「人はなぜ、絵はがきの風景を探すのか?」公演を振り返る。⑥

_DSC1008_DSC1351
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_DSC0961_DSC1428みなさんこんばんは。

前からのブログの続きです。

公演の反省点。今思い返してみると、踊りが準備不足だったかな、と。・・・ということを毎回反省し、お友達の踊り手さん達からはいつも「自分に厳し過ぎるよ!!!」と半分怒られ、半分あきれられてしまうのですが。でもそう思ってしまうんですよね。もっとこうできたんじゃないか、ああできたんじゃないかといろいろ思えてしまう。練習というものはしてもしても足りないものです。しかも今回は諸々の事情で練習する時間がかなり限られていました。公演のために全ての時間を捧げられるなら、と思うけれど現実はそうではありません。時間は作るものだと言うけれど、確かに正しいけれど、作れない場合だってある。公演そのものや人前で踊ることよりも、自分が行うことに対して見合う時間のなさ、それにストレスをより感じていました。スケジュール調整。これをもっときちんとやっておかなければいけない、それは次回の課題です。

それと心配していたのは体力。ソロ公演を4日間行う。それがどれくらい体力的に支障をきたすのか?正直、やってみなければ分からない所でもありました。フラメンコ公演といってもいろいろあります。自分の名前を掲げていても、舞踊団員やゲスト舞踊家がいる場合は、公演中お休みできる。変な言い方かもしれませんが、自分の踊りの前後に舞踊団の群舞やゲストの他の曲を挟めば、次の自分の踊りの出番まである程度休憩をとり、次の踊りに備えることができます。でも私の場合はほんとにその名の通りソロ公演だったので、踊って引っ込んだと思ったら、ダーっと楽屋まで走って着替え、汗ダラダラのまま(ふいても吹き出してくる。)舞台袖へ。次の曲をまた踊ったらまた走って着替え、踊って・・・という1時間でした。その形式は前作「ハモンは皿にのせるだけでよい」公演の時も一緒。ただあの時は2日間公演でしたが、今度は4日。間に1日公演お休みの日がありましたが、その日は同時開催の夫の写真展ガイドの通訳をしたり、講義を行ったりと踊りはしないけど、休むわけでもない。

ほんとに私、大丈夫なんだろうか・・・実はそれが心配で心配でなりませんでした。最後まで体力が持つのか。4日の公演のレベルを下げずに踊りきれるのか?大体、ソロ公演を4日間やる人なんて聞いたことないし・・・。

そんな頃、日本でシンクロナイズドスイミングの井村監督のトレーニング方法というのがテレビで紹介されていました。指導してきた選手達に次々とメダルを獲得させるスパルタ指導。詳しい指導方法は覚えていませんが、(テレビで紹介されるのも実際の指導の氷山の一角に過ぎないと思う)選手達がハアハアと息があがって死にそうな顔している状態で、休みなくすぐに次のトレーニングを続けさせていました。スポーツとフラメンコは違う。でもこれくらいトレーニングしないと踊れないよね、ソロ公演4日間。と思ったのも事実。そして数ヶ月前に受講したエバ・ジェルバブエナのセミナーの中でのトレーニング・・・あれも相当キツかった。でもトレーニングって、誰かコーチとかがいればできるかもしれないけど、自分一人でやるのって難しい。どうしても自分に甘くなってしまうから。結局スポーツ選手みたいなトレーニングは何一つしなかったけど、練習の際にはいつもそのことが頭にありました。ただなんとなく練習して汗をかくのではなく、それを想定して練習するのでは多分大きく違う。

それと体力を消耗するのは必至だから、どれだけ体力を温存できるか、そして消耗した体力をどう回復するか、それも念頭においておきました。いつ何を食べ、飲むのか、これは重要です。それと呼吸法。どれも当たり前のことですが、おろそかにすると後でしっぺ返しがくる。それと “早着替え”。衣装自体も急いで着替えられるようなデザインにし、一人でもぱぱっとできるように細工をしたり(前日によなべして縫う。笑)。着替えが早く終われば終わるほど、10秒でも20秒でも長く休む事ができるから。

結果的にはお陰様で4日間のソロ公演も無事終了しました。でもそれはやってみなければ分からなかったことで、いろいろなことを準備しているうちは、なんだか一人テンパってきます。自分一人だけ大変な思いをしているような。そしてイライラしたり、当たったり・・・その対象は一番身近にいる人間、つまり夫のアントニオ・ペレス。毎回申し訳ないなあと思うのですが、なかなか自分をコントロールできず、それも毎回の反省点です。

4日間の公演を思い出してみると、同じ出演者で同じ公演内容でも、全然違っていたな、と思います。

11921737_10153600593431228_1305094084643103453_o初日。とにかくテンパってました。初日ですもん。前日の照明合わせからのテンパりが爆発寸前でした。この初日さえ乗り切れば、あとは絶対大丈夫!という気合いだけでした。そして何がなんだか分からないうちに初日が終了。お客様は大興奮。ギタリスタのエミリオと歌い手のパコも大満足したけれど、私だけぽっかーんとしていたように思えます。何が起きて何が終わったんだ????そんな感じ。舞台の初日って吉か凶か。そのテンパりが功を奏す場合もあれば、ダメにしてしまう場合もある。お客様によってはその初日の緊張感がいい!という方もいらっしゃれば、リラックスした2日目の方がいい、という方もいらっしゃる。うーん、私が舞踊公演のチケットを買う時も迷います。どっちがいいのか?でもそれはやってみなければ分からない。出演者にも分からないことなのです。

