Jun 6

みなさんこんにちは。

東日本大震災復興支援特別プロジェクト“SOMOS JAPON”。スペインのフラメンコ・アーティストへのインタビューと、彼らからの応援メッセージの第25回目。

今日は、マルタ・バルパルダへのインタビュー&彼女からのメッセージです。

マルタと私は数年前、クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校のクラスメートでした。表面的な人が多いクラスの中でマルタとはよくいろいろな話しをしたものです。先日久しぶりにマルタとお茶をしたら、なんとマルタは震災の時に福岡にいたそう。国が出した飛行機でほとんどのスペイン人が“脱出”した中、マルタは日本に残ることを決心したそうです。日本人からすると「福岡は被災地から遠いから大丈夫」と思ってしまうかもしれませんが、外国人からすればどんなに被災地から離れても日本は日本。スペインのニュースで何度も何度も流された、“脱出”する在日スペイン人の映像とコメントを思い出した私はマルタの決心に心底驚きました。と、同時にそれができたのはマルタだからだ、と気付いたのです。以下、日を改めて彼女にお願いしたインタビューです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第25回 マルタ・バルパルダ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】日本にいた4ヶ月間。1月から4月末まで。震災があったから。でも私自身がつらかったのではなく、私のことを心配する家族のことを思い、つらかった。知っているでしょう?スペインのニュースがどんなか。(萩原註:私の個人的な見解としては、スペインの報道は衝撃的であればあるほど、ニュースとしての価値が高いというような認識があります。特に映像は、日本では考えられないようなショッキングな映像がお昼間に流されることも。スペインに来たばかりの時、私はニュース映像を見ながら食事をすることができませんでした。震災に関する報道も誇張されたり、誤報に近いものもたくさんありました。)私の家族はそのニュースでしか日本を知る事ができなかったから。家族からは「帰ってきなさい」と何度も何度も言われ、私の仕事仲間は「空港が閉鎖されて日本から出られなくなる」とか「これから先もっと大きな地震が来るのよ。場所もどこだか分からない、ここかもしれない」とパニックになって叫んで飛行機に乗っていった。私はここに残るか飛行機に乗るか、決心しなければならなかった。そして決心した。でも被災地の日本人からすると、そんなことは取るに足らないことだけど。

【答え②】なぜ残ることにしたか?日本人が日本に残っていたから。スペインで同じことが起きたら、全員海外脱出してしまう。モロッコとかイタリアとか。日本人は誰も日本を見捨てなかった。私のクラスの生徒もその家族も皆残っていたから。福岡では、水も電気もそのままあったし、クラスもお店も今まで通り普通だった。何か生活に支障があるとか、クラスが閉鎖されるとかだったら私も考えたかもしれないけど、今まで通り何も変わらなかったから。みんなが普通に生活しているのに、私だけ逃げるのはおかしいでしょ?私が日本にいたのは4ヶ月間。その間私は日本人として過ごしていたの。たとえそれが“招聘された”スペイン人フラメンコ教師という立場だとしてもね。だから私は自分の周りの日本人と同じようにすることにした。

もちろん家族は最初は理解してくれなかった。スカイプで話していたの。どんなに説明しても「帰ってこい」としか言われなかった。でも日本人がこの状況をどのように我慢しているのか、どのようにして落ち着きを保っているのか、それがスペインのニュースでも流されて、それが私の家族を落ち着かせたの。(萩原註:スペインの報道では、がれきの中から自衛隊員に助けられて何度も頭を下げる老婦人の映像や、支給物資を待つ列に整然と並ぶ日本人の姿等が報道されました。どちらもスペインではあり得ない光景です。)日本人は誰もパニックにならなかった。あの冷静さ。日本社会全体が私も私の家族も助けてくれたのよ。

