石巻に行きました①

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

クルシージョ終了後、セビージャに戻る前に仙台、松島、石巻に訪れました。当初被災地に行くことはためらいがありました。ボランティアをする訳でもなく、踊りに行く訳でもなく、ただ訪れて自分の目で見たいというのは被災された方々に失礼なのではないかな・・・と思っていたので。 でもやはり訪れようと思ったのには理由があります。被災者の知り合いを持つお友達から、日赤の義援金が現物支給されているという話を聞いたからです。支給された冷蔵庫や洗濯機は大きすぎて仮設住宅には入らないとのこと。支給された方々は泣く泣くそれらをリサイクルショップで換金されているとのことでした。どうしてそんなことになってしまうのだろう。前回のクルシージョの収益金も微々たるものですが日赤に送りました。セビージャで行われたチャリティー公演収益金も最終的に日赤に届いているはず。世界各国からの義援金も。ショックでした。

日赤を責めることは簡単。でも私は私で、お金を送ったことで自分が何かの役に立てたのではないかなと、それで一安心してしまっていたのかもしれない。もちろん支援はいかなる形でも続けていきたいけど、義援金を送ったという事実で自己満足していただけに過ぎないのかも・・・そんな自分に気付いたこともショックでした。日赤じゃなくて別の団体に送ればよかったという問題ではなく、自分の問題として。

義援金を送るというのも一つの支援方法だけれど、別の形で何かできないかな。自分の足で被災地を歩き、自分の目で見て、そこから感じたことからスタートしてみようかな、と思ったわけです。場所は石巻。仙台に住む踊り手仲間の藤井かおるちゃんとまず会って、そこから石巻に移動することにしました。ただ、石巻は津波以降営業しているホテルが少ないのと、復興事業の業者さん達が主に宿泊されているため宿泊先を見つけるのが難しく、松島にホテルをとりました。

しょっぱなから私は自分の認識不足を恥じます。仙台〜石巻間は電車で1時間くらいなんだな、とネットで調べていたのですが、藤井かおるちゃんから「電車は仙台〜松島海岸駅間は通っているけど、松島海岸〜石巻は通ってないよ。線路がぐちゃぐちゃだから・・」と教えてもらったのです。そうだよね。その通りだよね。私はバカだ。ちなみに私が訪れた時は仙台〜石巻間を走る仙石線のうち、松島海岸駅〜矢本駅までが電車の代わりに代行バスが走っていました。こんな感じです。↓

代行バスは1時間に1本ほど。電車の到着と時間が合っているので乗り継ぎにはそれほど苦労しません。夕方頃にはたくさんの中高生が利用していました。バスに乗っている間に、そのぐちゃぐちゃの線路や壊れてしまった家が窓から見えました。

石巻駅に着いて・・・。さて・・・。駅は普通に見える。駅にある石巻の地図で、藤井かおるちゃんに教えてもらった被災の特にひどかった地区を確認してみました。歩いていけるのかな。よく分からないので駅員さんに聞いてみました。こんなこと質問するのも申し訳ないな・・・と思いながら。自分のやっていることが正しいのか間違っているのか分からないまま。駅員さんから「タクシーに乗った方がいいよ。運転手が丁寧に教えてくれるから」と 言われ、そのままタクシー乗り場へ。何と切り出していいのか分からないので「すみません、被災地・・・」と言ったとたん「南浜町と魚市場に行きましょう」と言われました。ものすごい勢いでした。「お客さん、今説明しますね。この駅一帯も水につかったんですよ。石巻全体ね。この商店街もね。海からだけじゃないんですよ。旧北上川からも水が来たの。だから石巻全部、ぜ〜んぶ浸水。」「お客さん、震災後来たの何回目?」「え、スペインに住んでるの?いっぱい来てるよ、外国からも日本全国からも。」「写真いっぱい撮って下さいよ。撮る所いっぱいあるから。それでみんなに知らせて下さい。石巻のこと。」