11144930_10153600621106228_717241539317736348_n2日目。終演後エミリオから「昨日もよかったけど、今日はリラックスしてさらによかったよ!」と言われました。(後日パコからは、「初日のジュンコはすっごい恐かったよ!」と言われました。笑)確かに少しリラックス感が出て来ました。それを自分でも感じられ、前日よりも自分自身が状況を把握できる冷静さがあったように思えます。脳みそが正常に機能していました。(笑)自分の精神状態は前日よりよかったのかもしれないけど、でも実際の踊りがどうなのか?それは別問題でもあるように思えます。切羽詰まった緊迫感が生み出す独特の空気、雰囲気、踊りというものがあり、それはそれで特別なものなので。

11012493_10153600624846228_9386724504182317_o3日目。正直な所、中だるみの日でした。日程的にそうなってしまうのは分かっていたので自分では気を引きしめていましたが、公演は私一人だけで行うものではありません。遅刻してきたり、タイミングを間違ったりと(名前は出しませんが 笑)それを中だるみと呼ぶべきか否か・・・、しかし4日間の公演の中で起きなかったことがこの日に限って連発したのはただの偶然ではないでしょう。その負の連鎖に巻かれないように、精神を強く持つ必要がありました。そういうことを気にしながら踊ったので、4日間の公演の中で唯一私が落ち込んだのはこの日でした。初日、2日目と同様お客様の大歓声の中で実は一人、シューンとしていました。・・・が、不思議なことに、照明担当の方が「今日が一番カッコよかったです!!!」とおっしゃっていました・・・・そう、これも不思議なことなのですが、自分でダメだと思った時ほど観ている人はよかったとおっしゃり、自分で今日はなかなかよかったかな!と思う時は意外と反応が薄かったりする。こうなってくると、もうなんだか分かりません。(笑)
11986417_10153600632161228_1683987510104470889_n4日目。前日の中だるみをビシっと解決させ(ここを曖昧にすると、この日までたるんでしまう)最終日に臨む。これが終わればあとは打ち上げだけだ〜!ってな感じで舞台へ。だからかなあ、最後のソレアの中のソレア・ポル・ブレリアでは大変なことが久しぶりに起きました。あの部分は箱根駅伝で例えると「権太坂」。前日3日目までの公演では気力と体力総動員してその「権太坂」を制覇してきました。ところが、はっと気付いたらやはり最終日の最後の踊りで疲れが出てしまったのか、これはもしかしてエネルギー不足?・・・・マズい!と思う間もないまま、その瞬間にぶわーっとそれが出て来ました。なんだか分からないのですが、それが私を踊らせていました。冷静に客観的に観れば、それは舞踊的におかしな動きだったのかもしれない、自分が持っている振付内での即興ではなかったので、どんな踊りでどんな動きになってしまったのか今でも分かりません。でもそうなってしまったのだから仕方がない。思うに、フラメンコ舞踊の形式や技術というのは、そうなってしまった時に自分を支えるものなのではないか。それがなくてただぶわーっとなってしまうなら、別にフラメンコである必要はないし。

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フラメンコを踊るためには“Colocar”を学ばなくてはならない。でもフラメンコを踊るということは“descolocar”である。

これは誰の言葉なんだろう?でもいろいろな先生方がおっしゃるのを何度も耳にしたことがある。“Colocar”(コロカール)とは踊りのポジションや身体(足、腕、手、首、頭等全て)の位置、動きの軌道をきちんととること。そして“Descolocar”(デスコロカール)というのはこの場合、その対義語。位置がずれていること、軌道から外れていること。まず、“Colocar”の方からみてみると、フラメンコを学ぶ上でこれは絶対に外せない。しかし、本当に踊るということはこのポジション通りに踊ることではない。確かにポジション通りに踊れば正しい、見た目も美しい。コンクールでは高得点をとれるだろう。でも何かが足りない。何が?

フラメンコである。

フラメンコを踊っておきながらフラメンコが足りない踊り。

ではそのポジションを外した踊り(“Descolocar”)をしたらどうなるか。それは「モデルノ(現代的)」な踊りと言われ見た目はちょっと新鮮かもしれない。その斬新さがカッコよく見えるかもしれない。でもそれはやはり形だけの表面的な問題だ。そして気をつけなくてはいけないのは、“Colocar”(もしくは“Colocación”。Colocarの名詞形。ポジションの意味)をきちんと学んできた人が“Descolocar”で踊るのと、“Colocación”を学んでない人が最初から“Descolocar”の振付で踊るのは全く異なる。表面的以前の問題で、フラメンコ以前、踊りですらない。目も当てられない。目をあてられる人、気付かずに踊っている人はColocaciónを学んでいない人である。

じゃあ、なんなのか、“Descolocar”って?

つまり、本来の“Colocación”を徹底的に学んだ上で、ある瞬間、感情や内面が爆発することにより“Colocación”が崩れ、“Descolocar”になってしまうこと。

そう、それがフラメンコなのである。

・・・だから今思うに、誰からの評価でも意見でもなく勝手に自分で思うことは、あの瞬間が私にとっての紛れもない真実の瞬間だった。でもそれはいつもあるとは限らない。どういう状況だから起きるという想定もできない。その瞬間に起きた、それだけのこと。

そんなことを、今改めて思い出しました。あの時の感覚と共に。

(・・・つづく。でも、もうそろそろ終わりです♪)

写真:アントニオ・ペレス

2015年9月24日 セビージャにて。

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