全てのクラスが終わった後、生徒達から「日本に残ってくれてありがとうございました」と言われた。その時、この4ヶ月は私の人生にとって特別な時だったのだと思った。

【答え③】たくさん踊ること。たくさん仕事をすること。たくさん学ぶこと。・・・・(しばしの沈黙の後)周りの人達とたくさん飲むこと(笑)。

【メッセージ】それにしても不公平。震災や津波に襲われるなんて。そんなの何もない国だってあるのに。不公平。

写真の中のメッセージ:国旗はジレンマである。フラメンコの魂に祖国や地理や国籍は存在しない。自分を進ませるその道で、私はあなた達のキスと抱擁をずっと覚えているでしょう。 マルタ・バルパルダ ♡日本

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この“SOMOS JAPON”に協力して下さったアーティストの中ではまだまだ無名に近いマルタ。でも若さの中に時としてとてつもない深淵さを垣間見せます。これから先一体どんな踊り手になるのでしょうか。

2011年6月6日 セビージャにて。

 

May 30

みなさんこんにちは。

東日本大震災復興支援特別プロジェクト“SOMOS JAPON”。スペインのフラメンコ・アーティストへのインタビューと、彼らからの応援メッセージの第24回。

今日は、ラモン・マルティネスへのインタビュー&彼からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第24回 ラモン・マルティネス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】幸運なことに私は健康に恵まれている。自分の人生の中で最悪だったことは、自分の近くにいた人・・・・ずっとそばにいた人・・・・・・が病気になったこと。そしてその人はもういない。

【答え②】どんなにつらいことからも学ぶ事ができる。毎日毎日が新しいんだ。いつも夢を持つんだ。今日はいる。でも明日はいるかは分からない。生きる気力を持つ事。「物」ではないんだ。「物」でないものが幸せなんだ。それはお金で買うことができないんだよ。

【答え③】毎日幸せでいること。

【メッセージ】津波や放射能で日本は苦しんでいる。でも同時に、誇りを持つ事ができる。世界に、そのすばらしい人間性を示すことができたから。

私はエル・フラメンコ(萩原註:東京にあるタブラオ、フラメンコレストラン。ここではスペイン人アーティストが半年の契約で出演する。)に出演していました。日本が大好きなんだ。日本には借りがあるんだ。たくさん助けてくれたんだ。いつも感謝している。日本人が持つ、フラメンコに対する愛情、敬意、物ごとをきちんとおこなうこと。長い時間をかけて日本はフラメンコの世界の中で重要な位置を築いてきたんだ。震災によってフラメンコ界は喪に服したんだよ。

写真の中のメッセージ:希望

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今日の私は幸せだったのだろうか。

・・・・・・・・・少し考えた後、

今日生きていたことだけで幸せだったのだと気付きました。

2011年5月30日 セビージャにて。

 

May 29

みなさんこんにちは。

東日本大震災復興支援特別プロジェクト“SOMOS JAPON”。スペインのフラメンコ・アーティストへのインタビューと、彼らからの応援メッセージの第23回。

今日は、前回協力して下さったエル・フンコの奥様で同じく踊り手のスサーナ・カサスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第23回 スサーナ・カサス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】兄の死。その時私は「Por un sueño」(萩原註:スサーナと彼女の夫であるエル・フンコによる舞台作品)の練習中だった。日曜日の夜、私は兄にさよならをしたの。その時がもう最後だと思った。そして水曜日の朝、兄は亡くなった。9月9日だった。その日セビージャに戻ったけれど、舞台の練習中だったし、8ヶ月の子供を残しておくこともできなかった。だからすぐにカディスに戻らなければならなかった。泣く事ができなかった。練習や舞台に悲しい雰囲気を持ち込むことはできなかったから。落ち込みは1ヶ月後に来た。兄の子供達が兄の遺灰をウエルバの防波堤に捨てたの。私はその遺灰を探しに行った。その時初めて私は泣いた。