・・・そうなのか。

「そろそろ南浜町ですよ。向こうに山が2つ見えるでしょ。手前の山、あれ、がれきね。」

「え!!!」タクシーの中で響いた自分の声に私は驚きました。完全に思考が止まっていました。よく耳にしていた「がれき」。あんなに山になっているものだったのか・・・。そして南浜町に着きました。運転手さんは写真を撮り終えるまで待って下さり、次の場所まで送って下さるとおっしゃって下さいましたが、写真を撮るのにどのくらい時間を要するか分からないので、お礼を言って別れました。

南浜町。震災後火災した門脇小学校近くで降りました。

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家がぽつんぽつんとは残っている。でも何もない。震災後7ヶ月経ってぽつんぽつんと残っている家も、近づいてみると・・・住めない。

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さらに近づいてみる。

涙が出て来ました。いろいろな所で手を合わせました。何も持っていなくて、たまたま持っていたのはのど飴。それをお供えしてよいのか迷ったけどお供えしました。もう一度手を合わせました。

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そして海の方へずんずん歩いて行く。右手に見えて来たのは今度は壊れた車の山。ここでイラン人の写真家兼画家の方と出会いました。東京に長年住んでいらっしゃるそうで、震災の被害を目にし心を痛めているそう。自分はイラン人だけど、日本のために何かしたいのだ、とおっしゃっていました。

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さらにその先もう少し進むと、あのがれきの山が見えてきました。そしてそのがれきの山を抜けて反対側に出てみるとそこはもう道路になっている。しばらく歩いてみると、その場所は公園だったことに気付きました。

「がれき」と一言で言うけれど、その一つ一つに思い出がある。それを思い出せるくらいまだ形が残っているものもあれば、一体なんだったのかもう分からないものもある。でもそれは私が見ているからであって、そこに住んでいいた人が見ればやはり分かるのだろうか。それとも「がれき」と一言で片付けてしまった方がつらい思いをしなくて済むのだろうか。

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道路を渡ると防波堤が見えてきました。「たかひろ」君は今、「元気」にしているのだろうか・・・・。

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そんなに高くない防波堤。ジャンプして海を見てみました。

こんなに静かな海なのに・・・・

海を見ながら、数週間前に会った友達との会話を思い出していました。

マイホームを建てた友達、そのお友達でこれから建てようと夢を持っている友達、そして私の3人。その素敵なマイホームに招待されました。二人は普段私が思いもつかない単語を連発していました。

「珪藻土」「坪」「固定資産税」

は〜。なるほど。勉強になった。・・・・・とあの時は思ったのだけど、ここ石巻に来てそれらの言葉が、何かの符号のように、それは私には全く意味の分からないモールス信号のように、頭の中でこだましていました。

「ケーソード」「ツボ」「コテーシサンゼー」「ケーソード」「ツボ」「コテーシサンゼー」 ・・・・・・・

一生懸命、そして夢を持って建てた家もあっと言う間になくなってしまった南浜町。人は、そして私も言っていた言葉「家はいつでも建て直せる。」人の命と比べたら・・・という意味でもちろん間違いではない。でもそんな簡単な言葉で片付けられるものなのかな。家ってそんなに簡単に建つものなのかな。そして家は物体だけど物体ではない。そこにはたくさんの思い出と歴史が詰まっている。家がただの家だったらそれは家ではない。そこに人が住むから家になる。人がその家に命を吹き込むから。

思い出は心の中にいつまでも生き続ける、とも考えられるかもしれない。でもそれは同じ状況になっていないからそう言えるのはないか。もしそれが本当だとしても、本当に家をなくしてしまった人がそう思えるまで一体どれほどの時間がかかるのだろう。

そして家だけでなく命を失ってしまった人。残された人。

人間が作り出す「物体」にどれだけの意味があるのだろう。でもその「物体」がないために苦しむ人達もいる。震災後7ヶ月も経っている今でさえ。

日が暮れてきました。南浜町を後にし、松島のホテルに帰ることにしました。明日もまた石巻に来よう。

次回ブログに続く。

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2011年10月30日 セビージャにて。

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