萩原淳子のフェスティバル・デ・ヘレス2016鑑賞記④

みなさんこんにちは。

毎日ブログを更新していると、やっぱり私は書く事が好きなんだなと思う。文章を書く(ブログの場合、正確には「打つ」のかもしれないけど)ことで初めて物事を整理して考えることができる。そして自分が何を感じたのか理解することができる。それをなしにしても公演を楽しむことができるのだけど、やはり後から書くという行為を伴う経験は何かが違う。不思議な事実だ。

  • 3月2日(火)21:00開演 Shoji Kojima 小島章司先生(会場:ビジャマルタ劇場)

9dbe741559この公演タイトル「A este chino no le canto」を目にした時、本当にぎゃふんとしてしまった。直訳すると「この中国人には歌わない」。ただしここで言う中国人というのは、多くのスペイン人からすると東洋人の総称。つまり、中国だろうが日本だろうが韓国だろうが、彼らからすれば全部ひっくるめて中国人。そしてこの言葉が東洋人一般に使われる場合、差別的なニュアンスをも含むこともある。スペインに住んだ経験のない方にはピンと来ないと思うが、ここスペインでは、少なくともアンダルシアでは東洋人に対する差別というのが確実にある。アンダルシア人全員が差別主義者と言っているのではない。差別主義者ではないアンダルシア人だってもちろんいる。しかし、ある、差別は確実に。

2002年に渡西した当初、毎日のように私は道端で「china!」(チナ!)とバカにされた。野菜を投げつけられたこともある。見ず知らずの人達に。「チナ」というのは中国人女性のこと。つまり最初に説明したように、状況やその言葉のニュアンスによっては東洋人女性に対する差別用語にもなる。なぜ東洋人であることでバカにされなければならないのか?ただ道を歩いているだけなのに?私が一体何をしたというのか・・・? それまでの27年間、日本人として日本で育ち自分が差別されるなんてこれっぽちも想像したことすらなかった私は、留学当初、毎日怒り、悲しみ、憤り、家に帰って泣いた。なぜなら言われた時には何も言い返すことができなかったからだ。大体バカにされる時は、その相手は複数の男達だ。(彼らは一人では言わない、複数でないと言えない卑怯者なのだ)彼らに対して女一人で何ができる?そこで何か言い返して、もし彼らがナイフでも持っていたら?もし彼らに暴行されたりしたら?・・・私は一巻の終わりだ。だから毎日毎日我慢して家で泣いた。でも、セビージャでフラメンコ留学をするということは、その差別から逃れなれないことを悟ってから私は何があろうと外に出た。毎日毎日が弱い自分との闘いだった。泣いても、涙をふいた後にはさらに強くなっていった。そうしなければここで生きてゆくことができなかったから・・・。

あれからもう14年程経つ。セビージャの状況も随分変わってきた。昔のように道端でバカにされることも物を投げられることもほとんどなくなった。むしろ日本が好きだというアンダルシア人に出会うことも多い。しかし、フラメンコの世界ではまだ東洋人に対する差別がある。日本人がフラメンコの“顧客”でいるうちは差別を感じることはないだろう。特にここ数年のスペイン国内の不況で、フラメンコアーティスト達は日本を含む他の国の“顧客”の存在なしには生きてゆけない。当然その“顧客”に対する追従というものも存在する。でもその世界の中で彼らと同じ土俵に立つ場合、(同じ土俵に立たせてさえもらえない時の方が多い)そこには厳然たるものが存在する。それがここ数年私が感じていること。でも家に帰って泣いたりはしない。差別があったとしてもそれをはねのける実力をつけること、誰がどう思おうとも自分自身の頭の中で自分に対する差別意識を持たないようにすること、自分自身の可能性を自分で限定しないこと、その闘いを、自分自身との闘いを今続けている。そしてそれはここで踊り手として生きる限りずっと続けてゆくだろう。

・・・と、自分の話が長くなってしまったが、現在でさえ、14年前でさえそうなのである。ということは、小島先生が渡西された40年前というのはいかなるものだったのか。それを想像するだけで胸が痛くなる。公演の中で、恐らく小島先生が当時のタブラオに出演されていた設定の場面で、小島先生がソレアを踊り始めようとする時に、歌い手の一人がこの言葉を叫んだのだ。「オレはこの東洋人には歌わない!」「東洋人が踊ってるのなんて見た事ない!」そしてその歌い手を含め、タブラオ出演者の全てのアーティスト達が舞台から去ってしまい、小島先生が舞台に一人残される。ソレアを踊り始めるポーズのまま。その状況でビジャマルタの劇場内でどっと笑い声と拍手がおきた。意表をつく展開に劇場内の空気がゆるんだのだろう。でも私はその瞬間、全く笑えなかった。他の観客が笑っているのは頭では理解できても、私全く笑えなかった。公演タイトルとなったこの言葉は、きっと本当に小島先生が浴びせられた言葉だったのだろう。この苦しみを、悔しさを、やるせなさを、痛みを、怒りを理解できる人があの劇場内に何人いたのだろうか。