【答え②】自分の子供の存在を感じること。そして踊り。ソレアを踊って私は泣いたわ。

【答え③】踊り続けること。今出演しているタブラオや舞台を続けること。でも野心はないの。来た仕事をを引き受ける。楽しむことね。

【メッセージ】日本は長い間スペインを助けてくれた。だから借りがあるのよ。私は日本に行きたい。

写真の中のメッセージ:あなた達が力強さ、勇敢さと根性を持った人種であることを、あなた達は示し続けるはずです。一人のセビージャ女性からのたくさんのキスを。 スサーナ・カサス

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女性は子供を持つと強くなるのだろうか、子供が女性を強くするのだろうか、私が子供を持ったらどうなるのだろう。

2011年5月29日 セビージャにて。

May 27

みなさんこんにちは。

東日本大震災復興支援特別プロジェクト“SOMOS JAPON”。スペインのフラメンコ・アーティストへのインタビューと、彼らからの応援メッセージの第22回。一時帰国中は一時休止していましたが、日本ではたくさんの方から「何度も読み返しています!」「涙が止まりません」・・・たくさんのお言葉を頂きました。どうもありがとうございました。みなさんから頂いた感謝のお言葉は、そっくりそのまま協力して下さったアーティスト達に贈りたいと思います。

なお、これまでのインタビューとメッセージはご要望にお応えし、第1回から全て1カ所にまとめました。このブログ右側の大きい日本の国旗をクリックして下さい。今後は少しずつ継続してゆきたいと思っています。

さて今日はエル・フンコへのインタビュー&彼からのメッセージです。フンコはこのインタビューに是非協力したい、と私がセビージャに戻るのを待っていてくれていました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第22回 エル・フンコ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へメッセージをお願いします。

【答え①】自分が外国にいる時に家族の問題や死に直面すること。アーティストはほとんど海外公演をしていることが多い。その時にその知らせを受けるのは本当につらい。家族から離れているから。最期を看とる事ができないから。人生というのは家族の結びついていること。その時自分が何もできないというのは本当につらいことなんだ。私の祖母が亡くなった時、私は何もできなかったんだ。

(私に向かって)君はここにいて、フラメンコを学び人生を楽しんでいるだろう?でも同時に家族から離れている。私たちと同じ状況だよね。だから分かってもらえるね?(深くうなずく萩原)

【答え②】踊り。観客からの拍手。自分の仲間。痛みの感情。全てが乗り越えるのに役立ってくれる。そういう時の踊りは特別なんだ。踊りは癒しでもあるんだよ。踊ることで自分を落ち着かせることもできるんだ。

【答え③】最新舞台作品の「mirando al pasado」を続けること。ロリ・フローレス、ラファエル・ロドリゲス、ガジ、フアン・ホセ・アマドール、ミゲル・イグレシアス。(萩原註:以上、フンコの共演アーティスト。他の共演舞踊家は、フンコの奥様であるスサーナ・カサス)彼らと共に海外公演をしたいんだ。本当の踊りの公演だよ。舞台芸術や照明などでカモフラージュさせた踊りじゃなくて、いいギター、いいカンテ、踊りだけ。他のものはいらないんだよ。それが本当の踊りなんだよ。それによって即興もしやすくなるからね。そして学び続けること。来た仕事を引き受けること。

【メッセージ】9月に日本に行くことになると思うよ。日本に行く事を恐がるのではなく、私達が行く事で今まで通りのフラメンコの動きに戻していかなくては。日本の人達を元気にしたいんだ。

写真の中のメッセージ:日本を、君たちをとても愛しています。たくさんのキスと愛を持った力強さを。エル・フンコ

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文化庁新進芸術家海外派遣研修員として国費留学をしていた時のことです。任期完了まであと1ヶ月を切った時に、あと少しでやっと2年ぶりに日本に帰れる時、私の祖母は亡くなりました。その次の日に踊ったソレアを私は生涯忘れることはないでしょう。そして祖母のお葬式にすら出られなかったことも。

