「第15回少人数制クルシージョ」を終えて。& 振付とカンテの関連性

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

ご報告が遅くなりましたが、お陰様で「第15回少人数制クルシージョ」(東京・2014年12/19〜2015年2/11)は無事終了しました。受講生の皆様、会場となったスタジオアルソル、MARUWA財団スタジオ、中野エストレージャスの皆様誠にありがとうございました!

今回もたくさんの方々に学んで頂けてとても嬉しいです。何年も前から継続受講されている方、時々受講される方、久々にひょっこりクラスに現れる方、新規の方、皆さまそれぞれですがお忙しい中本当に熱心に受講されています。

元々私のクルシージョでは基礎を大切にクラスを進めています。舞踊テクニカ、コンパス、カンテとギターを聴く重要性。踊り・歌・ギターのコミュニケーションの仕方。これらを学んでいなければ、いくら振付を学んでもそれは意味をなさないからです。もちろん数日間で振付を学べれば楽しい。てっとり早く、○○先生の振付という〝お土産〟もついてくる。でもそこで学んだ振付はその名の通り、「振付」にしかすぎないんですよね。教える方からすると「振付」を教える方が楽。とにかく限られた時間の中で「振付」さえ仕上げれば生徒は満足する。一人一人細かく見る必要がない。どこができていないのか、その生徒の改善点をチェックする必要はない。その生徒の長所はどこかそれを見つけて引っ張り出す必要もない。全然踊れていなくても、全然フラメンコでなくても気にしない。とりあえず「振付」を教えて生徒に「ビエーンビエーン」と言っていい気分にさせ、その「振付」で身体を動かし汗をかかせれば、そのクルシージョは生徒達から「楽しかったー」と言われ大成功!というわけです。

うーん、クルシージョに限らずこんなクラスはセビージャにもたくさんあります。個人的には非常に疑問を持っているわけですが、人それぞれフラメンコに対する目的や学び方、大切にしていることが違うので、一概にそれが間違っているとも言えません。ただ私にはフラメンコの学び方に対して一つの自分なりの考え方を持っていて、その考え方からクルシージョを開講しています。クルシージョ案内にもそれは事前に記載し、生徒さん達もそれを理解して、それを学びたくてクルシージョに通って下さっています。その意味ではお互い求めるものと与えるものが一致しているため、私達は充実して学び合えるというわけです。逆に言うと私のクルシージョで「振付」だけをとろうと思っている人は確かにとれるかもしれませんが、成長できません。「振付」はとったつもりでも、一番重要なことに気付いていないため、何年経っても同じなのです。残念ながら。

毎回のクルシージョで基礎を大切にしているわけですが、ただ、全く振付を行わないというわけでもなく、基礎を実践するための振付も少し行っています。振付を進めることを目的としていないので、毎回のクルシージョで少しずつしか進んでいませんが、きちんといろいろなことを説明しようと思ったら、必然的にそうなってしまいます。今回のクルシージョで特に印象的だったのは、最終日の「カンテ・ギター伴奏付クラス」だったかな。これまでに少しずつ学んだ振付(アレグリアス、ティエント、タンゴの歌振りのみ)を実際のカンテとギターの伴奏付で踊るクラス。カンテは瀧本正信さん、ギターは久保守さんに来て頂きました。どのクラスも最初踊ってもらった時はうーん、と唸ってしまいました。

振付をなぞっているだけ・・・・。

確かによく復習しているのはよく分る。よく学んだと思う。でも全然カンテと合っていない。ここで言うカンテと合っていないというのは、カンテの尺(長さ)より長いか短いか、レマーテの場所が合っているか、という問題ではありません。カンテとの呼吸が全然合っていない。カンテがカラオケの伴奏のようになってしまっている、その踊りのせいで。

