「人はなぜ、絵はがきの風景を探すのか?」公演を振り返る。①

soto01soto02みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

やっとゆったりした週末がやってきました。久しぶりです。日本にいた約3ヶ月間は平日も週末も関係なく、毎日クラスや個人レッスン、公演や写真展の準備、事務作業に負われていました。寝るのもいつも夜中3時くらいになってたな〜

ここでやっと、第3回萩原淳子フラメンコ公演「人はなぜ、絵はがきの風景を探すのか?」を振り返る事ができそうです。まずは、公演にお越し下さった皆様ありがとうございました!そして共演のエミリオ・マジャ、エル・プラテアオ。会場となったキッド・アイラック・アート・ホールの早川さん、工藤さん、公演お手伝いをして下さった生徒の皆さん、そしてアントニオ・ペレス!皆様本当にありがとうございました。お陰様で無事に、そして大盛況のうちに幕を閉じることができました。

第3回目のソロ公演を開催することは、昨年同会場キッド・アイラック・アート・ホールにて「第2回アントニオ・ペレス来日写真展」と「第2回アントニオ・ペレスの仲間たち」フラメンコライブを開催した後になんとなく決めていました。昨年は第1回目に引き続き、写真展×フラメンコライブの同時開催。たくさんの素晴らしい共演者の皆様に支えられて素晴らしいライブ(ギター1、カンテ1、踊り4名によるタブラオ形式ライブ)を開催することができました。ただ・・・その中で第3回目も同じ写真展×フラメンコライブにするのかな?という疑問も湧いてきたからです。同じことを繰り返す事によってプラスになることもある。でもあえて3回目は形式を変えてみようかな、と。

ただ単に写真展とフラメンコを同じ会場で同時開催するのではなく、写真展のテーマとフラメンコのテーマを共有させたい。写真展とフラメンコで2つで1つ。ただし、どちらかが欠けたらどちらかが存在できないのではなく、写真展もフラメンコもそれぞれ個別でもきちんと成立する内容にする。お互い自立しているからこそ、2つが合わさった時にさらに強力な新たなエネルギーを生み出す。写真とフラメンコと芸術の分野は異なってもお互いそれぞれのアーティストの視点から同じテーマを掘り下げる。お客様に訴える。そんな「写真展×フラメンコ」にしたい、そう強く思うようになりました。

第3回目のソロ公演の案は元々ありました。写真展との同時開催ではなく、将来的にいずれ劇場公演にしようと思っていた案です。アントニオにその元案の公演について説明し、その元案のテーマと近いアントニオの写真展内容を選びました。その写真展の内容が今回発表した「Nuevas postales, nuevos viajes」。直訳すると、「新しいポストカード、新しい旅」。観光用に販売されているポストカードを破り、それを実際の風景と照らし合わせて写真を撮る、アントニオ・ペレスのプロジェクトです。その意義を以下のように語っています。

 本展〝Nuevas postales, nuevos viajes〟では様々な国の観光用ポストカードを使い、私達の持つ固定観念や既成概念に一石を投じたいと思っています。各都市の観光イメージの代表であるポストカードはどこでも誰でも簡単に購入できます。そのポストカードを破り、実際の風景と照らし合わせてみる。一致することも、一致しないこともあるでしょう。しかし私達はその新しい写真を通して、普段見ているもの、もしくは見ていると思っていたものに関して改めて考えざるを得ない。私達が持つものの見方、考え方はもしかすると制約された中でのものに過ぎないのかもしれない。そしてそれは時として偏見とも呼べるかもしれません。この写真展は私達を様々な都市、国、大陸へと誘い、私達の視野と価値観を旅立たせてくれることでしょう。

〈アントニオ・ペレス〉

セビージャに住み始めて13年。ずっと私が抱いている感情があります。「なぜ人は既成概念を持つのだろう」「なぜ、固定観念から自由にならないのだろう」セビージャに東洋人がいるということ。その東洋人がフラメンコを踊るということ。その東洋人がスペインのコンクールに出場するということ。賞がとれること。賞をとらせてもらえないこと。踊ること。踊らせてもらえないこと。特にここ数年、この状況の中で闘って生きています。そしてそれはスペインだけではない。日本に帰っても同じこと。同じ日本人なのに、色眼鏡で見る人。自分だって日本人なのに同じ日本人を差別する人。それに気付いていない人。なんなんだろう、この状況は。

写真展と同じく、この公演のテーマは「固定観念」「既成概念」を打ち破る。

それはフラメンコにもあてはまること。いや、フラメンコにというよりフラメンコに携わる人に、と言った方が正しい。自分も含めて。フラメンコは無限の芸術だと思う。でも「フラメンコは○○でなくてはならない」「□□ではフラメンコではない」とフラメンコに携わる人が考えることによって、フラメンコは限定されてしまっている。そしてそれを盲目的に鵜呑みにする人によっても。

時にはネガティブに考えてしまうこともあります。もちろんその感情を元にして公演を作ることもできた。自分の怒りや悲しみ、苦しみを公演を通して爆発させる方法。でもそうではなく、同じテーマであっても、それを笑い飛ばしたい。だから何なんだ、それがどうしたって。それでも私は生きている。それがあるこそ私はたくましく生き抜く。マイナスのものをプラスに変えられるからこそ私の人生。プラスだけの人生なんてありえない。あったとしてもつまらない。そのエネルギーがこの公演を開催する意義、原動力。ハビエル・ラトーレも言っていた。「自分の人生を生きていなければ公演は作れない。生きているからこそ公演ができる。」そうなんだよ。だからこそそのエネルギーは観客に伝わる。伝えるべきものがあるから。

じゃあ、どういう形で伝えるのか。それが次の問題。

フラメンコで新しいことをしようと、何か別のジャンルの音楽や舞踊と混ぜてみたりする傾向も現代ではある。・・・間違いではない。人それぞれ表現方法というのがあるから、それがフラメンコの本質に根付いて本質と対峙した結果であるならいいと思う。フラメンコの音楽や舞踊の表面的ないいとこ取りでなければ。でもそうすることで、自分でフラメンコに限界を作っておきながら、フラメンコの可能性を新しく開拓している、つもり(?)の公演も実は多いのではないか・・・

そんなことをいろいろ考えながら、決意を新たにしました。私の公演はフラメンコで行く。フラメンコそのもので勝負する。なぜなら私はフラメンコ舞踊家だから。

そこは譲らない。でもどうやって?さらに、アントニオの写真展と同時開催するにあたって、どうその写真展と絡めてゆくのか?どうシンクロさせてゆくのか?

そして会場。昨年と同じキッド・アイラック・アートホール。とても素敵な会場。5階建ての建物で3〜5階がギャラリー、1階がホールになっています。一昨年、写真展とフラメンコライブが同時に出来る会場を、と血マナコになってネットで探し当てた会場。昨年は5階ギャラリーのフラメンコライブ開催だったけど、今度は同会場1階ホールでフラメンコソロ公演の開催。“ホール”と言えど、客席40の小さな小さな濃密空間。大きな劇場ではない。でもタブラオでもない。その空間をどう活かすのか?箱が変われば公演内容も演出も変わるから・・・。

それを徹底的に模索する日々が始まりました。昨年末のことでした。

(・・・続く)

2015年9月13日 セビージャにて。

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