みなさんこんにちは。
今日はナタリア・マリンへのインタビュー&彼女からのメッセージです。ナタリアは、3月30日セビージャ・アラメダ劇場にて行われたチャリティー公演に出演してくれました。(インタビュー、写真:萩原淳子)
第20回 ナタリア・マリン
(フラメンコ歌い手)
【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?
【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?
【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。
【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。
【答え①】私は18才で娘を産み、その子が1才の時に未亡人になった。
【答え②】「何か」。なんと呼べばよいのか分からない。天使?自分の周りにある「何か」が私を助けてくれた。
愛さえあれば簡単なの。たくさんの愛。でもその愛は自分に対してではないの。他人に対する愛。私にとっては娘に対する愛だった。努力するのは大変よ。でも道を歩くのは簡単なの。愛さえあれば。ここからバルケータ(萩原註:セビージャにある橋)まで犬を散歩させるとするでしょう。道は同じ。石ころがあるかしれないし、でこぼこしているかもしれない。でもただ散歩させるのと、道にソーセージを置いて散歩させるのとでは全然違う。ただ散歩させるのは苦労する。でもソーセージという目標があれば犬は簡単に散歩する。私にとっても同じなの。犬にとってのソーセージが、私にとって娘だった。娘の成長を見るのが私にとっての何よりの幸せだった。充足感を感じていた。それが愛なのよ。
そして努力した。娘を養うために、階段掃除もした。ウエイトレスとしても、店員としても、事務員としても働いた。どんな仕事でもした。でも歌を仕事にすることはできなかった。娘を預けられなかったから。娘が10才になるまで私は歌えなかった。歌への情熱は持っていた。でも10年間歌えなかった。
娘に与えられた時もあったし、ちょっとしか与えられなかった時もあった。それは仕方がない。でもそれは結果的に子供をちゃんとした人間に成長させる。なんでもかんでもいつでも好きなだけ与えられる子供よりも。なぜなら私の娘はものの価値を知る事ができたからよ。私は自分が働いてきたこと、娘を育ててきたことに満足しているの。
そしてもちろん家族の協力も。私の父は私をとても助けてくれた。一人では生きてこれなかった。
今、日本でもたくさんの人が(フラメンコの歌を)歌うわね。みんな一生懸命努力して歌っている。それは素晴らしいこと。でも勉強して学んだ歌を歌うのと、苦しみを持って歌うのとは違う。闘わなくてはいけないの。何かのために。私は娘のために闘った。
【答え③】私は一日一日を生きている。今日やることは今日のうちにやってしまうの。明日私は何をするのかしら?多分母の散歩を手伝うと思うけど。仕事の日だけはちゃんと知っているし準備するけどね。食べていかなくてはならないから。8月に“ヒビヤ”に行くと思う。(萩原註:「日比谷野外大音楽堂」で行われる、小松原庸子スペイン舞踊団の公演)節電のために16:00開演と聞いたわ。“ミンオン”(萩原註:「民音」)のツアーにも参加する。今年の夏は、特に心のこもった公演になるはずよ。ベルランガ(フアン・カルロス・ベルランガ。ナタリアと同様、小松原庸子スペイン舞踊団で働くギタリスト)と話しているの。ツアーのうち数公演をチャリティー出演という形にしてもいいって。9月には“マルワ”(萩原註:スペイン舞踊振興マルワ財団)のフェスティバルにも出演するわ。
でもプロジェクト?そんなものはないわよ。人生は一瞬のうちになくなるものだから、今を楽しむのよ。自分の周りの家族や友達とね。
フラメンコというのは、その瞬間瞬間で生み出されるものなの。その時のギターの音がカンテを呼び起こし、そして踊りを引き出す。その瞬間のエネルギーからもたらされたものがフラメンコなの。自分の周りの状況、他人との関係によって感情はかわる。自分の身体も感じ方も考え方もその時によって違う。いろいろな要素によって自分が変わって、それがフラメンコにも現れる。あらかじめこう歌う、踊る、弾くと決めてその通りにするものではないの。生き方も一緒。特にアーティストというものはそういうものだと私は思っている。心に従うことが、生きていく上での一番の道しるべなのよ。