耳はついている。聴力はある。カンテは聞いている。でもここで言うカンテを聴くということはそういうことではありません。耳を〝フラメンコ化〟しなくてはならないのです。〝フラメンコ化〟することによって、聞こえてくる音、感じられる呼吸、ため、カンテの伸び縮みが身体に入ってくるのです。そしてそこで初めて習った「振付」というのが役に立ってくるのです。ただしただの動きの羅列にしか過ぎない「振付」は全く役に立ちません。むしろカンテを聴くことを阻害します。注意しなければならない、この手の「振付」は。もしかしたらかっこいいかもしれない、見栄えがするかもしれない、フラメンンコっぽいかもしれない。でもカンテを無視した「振付」はフラメンコに対する冒涜です。フラメンコとはカンテだから。

世の中にはいろいろな「振付」があると思います。好みも様々です。その上で私にとって「いい振付」というのは、それを踊ることで、カンテを踊れる振付です。最近ではたくさんのクルシージョがあり、インターネットでも簡単にフラメンコの動画を見ることができます。いわば、誰でも簡単に「振付」をとれる時代。あっちの先生とこっちの先生と、動画からとった動きを切り貼りして「振付」を完成してしまう人も結構多い。振付の作り方として、決して間違いとは言えませんが、そこにカンテが存在していない場合、その振付を踊っている人、その振付を習った人は決してフラメンコを踊ることはありません。なぜならカンテが聴けないから。その振付のせいで。

ただしその振付がカンテに基づいていたとしても(カンテを理解している人が振付をしたとしても)、実際その振付を踊りさえすればカンテを踊っていることになるかというと違います。なぜならその振付者の中に流れているカンテと実際歌われるカンテが同じとは限らない、違う場合がほとんどです。なぜなら違う人間だから。同じアレグリアスでも歌のトーンが違う、同じティエントでも歌のスタイルが違う、同じタンゴでも息継ぎの仕方が違う、とにかく何でも違う。同じ歌い手でもその時のコンデションによっても違う、誰が踊るかによって、その踊り手がカンテを理解しているか感じているかでも全然変わってきます。人間だから。

そしてもし振付者の中に流れるカンテと同じように歌い手が歌ったとしても、踊っている本人がその振付の意味を理解していなければ、カンテと合わない。振付はカンテと合っているけれど、その踊りはフラメンコではないのです。ただ振付をなぞっているだけ。そしてそれはもしかして上手に手足を動かしているかもしれない、高い技術とそれなりの見栄えでコンクールで賞をとるかもしれない。でも全然フラメンコではないのです。

前置きは長くなりましたが、そこをどうするかという目的の元に今回開講した最終日の「歌・ギター伴奏付クラス」。私がクラスで説明しきれない部分というのを、実際に歌って弾いて頂くことで、生徒さん達の身体で感じてもらう。瀧本さんと久保さんのお陰で、ただ振付をなぞっていた生徒さん達が、1時間のクラスの中でみるみる変わってゆきました。フラメンコを聴くということがどういうこと、その振付の意味が分り始めてきたのがその踊りに如実現れていました。人の踊りはこんなにも変わるのか、ということに改めて驚き感動したクラスでした。

でもその時にただ耳をダンボにすればよい、という話ではありません。普段から聴いていないと。その土台があって、耳が〝フラメンコ化〟しているからこそ、身体にフラメンコを吸収することができるのです。だからその身体から発せられるものがフラメンコになるのです。そもそもフラメンコが好きだったら聴いているはず。聴いて胸が高鳴ったり、その胸を鷲掴みにされたり、涙が出たり、その崇高さにほうけてしまったり、そんなカンテにどれだけ出会えるのか?出会うためにはたくさん聴かなくてはならない。深く聴かなくてはならない。そしてプロを目指す人、プロと呼ばれる人はそこからさらに学んでゆかなくてはならないと思います。自分を含めて。

ある意味難しかったクラスかもしれません。でもこれを機にカンテを聴くことにつなげてほしい。そしてこのクラスを受講することで、何かが身体の中に生まれた生徒さんもいるかもしれない。それを忘れないでほしい。それを今度は自分で暖めてほしい。そのためのクラスだったのだから。

いろいろなことを自分を含めて、改めて問い直したクラスでした。

フラメンコとはカンテです。またここから出発したいと思います。

2015年2月15日 お陰様で無事到着したセビージャにて。

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