¨SOMOS JAPON¨ 21 エル・トロンボ

みなさんこんにちは。

今日はエル・トロンボへのインタビュー&彼からのメッセージです。このインタビューの趣旨と質問内容を話すとトロンボは「その質問に対する答えを持っているアーティストとそうでないアーティストがいると思う。とても重要な質問だね。私はそれに答えられるし、語らなくてはいけない使命を持っていると思う。」と前置きをし、インタビューが始まりました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第21回 エル・トロンボ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私の足は生まれた時から奇形だった。両足のつま先が完全に内側を向いていたんだ。子供の頃、周りの人間は私を見る時、私の目を見ずにまず足を見たんだ。その時初めて自分の足に問題があると気づいたんだよ。だって母はいつも私の目を見て話してくれていたから・・・。サッカーをする時に、誰を自分のチームに入れるかじゃんけんをして決めるんだ。でも私はいつも最後に残された。誰も私をチームに入れたがらなかった。だから子供のころからいつも自分は疎外されている、と感じていた。人より劣っているというコンプレックスをうえつけられた。それが自分の人格形成に影響を及ぼしたんだ。

4〜5才の頃だと思う。ラジオから流れていた音楽を聞いていた私は両腕を上げたらしい。その時母は「オレ!」と私に言った。自分の子供が初めて自分を表現をしたと。ラジオから流れている音楽がなんだったか分からない。でも今のようにポップスとか外国の影響を受けたフュージョン音楽ではない。スペインの、アンダルシアの文化のかおりのする音楽だったはずだよ。

そして母は私を地元の踊りの教室に連れて行った。フラメンコではなくて、セビジャーナスを地元の人に教えるような教室。先生はロサという名だった。その先生に「この子にはアルテ(萩原註:芸術性)がある。私には教えきれない」と言われ、別の教室で習うように勧められた。フェリア通りにあるペペ・リオスの学校。そこで私はフラメンコを習い始めた。セビジャーナスを踊る分には普通の靴でも問題ない。でもフラメンコを踊るためにはボタ(萩原註:男性がフラメンコを踊る時に履く靴。丈はくるぶしくらいまである。)を履かないとだめだ。当時私はひざから靴までギプスのような金具を両足につけていたから、そのボタを履くことができなかった。だから「カルメリージャ」という靴屋で私専用の特注のボタを作ってもらったんだ。そしてペペ・リオスにサパテアードの技術を習った。それを毎日毎日練習することで私の足先の感覚は鍛えられた。そしてそれが私の足のためには結果的によかったんだ。

そうするうちにギプスを取り外せるようになった。それから私はイシドロ・バルガスに習い始めた。未だに左足は少し内側を向いているけれど、この時から本格的に足を動かせるようになった。イシドロからは、アカデミックなフラメンコ舞踊を習ったのではない。フラメンコを踊る上での「鍵」を教えてもらった。どのように観客の前に姿を現すか。どのようにして自分自身を観客に見せるのか。どのようにして観客の前から去っていくのかということ。そして私は「ロス・ガジョス」や「トローチャ」(萩原註:セビージャにある、フラメンコを観せる商業施設。「トローチャ」はなくなってしまったが、「ロス・ガジョス」は現在も営業中。)で踊り始めた。

そしてその「トローチャ」での私の踊りをファルーコが見たんだ。ファルーコは私を弟子にしてくれた。当時ファルーコは彼の娘達を連れてフェスティバルに出演していたけど、そこに私も入れてくれたんだ。

そしてその頃の私の踊りをマリオ・マジャが見て言った。「まだ何かある」。当時私はファルーコの影響を受け、フラメンコの根っこの部分を強く持った踊りをしていた。しかしマリオはそれだけでなく、舞踊としてのフラメンコの可能性を教えてくれた。強い根っこを持ったフラメンコと、舞踊性のバランスを取ることを、ね。そしてフラメンコが世界に通じるものであること、振付の観点から、舞台制作の観点から教えてくれたんだ。自分が踊るだけでなく、舞台を創る側になった時に、また舞踊団を持った時にどのようにするかということ。

当時私は18才だった。80年代。スペインでは独裁政権が終わり、大きな民主化の流れがあった。たくさんのヒッピーがうまれ、なんでもあり、羽目を外せば外す程いいという風潮に染まっていた。そしてその流れの中で若者の多くが麻薬やアルコールに手を出した。それが「自由」だというスローガンがスペインを覆った。たくさんの若者がそれに溺れた。・・・・そしてトロンビートも麻薬に溺れたんだ。(萩原註:トロンボは自分自身のことを自分の愛称、「トロンビート」と呼ぶことがある)

【答え②】あるフェスティバルで踊った時に批評家にこう言われたんだ。「踊りはいい。でもつま先が内側を向いていて美的によくない」その時そのフェスティバルに出演していたフェルナンダ・デ・ウトレーラはこう言った。「私は、自分がソレアを歌う時の顔はとっても不細工だと思っていた。でもみんなに『なんてフラメンコの顔なんだ。フェルナンダは美しい』と言われたのよ。」それを聞いて思ったんだ。フラメンコではきちんと形を整えることも必要だ。でも形が崩れることこそ実はフラメンコなんだ、って。私の足に問題があると思う人、そこにしか目がいかない人は、目に問題がある。物ごとの考え方に問題がある。心に問題がある。私に足の問題があるようにね。