【メッセージ】私は日本でたくさんの事を学んだの。ヨウコ(萩原註:小松原庸子氏)のスタジオでね。そしてたくさんの一流のアーティスト達と知り合うことができた。ローラ・グレコ、クリージョ・デ・ボルムホス、マリベル・ガジャルド、マルコ・バルガス、フアン・ホセ・アマドール、ハビエル・バロン、フアン・オガジャ、マリア・アンヘレス・ガバルドン、デブラ、アントニオ・ガメス。スペインではそんな機会がなかった。日本は私を豊かにしてくれたの。アーティストとしての質を高めてくれたの。だからとても感謝している。
そしてそれだけではない。泣いて笑って怒って。文化を学んだわ。日本人の生き方。スペインとは全く違う。日本には寛容さがある。物ごとを、それはそういうものだと受け入れる寛容さ。信じられないくらいに。スペイン人がうらやむくらいに。そして信じられないことはまだある。自転車を鍵もチェーンもかけないでそこに置いておくでしょう。30分買い物して帰ってきてもまだそこにある。私の友達が電車の中で忘れ物をしたの。そしたら忘れ物はホテルまで届けられた。空港でスーツケースが壊れたら、お金が支払われる、修理される。店のレジで待っていても、0.2秒で店員が来る。スペインの救急病院では急患でも2時間以上待たされるというのに。日本で賞味期限の過ぎたヨーグルトなんて売っていないし、腐った果物なんて見たことない。本当に日本は信じられない国なのよ。(萩原、全くもって同感。)
私は日本で働くことによって、たくさんのことを学び、視野を広めることができた。それによって、何が本当に大切なのか学ぶことができたの。同じところにずっと住んでいたらそれはできなかったと思う。だから日本に感謝している。私は“ハポニョーラ”。(萩原註:ハポネサ(日本人女性)とエスパニョーラ(スペイン人女性)を組み合わせた造語。)
そしてここで私は「ナタリアは日本で働く歌い手」と認識されている。もちろんスペインでも仕事しているけど。だから日本に何か起こった時に知らんふりすることはできない。私は今まで日本のために歌ってきたんだもの。知らんふりたら、「じゃあ、お前はなんなんだ」という話しになる。自分はだませる。他人もだませる。でも神様をだますことはできない。飼い犬のフンを「どうせ誰かが始末してくれるだろう」と思って見て見ぬ振りするのはスペイン人。でも私はハポニョーラなの。だから日本を助けて当たり前。誰かがやってくれるだろう、じゃなくて自分がやるのよ。
30日の公演でも私は日本のために、“私の”日本のために、自分の全てを出したの。アーティストがたくさんいると自分を一番目立たせようとする人もいるのよ。でも私にはそんなこと関係ないの。18才で娘を産み、歌い手としてスタートしたのは29才の時。10才の子供を持つ母だったの。私はすでに大人の女性だった。だからアーティスト同士の嫉妬や競争でいがみ合う世界には属していなかったの。あの日は男の歌い手が多くて、私は自分の音域で歌うことができなかったし、カルメン(・レデスマ)が私を舞台中央に引っ張りだしたから、マイクなしで歌った。でも重要なことは誰かより上手に歌うとか、どれだけ有名な踊り手に歌うかとか、そういうことではない。私は日本のために全身全霊を込めて歌った。
今年中に数回日本に行くでしょう。
【写真のメッセージ】私の全ての愛情と全ての尊敬の念を持って私は日本を信じています。私は自分がハポニョーラであることに誇りを持っています。 ナティちゃん(萩原註:ナティはナタリアの愛称)
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30日の公演でナタリアはカルメン・レデスマにブレリアを歌いました。インタビューでナタリアが話したように、彼女はカルメンに連れられて舞台中央へ。マイクなしで歌ったナタリアの歌声は私がいた2階楽屋までは聞こえなかったけど、その時カルメンとの間に生み出された濃密な真実の瞬間。そのフラメンコの瞬間が私の涙と「ole」を引き出していました。二人の魂はきっと日本に届いたことと思います。ありがとう。
2011年4月10日 セビージャ、ナタリア自宅にて。