2011年5月27日 セビージャにて。

Apr 11
¨SOMOS JAPON¨ 21 エル・トロンボ
La Yunko | Somos Japon | 04 11th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はエル・トロンボへのインタビュー&彼からのメッセージです。このインタビューの趣旨と質問内容を話すとトロンボは「その質問に対する答えを持っているアーティストとそうでないアーティストがいると思う。とても重要な質問だね。私はそれに答えられるし、語らなくてはいけない使命を持っていると思う。」と前置きをし、インタビューが始まりました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第21回 エル・トロンボ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私の足は生まれた時から奇形だった。両足のつま先が完全に内側を向いていたんだ。子供の頃、周りの人間は私を見る時、私の目を見ずにまず足を見たんだ。その時初めて自分の足に問題があると気づいたんだよ。だって母はいつも私の目を見て話してくれていたから・・・。サッカーをする時に、誰を自分のチームに入れるかじゃんけんをして決めるんだ。でも私はいつも最後に残された。誰も私をチームに入れたがらなかった。だから子供のころからいつも自分は疎外されている、と感じていた。人より劣っているというコンプレックスをうえつけられた。それが自分の人格形成に影響を及ぼしたんだ。

4〜5才の頃だと思う。ラジオから流れていた音楽を聞いていた私は両腕を上げたらしい。その時母は「オレ!」と私に言った。自分の子供が初めて自分を表現をしたと。ラジオから流れている音楽がなんだったか分からない。でも今のようにポップスとか外国の影響を受けたフュージョン音楽ではない。スペインの、アンダルシアの文化のかおりのする音楽だったはずだよ。

そして母は私を地元の踊りの教室に連れて行った。フラメンコではなくて、セビジャーナスを地元の人に教えるような教室。先生はロサという名だった。その先生に「この子にはアルテ(萩原註:芸術性)がある。私には教えきれない」と言われ、別の教室で習うように勧められた。フェリア通りにあるペペ・リオスの学校。そこで私はフラメンコを習い始めた。セビジャーナスを踊る分には普通の靴でも問題ない。でもフラメンコを踊るためにはボタ(萩原註:男性がフラメンコを踊る時に履く靴。丈はくるぶしくらいまである。)を履かないとだめだ。当時私はひざから靴までギプスのような金具を両足につけていたから、そのボタを履くことができなかった。だから「カルメリージャ」という靴屋で私専用の特注のボタを作ってもらったんだ。そしてペペ・リオスにサパテアードの技術を習った。それを毎日毎日練習することで私の足先の感覚は鍛えられた。そしてそれが私の足のためには結果的によかったんだ。

そうするうちにギプスを取り外せるようになった。それから私はイシドロ・バルガスに習い始めた。未だに左足は少し内側を向いているけれど、この時から本格的に足を動かせるようになった。イシドロからは、アカデミックなフラメンコ舞踊を習ったのではない。フラメンコを踊る上での「鍵」を教えてもらった。どのように観客の前に姿を現すか。どのようにして自分自身を観客に見せるのか。どのようにして観客の前から去っていくのかということ。そして私は「ロス・ガジョス」や「トローチャ」(萩原註:セビージャにある、フラメンコを観せる商業施設。「トローチャ」はなくなってしまったが、「ロス・ガジョス」は現在も営業中。)で踊り始めた。

そしてその「トローチャ」での私の踊りをファルーコが見たんだ。ファルーコは私を弟子にしてくれた。当時ファルーコは彼の娘達を連れてフェスティバルに出演していたけど、そこに私も入れてくれたんだ。

そしてその頃の私の踊りをマリオ・マジャが見て言った。「まだ何かある」。当時私はファルーコの影響を受け、フラメンコの根っこの部分を強く持った踊りをしていた。しかしマリオはそれだけでなく、舞踊としてのフラメンコの可能性を教えてくれた。強い根っこを持ったフラメンコと、舞踊性のバランスを取ることを、ね。そしてフラメンコが世界に通じるものであること、振付の観点から、舞台制作の観点から教えてくれたんだ。自分が踊るだけでなく、舞台を創る側になった時に、また舞踊団を持った時にどのようにするかということ。

