レブリーハ・ペーニャ公演無事終了!そして・・・

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

一昨日レブリーハでのペーニャ公演が無事終了しました。日曜日のお昼の公演と いうことで、普段夜に踊る事に慣れている私にとってちょっと不思議な気分でし たが。でも日曜の午後を有意義に過ごせるのでそれもいいかもしれませんね!共 演アーティストはカンテがダビ・エル・ガジ。セビージャでのペーニャ公演でも 共演した、モロンの素晴らしい歌い手です。そしてギタリストはそのガジが紹介 してくれたパコ・イグレシアス。パコとは初共演でしたが、彼のお兄さんエウヘ ニオ・イグレシアスとは何度か共演したことがあります。兄弟ということで顔が 似ています。特に笑顔が。とてもリラックスした気分で踊ることができました。

ガジとの仕事は本当に楽しい。まず彼はよく食べる。アーティストのほとんどは 本番前には食べません。でもガジは逆。「おれは食べないと歌えない。」といつ も言っています。というわけでガジとの仕事ではちょっと早めに待ち合わせをし ますが、それは合わせるためではなく食べるため。「ジュンコは何歌っても踊れ るから大丈夫だ!」と言われ、そんなこともないんだけど・・・・でもやはり食 べる方を優先したくなってしまう。セビージャから離れてレブリーハに来ているんだから、その土地でおいしいと言われるものを食べたいではないですか!

というわけで、またもぐもぐ・・・・。ガジ、パコ、私の3人で日曜の昼下がりレブリーハの広場で食べたタパはおいしかった!そしてもちろん本番も。私たちもペーニャのお客さんもとてもおいしいフラメンコを共有したと思います。満腹で幸せになった日曜日。日本から応援して下さったみなさんどうもありがとうございました!

・・・と同時に実は今、複雑な心境にあります。というのは、今日、とある私のお友達が自分の友達の悪意や嫉妬で苦しんでいるという話を聞いたからです。彼女はフラメンコ舞踊をセビージャで学んでいる外国人ですが、フラメンコとは別のジャンルの音楽家でもあり、スペインで自分のコンサートをしたり、その中で踊ったりすることがよくあるそうなのです。それに対して彼女の仲のいい”お友達”(同じくフラメンコ留学生)が嫉妬をし二人の仲がぎくしゃくしているとのこと。詳しくはこちらから聞きませんでしたが、彼女は本当に傷つき、涙を流しているそうです。

その彼女が「ジュンコはお友達と問題ないの?」と聞いてきたのです。つまり、私がスペインで舞踊家として活動していることに対して悪意を持ったり嫉妬をする”お友達”はいないのか、ということ。正直言葉に詰まりました。ここ数年スペインで踊るようになって、実際私が感じていたことが実はそれだったからです。(もちろんそれは日本で昔から感じていたことでもありますが・・・。)その人達は表面的には感じがよく、誰とでも仲良し。いつも笑顔です。でも残念ながら私はその人達の心の内をある時知ってしまう。もしくは感じてしまう。それは本当に悲しくつらいことです。

人間にはこんな闇の部分があったのか、でもそれが全く見えないといっていい程、なぜ人は表面を飾るのだろう・・。何度も何度もそういう経験を経て気づいたことがあります。嫉妬をする人間は本当に努力をしているのだろうか?なぜなら本当にその人が努力をしていれば、相手がどれだけ努力しているか想像できるから、嫉妬するはずがないと思うのです。(私だったら、逆にその人の努力や実績に励まされて自分もがんばる。)そして、悪意を持って批判する人は自分に自信がないのではないか?なぜ自信がないのかは努力が足りないから、ということも言えなくはないけど、自分に自信がないから悪意を持って相手を批判をし、相手を落とすことによって自分を優位に立たせる。そうしなければ自分に自信が持てない。そして重要なことは、最終的にそういう人の踊りはそういう踊りにしかならない。たとえどんなに上手に踊れても、どんなに姿形が美しくても。

今までのいろいろな事が思い出されて、今傷ついている私のお友達をなんとか助けなければ、と必死に自分が思っていることを伝えました。必死な時ほど私のスペイン語はむちゃくちゃになります。でも彼女はうんうん、と頷き「私も乗り越える」と言っていました。

フラメンコは「血」だ、という意見があります。「プーロ(純粋な)・フラメンコ」であるためには、一般的にはフラメンコの「プーロ」な「血」を持っていることが必要とされているのです。それに関して異論はないし、その「血」によってフラメンコの文化とアルテが守り抜かれていることに対して私は敬意を払っています。でもその一方でその血を持たない人間に残されているのは、「プーロ・フラメンコ」の物マネをして「プーロ”系”」になることなのでしょうか?

もちろんそういうアプローチの仕方もあるし、本人がそれで満足しているなら私がどうこう言う問題ではありません。でも少なくとも私にとっての「プーロ・フラメンコ」とは私の内面がプーロであること。悪意や嫉妬やいろいろな呪縛で濁らないこと。自身の人間性がプーロであること。なぜなら最終的に残るのはその人の人間性だと思うからです。

もちろんたくさん学んで、練習して経験を積んで・・・・すべきこと、重要なことは山ほどあります。でもどんな時でも私は自分の心を「プーロ」にしていたい。それはきっとフラメンコを踊ることよりも難しいと思うけれど、私という人間の人生をかけて取り組んでいきたい。もうすぐ2009年が終わる時に、こんな重要なことを再認識することができて嬉しく思います。悲しかったこともつらかったことも、全てはここに辿り着くためにあったのかもしれません。

最後に、私のお友達が元気になってくれることを祈って今日はこのブログを終えようと思います。

随分長くなりました。ここまで読んで下さってありがとうございました。

2009年12月15日  師走と言えど、ゆっくり歩いていきたい今日この頃。。。。

(写真:アントニオ・ペレス、ペーニャ・ペペ・モンタラス公演)

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