サエタを聴きに、マルチェーナのセマナ・サンタへ行く。

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

金曜の明け方に、セビージャ近郊の町、マルチェーナのセマナ・サンタに行ってきました。マルチェーナに住む夫の友人から、「マルチェーナのセマナ・サンタは特別。サエタがたくさん歌われるんだよ」と教えてもらい、昨年初めて夫と一緒に行きました。

本当にすごい。

これは・・・・!!!と思って今年も行ってきました、マルチェーナ。

セビージャではプロの歌い手たちが雇われてバルコニーで歌うのに対して、マルチェーナでは一般市民がパソと一緒に歩きながら、サエタを歌うのです。パソは金曜の明け方6時に教会を出発するのですが、その段階で教会前にはものすごい人だかりになっています。(私たちは朝4時半にセビージャを出発。車で約1時間でマルチェーナへ到着。)まずそこでサエタがたくさん歌われる。そしてその教会から街の広場までパソは続くのですが、その間も一般市民が次から次へと歌い継ぐ。普通はサエタが歌われる時にはパソは止まるのですが、あまりにも歌い継がれるので、時には止まらずに進んで行くことも。教会から広場まで、多分普通に歩いたら5〜6分くらいの距離のはずなのですが、あれだけ歌われているサエタの度にいちいち止まっていたら、たどり着かないわけです。だからパソが止まってサエタが歌われる時もあれば、サエタを歩きながら歌っている人もいる。それでも2時間くらいかかったかなあ?(その間歩いてサエタを聴き続けている!)。私たちはキリスト像の山車の近くにいましたが、その後ろに聖母像の山車もあり、キリスト像に歌いかける人と、聖母像に歌いかける人もいて、キリスト像の近くのサエタを聴きながら、遠くの方から聖母に歌いかける別のサエタもうっすら聞こえてきました。

そして音楽隊はクラリネット2つとオボーエ1つの3人のみ。たくさんの楽隊が行列をなし、大音量の音楽を奏でるセビージャとは全然違う。セビージャの豪華絢爛なセマナ・サンタに慣れているので、最初はなんだか物足りない感じがしたけれど、そのクラリネットとオーボエの幻想的な音の方がこのマルチェーナのセマナ・サンタにあっている気がするし、本来のセマナ・サンタの意義に近いんじゃないかなと思えてきました。

人々も、道端でパソを見ている人より、パソと一緒に歩いている人達の方が圧倒的に多い。そしてキリスト像の山車の前を歩く人達は誰もキリスト像に背を見せない。つまり、後ろ歩きでキリスト像を見ながら歩いていくわけです。私はそれを最初知らないくてそのまま前を向いて歩いていたのですが、人々がキリスト像を見る眼差し、表情が目に入ってきてハッとしました。私はキリスト教徒ではないから、彼らと同じような気持ちになることはできないのだけれど、何かを信じる気持ちがあればそうなるのは当然だって。それは「パレード」ではない。「見学」しているわけではないのだから。

それにしても次から次へと歌われるサエタ。そして時にはサエタとはちょっと違う歌も歌われます。それがマルチェーナに伝わる「Cuarta(クワルタ)」もしくは「Quinta(キンタ)」と呼ばれる歌。これは、マルチェーナ以外で聞くことができるのでしょうか???歌詞の内容はサエタと同様、キリストの受難について歌われるのには変わりがないのですが、サエタと全くメロディーが異なります。そして短い。終わり方も不思議な感じで、普通サエタを含めてフラメンコの歌というのは、「Caida(カイーダ)」と呼ばれる、メロディーが盛り上がってから落ちるところがある。でもこのクワルタ、もしくはキンタではそのメロディーの落ちがない。メロディーだけ聞いているとなんだか尻切れとんぼみたいな終わりかた。でもその短い中にちゃんと内容が歌われている。

スクリーンショット 2019-04-21 20.33.17こういう時に役に立つのが、「Rito y G eografia」(フラメンコの儀礼と地理)のカンテ編。早速探してみました。→https://www.youtube.com/watch?v=WLFqlFkW3yY