当時私は18才だった。80年代。スペインでは独裁政権が終わり、大きな民主化の流れがあった。たくさんのヒッピーがうまれ、なんでもあり、羽目を外せば外す程いいという風潮に染まっていた。そしてその流れの中で若者の多くが麻薬やアルコールに手を出した。それが「自由」だというスローガンがスペインを覆った。たくさんの若者がそれに溺れた。・・・・そしてトロンビートも麻薬に溺れたんだ。(萩原註:トロンボは自分自身のことを自分の愛称、「トロンビート」と呼ぶことがある)

【答え②】あるフェスティバルで踊った時に批評家にこう言われたんだ。「踊りはいい。でもつま先が内側を向いていて美的によくない」その時そのフェスティバルに出演していたフェルナンダ・デ・ウトレーラはこう言った。「私は、自分がソレアを歌う時の顔はとっても不細工だと思っていた。でもみんなに『なんてフラメンコの顔なんだ。フェルナンダは美しい』と言われたのよ。」それを聞いて思ったんだ。フラメンコではきちんと形を整えることも必要だ。でも形が崩れることこそ実はフラメンコなんだ、って。私の足に問題があると思う人、そこにしか目がいかない人は、目に問題がある。物ごとの考え方に問題がある。心に問題がある。私に足の問題があるようにね。

麻薬中毒からどう立ち直ったか。母は私を信じてくれた。助けてくれた。そして神を信じること。子供の頃からマリア像などを拝んだりしていたよ。でもそれは信じていたというより、文化や風習として身につけていただけ。でも聖書を読んで気づいたんだ。教会というのは自分の心の中にある。1年に1週間だけ、セマナ・サンタ(萩原註:復活祭。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが復活したことを祝う宗教行事)の時だけ復活を信じるのではない。毎日人は復活できるんだ。自分の人生のでの足や麻薬中毒の問題は、自分が新しく生まれ変わるため、新しい人生のための準備期間だったんだよ。聖書は自分にとって人生の道しるべになった。それまで自分は表面的に生きていたことに気づいた。本当の問題は自分自身の中にあるということに気づいた。聖書を鏡にして自分自身を映し出し、自分の内面性を働かせるようにしたんだ。そうして自分自身を助けることができるから、他人を助けることができるんだ。

そして自分のフラメンコ教室。自分がそうやって学んだことを実践に移す場所がここだった。12年間。たくさんの人の気持ちを知ることができた。そして自分が他人を助けることができた、と知ることによって自分を治癒することができた。そして他人が自分を助けてくれる、ということ。その相互のコミュニケーションが、私をよりよい人間にするのに役立ったいると思う。人とどのように接するか。他人との調和を探すために。

私は刑務所でフラメンコの音楽を教えている。受刑者は自分達が疎外されていると感じている。コンプレックスがあるんだ。昔の私と一緒。だから彼らを助けている。

それから子供達にも教えている。ポリゴノ・スルやサン・フアン・デ・アスナルファラッチェ(萩原註:セビージャ中心から離れた場所にある地区。ジプシーが多く居住する。麻薬や売春などの社会的問題を多く抱える。)に住んでいる子供達だよ。彼らはフラメンコの現在で未来でもあるから。フラメンコの踊りの振付けを教えているのではない。“音楽”の価値を教えているんだ。人間は皆、楽器だから。そこから出発して踊ったり、歌ったり、弾いたりする。人としてどう他人と調和するのか。踊る前に、弾く前に、歌う前に、人は他人との波長を合わせなければならない。人としての波長。そのためには5つの感覚が必要なんだ。