誰もいない。なぜならそれは同じ経験をした人間にしか、決して分かり得ないものだからだ。

たくさんの素晴らしいアーティストが出演していた。ミゲル・ポベダ、エバ・ジェルバブエナ、ハビエル・ラトーレ、クリスティアン・ロサーノ、タマラ・ロペス、レベルの高い群舞(小島章司先生の舞踊団の前田可奈子ちゃんもがんばっていた!可奈子ちゃん、おめでとう&お疲れ様でした!)それぞれに素晴らしい瞬間があった。特にエバのソレア。バタ・デ・コーラで始まり、最後のブレリアではマントンも使うソレア。歌い手のホセ・バレンシアが歌うブレリアを踊るエバにはこの世のものとは思えない「何か」、神がかったものが乗り移っていた。そしてその後に登場したハビエル・ラトーレ。エバが支配した空気を、その一振りでまた公演のそれへと難なく戻す。あんなことはハビエル・ラトーレでないとできない。あの場面でハビエル・ラトーレが登場しなければ、あの公演は全てエバに持っていかれて、筋の通らないものになっていたろう。それを全部お見通しの上での演出なんだろう。だからこそ、それでこそ、ハビエル・ラトーレなのだ。すごすぎる。

最後のフィン・デ・フィエスタでエバはソレアと同じバタ・デ・コーラでブレリアを踊る。ソレアの時はクプレ(歌謡曲)のブレリアだったので、その時のブレリアとは全く違う雰囲気。同じブレリアでも同じ衣装でもカンテが変われば全く変わってしまうエバ。観客からの拍手喝采の中、エバは引っ込まずに小島先生を招いた。・・・感動的な瞬間だった。・・・なんと崇高な人なんだろう、エバ・ジェルバブエナという人は。自分に送られた拍手喝采を自分のものにせず、小島先生に花を持たせる。でもそれは花を持たせようと思ったのではなく、エバが小島先生を信頼し敬愛しているからこその行為だったのだろう。エバに招かれた小島先生。幸せそうにブレリアを踊る先生を見て、「この東洋人には歌わない」というタイトルを公演名にした先生の強さ、賢さ、そして長い年月を経ての心の柔らかさに、私は惜しみない拍手を送った。

最後に付記したいことがある。私は“小島先生”とお呼びしているが、先生に師事したことはない。それでも「先生」なんだと思う。なぜなら「先生」とは「先」に「生」きている人のとのことだからだ。この地に「先」に「生」きた人がいたからこそ、私達、そしてこれからの世代の人間が生きてゆける。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157514199

  • 3月3日(水)21:00開演 エステベス/パニョス舞踊団 (会場:ビジャマルタ劇場)

d9bfb9f69b申し訳ない、この公演では寝てしまった・・・・

踊り手としても演出家としても一流のラファエル・エステベス。しかし、開演後よく意味が分からず、しばらくしても意味が分からず、ラファエル・エステベスなら何か面白いことが起きるんじゃないかと、一生懸命目を開けようと頑張ったのだけどその甲斐むなしく・・・ZZZZZ

公演中のかすかな記憶では観客からのヤジが飛び、途中退席する人もちらほらいたみたい。終演後の劇場ロビーでは憮然とした顔をしている人が大勢いたという・・・

うーん・・・・

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157671110

  • 3月4日(木)ソラジャ・クラビホ(会場:ラ・グアリダ・デル・アンヘル)

01guarida04guaridaソラジャの踊りが好きだ。シンプルで率直、フラメンカ。そのソラジャが、レブリーハの奇才ギタリスト、リカルド・モレーノをゲスト・アーティストに迎えソロ公演を行うという。ソラジャのソロ公演、しかもリカルド・モレーノとの組み合わせ、一体何が起きるんだろう!とわくわくして会場に向かう。共演はギタリストにラモン・アマドール(息子の方)、歌い手にルビオ・デ・プルーナ、パルメーロにレブリーハのマヌエル・バレンシア。そして先のリカルド・モレーノ。こちらもシンプルながら強力な共演陣。ソラジャはブレリア、シギリージャ、アレグリアスなどをその共演陣達と繰り広げてゆく。ソラジャの踊りはやはりいつ見てもフラメンコで好きだ。そして現代的な音遣いをするリカルド・モレーノと伝統的なソラジャの動きの掛け合いで出す音遣いも面白くて、思わずoleが出てしまう。そんな掛け合いが続き公演は終了、フィン・デ・フィエスタに突入。そのブレリアはさすがソラジャ。なんてことはない動きとコンパスのブレリア、でもとてつもないフラメンコ。個人的には、共演陣全員とソラジャの、こちらの希望を言えば、ソレアが観たかったなあ。最後にソラジャの威力で全員をがっとまとめてソラジャの世界に引きずり込む、そんながつんとした1曲。例えばソレア。そんな私は欲張りか?(笑)

最後にソラジャが観客に挨拶をする。「私はずっと昔にヘレスから飛び出たけれど、今、またヘレスに戻っている。ここはコンパスの町、ここにあるのはコンパス」そんなような内容のことを話していた。ところで、この公演名は「La Reja 1942」。これはヘレスのバルの名前(ビジャマルタ劇場の近くにある)のことだと思うのだけど、ソラジャの中で何か思い入れのある場所なのかな?自分がヘレスに戻ってきた原点をこのバルに見立てたのかな?劇場公演ではないのでプログラムなどなく、そこをもうちょっと知りたいと思った。公演内での衣装も独特なデザインで、それも公演内容と関係しているのかな?今度ソラジャに会ったら聞いてみようっと。

※アントニオ・ペレス撮影の公演写真がレブリーハのフラメンコHPに掲載されました。以下クリックしてご覧下さい。写真からもソラジャのフラメンコが漂ってくるようです!→http://www.lebrijaflamenca.com/2016/03/espectaculo-la-reja-1942-de-soraya-clavijo-con-rycardo-moreno-de-artista-invitado/

小島章司先生、エステベス/パニョース舞踊団公演写真:フェスティバル・デ・ヘレス公式HPより。Foto Javier Fergo para Festival de Jerez

ソラジャ・クラビホ写真:アントニオ・ペレス

3月8日 セビージャにて。 鑑賞記は次回で終了になります!

Comments are closed.