ありました!!!上記のビデオの29:10くらいにペペ・マルチェーナ(マルチェーナ出身の歌い手。写真左)がそのキンタについて説明し、実際にこんな歌だよ、と歌ってくれています。そうそう、これ。ちょっと聞いてみてください。ちなみにここでは「Saeta quinta de Marchena」と紹介されているので、キンタというのはサエタの一種なのかもしれません。

それにしてもなぜマルチェーナではこんなにサエタが歌われるのかを、マルチェーナの友達に聞いた所、マルチェーナにはサエタの伝統が他の土地よりも根付いていて、サエタの学校もありサエタの歌を習う人も多いのだとか。それから、キリストへの信仰心を歌に託すだけでなく、自分の願い事を歌う人達もいました。車椅子に乗った年配の男性の後ろにいる女性二人。多分男性の妻と男性の娘さんなのでしょう。その男性の病気が治るようにキリストに願いをかけて歌っていました。(さすがにこの時はパソは彼らの前で止まっていました。)昨年も今年も彼らが同じ場所にいたということは、きっとそこが彼らのご自宅なのかな・・・・。そしてキリスト像の山車のそばを必死で歩いている年配の男性もいらっしゃいました。多分身体が麻痺している・・・。ふらふらしながら、必死にキリスト像の山車から遅れをとらずに歩き続けている姿を見ていたら涙が出そうになりました。助けようかと思ったけど、街の人達は誰も助けていない。きっと彼が一人でキリスト像のそばを歩くというのが、誰の助けも借りずに歩ききるというのが、彼にとっての願掛けなのかもしれない、サエタを歌わなくても、気持ちは同じなのかもしれない・・・。

それからサエタが歌われる時に、セビージャだと歌い終わった後に盛大な拍手が観客の中から起こりますが、マルチェーナではあまり起きない。そもそも、キリストの受難に関する内容や、または先述の女性二人のように、自分の夫(父)の病気を治してほしい、という内容に対して拍手をするのというのは、よく考えたらおかしいわけです。上手に歌えたから拍手をするにしても、上手に歌うということが本来の目的ではないのだから拍手というのは的外れになってしまうわけ。同様に、マルチェーナでは他のフラメンコの歌と違って、サエタに対して「Ole」という声はかけないものだそうです。

本来のサエタって、そういうものなんだろうなあ。

そんなことをマルチェーナで感じながらセビージャに戻ってきて、SNSに溢れている、歌い手たちのサエタを歌っている動画が見ていたらなんだかちょっと違和感が・・・・。バルコニーで歌っている自分、雇われて歌っている自分、そんな自分をみんなに知らせてたくてSNSにアップしているのかなあ・・・。

ちなみに、上記ご紹介した「Rito y Geografia」の中でパケーラはこう話しています。

「私はバルコニーからサエタを歌うのが好きではない。隅っこのつつましい場所で歌っているのがパケーラよ。」

そうだよ、サエタってそういうものなんだよ、きっと・・・。セビージャのセマナ・サンタは豪華で素晴らしいと思うけど、そして、そんな中でサエタを歌えるというのは歌い手からすれば名誉なことなのかもしれないけど・・・。

本当に信仰心があって歌いたければ、ただ歌えばいい。一人の人間として。

私はキリスト教徒でもないし、フラメンコからしたら外国人。だからこんなこと私が言うことではないのかもしれないけど、サエタを歌うということが、自分の歌い手としてのエゴにすり替わってしまうのであれば・・・・どんなに有名な歌い手でも、どんなに歌がうまくても、それは本来のサエタから離れてしまうのではないか。だから、マルチェーナのセマナ・サンタが特別なのは、そのサエタがサエタ本来の純度で歌われているからなんじゃないか。

・・・・そんなことを思いました。

ちなみに、上記のRito y Geografia では、他の土地のサエタも紹介されています。また、先述のパケーラが話している「サジャゴ」のサエタの収録も素晴らしいです。ご興味がある方が是非ご覧ください。

サエタ、奥が深いです。

2019年4月21日 セビージャにて。

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