まず「耳」。現代はいろいろな情報が多すぎる。音楽もいろいろなものが混ざって“フシオン”(萩原註:フュージョン音楽。スペイン語ではfusiónと言う。)になっている。フュージョン音楽も素敵だよ。でも基礎がなければ“コンフシオン”(萩原註:スペイン語でconfusiónと言う。混乱、取り違えの意味。)になる。“www.com.fusion” になっちゃうんだよ。(トロンボ笑う。私も笑うが、大きくうなずく。)だから聴くことを学ぶんだ。

そして「目」。人は見ていても表面的にしか見ていない。そして否定的な見方をする。そうではない。その人の中にある最も重要なものを見るんだ。そして「目」は全てを語る。人を見るだけで、相手を抱きしめることもできるし、相手を突き放すこともできる。

「鼻」。音楽は吸って吐くものだから。

「さわること」。強さは必要ないんだ。(トロンボは私の膝をちょんとさわる)敏感さが必要なんだ。

「味」。(トロンボは自分の唇をなめる。)人は「なんだ、味なんてないじゃないか」と言う。「口は乾いている」と。でも私たちの中には大西洋があるんだ。たくさんの水がある。それを動かすんだよ。

そして6つ目のもの。それは「弱さ」だよ。今説明した5つの感覚を研ぎすませ、完全にするには「弱さ」が必要なんだ。自分が元気で強い時にはそれに気づかない。自分にはエネルギーがあると思っているから。でも本当は重要なのは「強さ」ではない。「弱さ」なんだ。その「弱さ」があるから逆に自分を生まれ変わらせ、新しい「強さ」を持って立ち上がることができるんだ。今の日本がこれから立ち上がるようにね。

【答え③】“アーティスト達の家”を作りたい。アーティストというのはいつもあちこちで公演していて、一所に落ち着いていない。いつもスーツケースが広がったままになっている。そんなアーティスト達が集まれる場所を作りたいんだ。そしてそのアーティスト達と他人を助けるためのプロジェクトを組む。その考えや行動を共有する場所を作りたい。子供達をアーティストにするためのプロジェクト。それからフラメンコだけでなく、詩や写真やフラメンコ以外の舞踊や、いろいろな芸術を学ぶためのクラス。それはフラメンコだけでは学べない創造性を育むことができる。芸術性を豊かにするんだ。そして麻薬やアルコール中毒の問題から立ち直ったアーティスト達の妻の会合の場所にもしたい。たくさんのフラメンコアーティストがその問題をかかえている。中毒から立ち直ったアーティストの妻達が、現在問題を抱えるアーティストの妻達を支援できるような場所。クリスティーナ・ヘレン(萩原註:セビージャにある「クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校」のこと。クリスティーナ・ヘレンはアメリカ人。)みたいのではなく、ここのアーティスト達による、アーティスト達のための場所だよ。たくさんの経験をし乗り越えてきたアーティスト達が他の人達を助けるための、ね。

【メッセージ(写真)】9才にして初めて旅立った先が東京・日本でした・・・。そのことを私はずっと覚えているでしょう。あなた達は、フラメンコという呼ばれるこの音楽の、とりわけ優れた子供達であり果実です。あなた達があなた達の両腕を上げることを、私たちは必要としています。トロンビート 日本への神の祝福がありますように。

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2011年4月11日 明日、日本へ発ちます。インタビューは一時休止させて頂きます。 セビージャにて。

Apr 10
¨SOMOS JAPON¨ ⑳ ナタリア・マリン
La Yunko | Somos Japon | 04 10th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はナタリア・マリンへのインタビュー&彼女からのメッセージです。ナタリアは、3月30日セビージャ・アラメダ劇場にて行われたチャリティー公演に出演してくれました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第20回 ナタリア・マリン

(フラメンコ歌い手)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私は18才で娘を産み、その子が1才の時に未亡人になった。