麻薬中毒からどう立ち直ったか。母は私を信じてくれた。助けてくれた。そして神を信じること。子供の頃からマリア像などを拝んだりしていたよ。でもそれは信じていたというより、文化や風習として身につけていただけ。でも聖書を読んで気づいたんだ。教会というのは自分の心の中にある。1年に1週間だけ、セマナ・サンタ(萩原註:復活祭。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが復活したことを祝う宗教行事)の時だけ復活を信じるのではない。毎日人は復活できるんだ。自分の人生のでの足や麻薬中毒の問題は、自分が新しく生まれ変わるため、新しい人生のための準備期間だったんだよ。聖書は自分にとって人生の道しるべになった。それまで自分は表面的に生きていたことに気づいた。本当の問題は自分自身の中にあるということに気づいた。聖書を鏡にして自分自身を映し出し、自分の内面性を働かせるようにしたんだ。そうして自分自身を助けることができるから、他人を助けることができるんだ。

そして自分のフラメンコ教室。自分がそうやって学んだことを実践に移す場所がここだった。12年間。たくさんの人の気持ちを知ることができた。そして自分が他人を助けることができた、と知ることによって自分を治癒することができた。そして他人が自分を助けてくれる、ということ。その相互のコミュニケーションが、私をよりよい人間にするのに役立ったいると思う。人とどのように接するか。他人との調和を探すために。

私は刑務所でフラメンコの音楽を教えている。受刑者は自分達が疎外されていると感じている。コンプレックスがあるんだ。昔の私と一緒。だから彼らを助けている。

それから子供達にも教えている。ポリゴノ・スルやサン・フアン・デ・アスナルファラッチェ(萩原註:セビージャ中心から離れた場所にある地区。ジプシーが多く居住する。麻薬や売春などの社会的問題を多く抱える。)に住んでいる子供達だよ。彼らはフラメンコの現在で未来でもあるから。フラメンコの踊りの振付けを教えているのではない。“音楽”の価値を教えているんだ。人間は皆、楽器だから。そこから出発して踊ったり、歌ったり、弾いたりする。人としてどう他人と調和するのか。踊る前に、弾く前に、歌う前に、人は他人との波長を合わせなければならない。人としての波長。そのためには5つの感覚が必要なんだ。

まず「耳」。現代はいろいろな情報が多すぎる。音楽もいろいろなものが混ざって“フシオン”(萩原註:フュージョン音楽。スペイン語ではfusiónと言う。)になっている。フュージョン音楽も素敵だよ。でも基礎がなければ“コンフシオン”(萩原註:スペイン語でconfusiónと言う。混乱、取り違えの意味。)になる。“www.com.fusion” になっちゃうんだよ。(トロンボ笑う。私も笑うが、大きくうなずく。)だから聴くことを学ぶんだ。

そして「目」。人は見ていても表面的にしか見ていない。そして否定的な見方をする。そうではない。その人の中にある最も重要なものを見るんだ。そして「目」は全てを語る。人を見るだけで、相手を抱きしめることもできるし、相手を突き放すこともできる。

「鼻」。音楽は吸って吐くものだから。

「さわること」。強さは必要ないんだ。(トロンボは私の膝をちょんとさわる)敏感さが必要なんだ。

「味」。(トロンボは自分の唇をなめる。)人は「なんだ、味なんてないじゃないか」と言う。「口は乾いている」と。でも私たちの中には大西洋があるんだ。たくさんの水がある。それを動かすんだよ。

そして6つ目のもの。それは「弱さ」だよ。今説明した5つの感覚を研ぎすませ、完全にするには「弱さ」が必要なんだ。自分が元気で強い時にはそれに気づかない。自分にはエネルギーがあると思っているから。でも本当は重要なのは「強さ」ではない。「弱さ」なんだ。その「弱さ」があるから逆に自分を生まれ変わらせ、新しい「強さ」を持って立ち上がることができるんだ。今の日本がこれから立ち上がるようにね。

【答え③】“アーティスト達の家”を作りたい。アーティストというのはいつもあちこちで公演していて、一所に落ち着いていない。いつもスーツケースが広がったままになっている。そんなアーティスト達が集まれる場所を作りたいんだ。そしてそのアーティスト達と他人を助けるためのプロジェクトを組む。その考えや行動を共有する場所を作りたい。子供達をアーティストにするためのプロジェクト。それからフラメンコだけでなく、詩や写真やフラメンコ以外の舞踊や、いろいろな芸術を学ぶためのクラス。それはフラメンコだけでは学べない創造性を育むことができる。芸術性を豊かにするんだ。そして麻薬やアルコール中毒の問題から立ち直ったアーティスト達の妻の会合の場所にもしたい。たくさんのフラメンコアーティストがその問題をかかえている。中毒から立ち直ったアーティストの妻達が、現在問題を抱えるアーティストの妻達を支援できるような場所。クリスティーナ・ヘレン(萩原註:セビージャにある「クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校」のこと。クリスティーナ・ヘレンはアメリカ人。)みたいのではなく、ここのアーティスト達による、アーティスト達のための場所だよ。たくさんの経験をし乗り越えてきたアーティスト達が他の人達を助けるための、ね。

【メッセージ(写真)】9才にして初めて旅立った先が東京・日本でした・・・。そのことを私はずっと覚えているでしょう。あなた達は、フラメンコという呼ばれるこの音楽の、とりわけ優れた子供達であり果実です。あなた達があなた達の両腕を上げることを、私たちは必要としています。トロンビート 日本への神の祝福がありますように。

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2011年4月11日 明日、日本へ発ちます。インタビューは一時休止させて頂きます。 セビージャにて。

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