゃるにはリナーレス市内には5つのペーニャがあるとのこと。5つ?5つも?リナーレスに???多分セビージャのペーニャの数と同じくらい。結構な数ですよ!!!要するにそれだけフラメンコが愛されているということ。フラメンコが根付いているということ。もっと言うと、カンテです、カンテが根付いているんです。ああ、リナーレスのペーニャでタランタを聴きたかったなあ。プロの歌い手でなくてもいい、愛好家の歌でもいい。ああ聴きたかったなあ・・・・・。

鉱山が栄えた時代に生まれたカフェ・カンタンテ。そこで歌われた鉱夫たちの歌が時代と共にタランタとなる。鉱山は閉山し鉱夫達はいなくなって、でも歌は残る。その歌を、フラメンコを愛する愛好家達がそれを引き継ぐ。なんという歴史なんだろう。

IMG_20181202_141111_486そのペーニャ・カブレリージョで、あ!という踊り手さんの写真を見つけました。実は私、今回のリナーレス滞在中にこの踊り手さんの個人レッスンを受けようと思っていたんです。数年前、セビージャに留学していた友人がリナーレスまでこの踊り手さんのレッスンを受けに行ったという話を思い出して、その踊り手さんの連絡先を伺っていました。彼女と直接連絡が取れたのですが、現在彼女はリナーレスではなくグラナダ在住とのこと。残念だったなあ。でもこの写真を見て、彼女を初めて見た時のことを思い出しました。まだ私がスペインに行く前。「ガルロチ」じゃなくて「エル・フラメンコ」だった時代に日本で踊っていた踊り手さん。ペパ・マルティネスそう、彼女もリナーレス出身。

あの時のペパの踊り、その踊りを観にエルフラに通った当時の自分の気持ちを思い出しながら、今自分がいるリナーレスという土地、その土地のカンテを一つずつ結びつけていったら、ああ、だからペパの踊りってああいう踊りだったのかなあって、思った。20年以上も経ってから。

たかだか数日で分かろうなんて無理だよ。無謀だよ。フラメンコってそういうものじゃないんだからってこの写真が教えてくれたような気がする。

きっといろいろなことが、少しずつ、少しずつ、積み重なって繋がっていく。それってきっと今の時代には逆行してるよね?・・・・でもそれでもいいんだ、って思った。

・・・なんか涙出てきた。

2018年12月3日 セビージャにて。

Comments are closed.