【答え②】「何か」。なんと呼べばよいのか分からない。天使?自分の周りにある「何か」が私を助けてくれた。

愛さえあれば簡単なの。たくさんの愛。でもその愛は自分に対してではないの。他人に対する愛。私にとっては娘に対する愛だった。努力するのは大変よ。でも道を歩くのは簡単なの。愛さえあれば。ここからバルケータ(萩原註:セビージャにある橋)まで犬を散歩させるとするでしょう。道は同じ。石ころがあるかしれないし、でこぼこしているかもしれない。でもただ散歩させるのと、道にソーセージを置いて散歩させるのとでは全然違う。ただ散歩させるのは苦労する。でもソーセージという目標があれば犬は簡単に散歩する。私にとっても同じなの。犬にとってのソーセージが、私にとって娘だった。娘の成長を見るのが私にとっての何よりの幸せだった。充足感を感じていた。それが愛なのよ。

そして努力した。娘を養うために、階段掃除もした。ウエイトレスとしても、店員としても、事務員としても働いた。どんな仕事でもした。でも歌を仕事にすることはできなかった。娘を預けられなかったから。娘が10才になるまで私は歌えなかった。歌への情熱は持っていた。でも10年間歌えなかった。

娘に与えられた時もあったし、ちょっとしか与えられなかった時もあった。それは仕方がない。でもそれは結果的に子供をちゃんとした人間に成長させる。なんでもかんでもいつでも好きなだけ与えられる子供よりも。なぜなら私の娘はものの価値を知る事ができたからよ。私は自分が働いてきたこと、娘を育ててきたことに満足しているの。

そしてもちろん家族の協力も。私の父は私をとても助けてくれた。一人では生きてこれなかった。

今、日本でもたくさんの人が(フラメンコの歌を)歌うわね。みんな一生懸命努力して歌っている。それは素晴らしいこと。でも勉強して学んだ歌を歌うのと、苦しみを持って歌うのとは違う。闘わなくてはいけないの。何かのために。私は娘のために闘った。

【答え③】私は一日一日を生きている。今日やることは今日のうちにやってしまうの。明日私は何をするのかしら?多分母の散歩を手伝うと思うけど。仕事の日だけはちゃんと知っているし準備するけどね。食べていかなくてはならないから。8月に“ヒビヤ”に行くと思う。(萩原註:「日比谷野外大音楽堂」で行われる、小松原庸子スペイン舞踊団の公演)節電のために16:00開演と聞いたわ。“ミンオン”(萩原註:「民音」)のツアーにも参加する。今年の夏は、特に心のこもった公演になるはずよ。ベルランガ(フアン・カルロス・ベルランガ。ナタリアと同様、小松原庸子スペイン舞踊団で働くギタリスト)と話しているの。ツアーのうち数公演をチャリティー出演という形にしてもいいって。9月には“マルワ”(萩原註:スペイン舞踊振興マルワ財団)のフェスティバルにも出演するわ。

でもプロジェクト?そんなものはないわよ。人生は一瞬のうちになくなるものだから、今を楽しむのよ。自分の周りの家族や友達とね。

フラメンコというのは、その瞬間瞬間で生み出されるものなの。その時のギターの音がカンテを呼び起こし、そして踊りを引き出す。その瞬間のエネルギーからもたらされたものがフラメンコなの。自分の周りの状況、他人との関係によって感情はかわる。自分の身体も感じ方も考え方もその時によって違う。いろいろな要素によって自分が変わって、それがフラメンコにも現れる。あらかじめこう歌う、踊る、弾くと決めてその通りにするものではないの。生き方も一緒。特にアーティストというものはそういうものだと私は思っている。心に従うことが、生きていく上での一番の道しるべなのよ。

【メッセージ】私は日本でたくさんの事を学んだの。ヨウコ(萩原註:小松原庸子氏)のスタジオでね。そしてたくさんの一流のアーティスト達と知り合うことができた。ローラ・グレコ、クリージョ・デ・ボルムホス、マリベル・ガジャルド、マルコ・バルガス、フアン・ホセ・アマドール、ハビエル・バロン、フアン・オガジャ、マリア・アンヘレス・ガバルドン、デブラ、アントニオ・ガメス。スペインではそんな機会がなかった。日本は私を豊かにしてくれたの。アーティストとしての質を高めてくれたの。だからとても感謝している。

そしてそれだけではない。泣いて笑って怒って。文化を学んだわ。日本人の生き方。スペインとは全く違う。日本には寛容さがある。物ごとを、それはそういうものだと受け入れる寛容さ。信じられないくらいに。スペイン人がうらやむくらいに。そして信じられないことはまだある。自転車を鍵もチェーンもかけないでそこに置いておくでしょう。30分買い物して帰ってきてもまだそこにある。私の友達が電車の中で忘れ物をしたの。そしたら忘れ物はホテルまで届けられた。空港でスーツケースが壊れたら、お金が支払われる、修理される。店のレジで待っていても、0.2秒で店員が来る。スペインの救急病院では急患でも2時間以上待たされるというのに。日本で賞味期限の過ぎたヨーグルトなんて売っていないし、腐った果物なんて見たことない。本当に日本は信じられない国なのよ。(萩原、全くもって同感。)

私は日本で働くことによって、たくさんのことを学び、視野を広めることができた。それによって、何が本当に大切なのか学ぶことができたの。同じところにずっと住んでいたらそれはできなかったと思う。だから日本に感謝している。私は“ハポニョーラ”。(萩原註:ハポネサ(日本人女性)とエスパニョーラ(スペイン人女性)を組み合わせた造語。)

そしてここで私は「ナタリアは日本で働く歌い手」と認識されている。もちろんスペインでも仕事しているけど。だから日本に何か起こった時に知らんふりすることはできない。私は今まで日本のために歌ってきたんだもの。知らんふりたら、「じゃあ、お前はなんなんだ」という話しになる。自分はだませる。他人もだませる。でも神様をだますことはできない。飼い犬のフンを「どうせ誰かが始末してくれるだろう」と思って見て見ぬ振りするのはスペイン人。でも私はハポニョーラなの。だから日本を助けて当たり前。誰かがやってくれるだろう、じゃなくて自分がやるのよ。

30日の公演でも私は日本のために、“私の”日本のために、自分の全てを出したの。アーティストがたくさんいると自分を一番目立たせようとする人もいるのよ。でも私にはそんなこと関係ないの。18才で娘を産み、歌い手としてスタートしたのは29才の時。10才の子供を持つ母だったの。私はすでに大人の女性だった。だからアーティスト同士の嫉妬や競争でいがみ合う世界には属していなかったの。あの日は男の歌い手が多くて、私は自分の音域で歌うことができなかったし、カルメン(・レデスマ)が私を舞台中央に引っ張りだしたから、マイクなしで歌った。でも重要なことは誰かより上手に歌うとか、どれだけ有名な踊り手に歌うかとか、そういうことではない。私は日本のために全身全霊を込めて歌った。

今年中に数回日本に行くでしょう。

【写真のメッセージ】私の全ての愛情と全ての尊敬の念を持って私は日本を信じています。私は自分がハポニョーラであることに誇りを持っています。 ナティちゃん(萩原註:ナティはナタリアの愛称)

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30日の公演でナタリアはカルメン・レデスマにブレリアを歌いました。インタビューでナタリアが話したように、彼女はカルメンに連れられて舞台中央へ。マイクなしで歌ったナタリアの歌声は私がいた2階楽屋までは聞こえなかったけど、その時カルメンとの間に生み出された濃密な真実の瞬間。そのフラメンコの瞬間が私の涙と「ole」を引き出していました。二人の魂はきっと日本に届いたことと思います。ありがとう。

2011年4月10日 セビージャ、ナタリア自宅にて。

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