イネス・バカン、トマス・ペラーテ、アントニオ・モジャ

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

先週はセビージャで素晴らしいフラメンコ公演が4つもありました。17日ロシオ・モリーナ(ロペ・デ・ベガ劇場)、同日ファルーカ(セントラル劇場)、18日レオノール・レアル(ドゥーケ劇場)、19日イネス・バカン&トマス・ペラーテ(カハソル劇場)。経済危機でフラメンコ公演が減っている中、なぜか今週は4公演も。私が観た公演はファルーカ以外の3公演。ファルーカも観たかったけれど、同日のロシオの公演のチケットをすでに買っていたから断念。3公演についてちょこっとメモしてみます。

  • 5月17日(火)ロシオ・モリーナ公演「ビナティカ」/ロペ・デ・ベガ劇場
  • 踊り:ロシオ・モリーナ
  • ギター:エドゥアルド・トラシエラ
  • カンテ:ホセ・アンヘル・カルモナ
  • パルマ&コンパス:エル・オルーコ

ロシオ・モリーナといえば今をときめく超絶バイラオーラ。若干27歳にして数々の賞を受賞し、現代フラメンコアーティストの中で傑出した存在。人間はここまで踊れるものなのか、と舌を巻かずにはいられない。これまでの舞台作品の中で、「フラメンコではない。」「コンテンポラリー・ダンスだ。」という意見もあるけれど、本人は「私はフラメンコ」と話していますよ。いずれにせよ、同じように揶揄される他の、踊りの上手なアーティスト達から明らかに一線を画している。その彼女の新作。タイトルの「ビナティカ」は「vino(ビノ)」(ワインの意味)からきているらしい。年月とともに熟成して香りや味が変わっていくワインを人生に例えたそうです。

前回のビエナルでの彼女の公演よりもずっと好きだ、と思いました。なぜか考えてみたら、あの時ロシオの公演で歌っていた歌い手が今回は出ていない。どうもその歌い手は私は苦手だ。ロシオの踊りよりも歌が気になってしまって・・・でもプログラムを見たら、今回はその歌い手は音楽監督になっていたようです。

パルマとコンパス担当のオルーコ。彼は踊り手で、公演の中でロシオとリズムの掛け合いをやった場面がありました。ファルキートのパソをしっかりコピーしているオルーコ。彼のリズムもすごいのだが、ロシオと比べてしまうと「あれ?」っと思ってしまう。それほどロシオがすごいということか・・・恐るべし、ロシオ。

この公演を通して、とにかく、ロシオ・モリーナってすげ〜。すごい、じゃないくて、すげ〜。とあんぐり口を開けて観ていた私でした。。。。同じ人間なのに、なぜこうも違うのだろう・・・。100万光年くらいかけ離れているので、比べる私がおバカということなのでしょうが。

  • 5月18日(水) レオノール・レアル公演/ドゥーケ劇場
  • 踊り:レオノール・レアル
  • ギター:ミゲル・イグレシアス
  • カンテ:ヘロモ・セグーラ

レオノール・レアルを一番最初に見たのは、6年前、私がクリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校の生徒だった時。ある日、クラスの代教にレオ(彼女の愛称)はやって来ました。「この人誰だろう?」と思って始まったクラス。あっと言う間に、クラス全員がレオのとりこになっていました。そんな、人間としても踊り手としても魅力にあふれた人。「この人は絶対世に出る!」と確信したあの時。ああ、やっぱり!!!と思ったこの日・・・。

レオのトレード・マークになっている短い髪の毛。レオが言っていました。「ハビエル・バロンはもう私を彼の舞台には呼ばなくなった。私の髪の毛を見てからね。彼は保守的だから。」ハビエル・バロンでなくてもびっくりするだろう。ショートカットのプロのフラメンコ舞踊家なんて今まで見た事ない。あの髪でフラメンコ踊るの?!と思う人は少なくないはず。でも踊りが始まってしまうと、髪なんてどうでもよくなってくる。そのくらい素敵な踊り。そして彼女の踊りは斬新だ。一般的には男性の踊り、と言われているファルーカを、女性の踊り手の象徴であるバタ・デ・コーラで踊ってみせたり、はたまた、喜びの意味を持つアレグリアスを全身黒のシャツ×ズボンで踊ったり。踊りの一つ一つを見ても、これをやればフラメンコ!という印籠のようなポーズはない。「モデルノ(現代的な)」という言葉では片付かない何かが彼女の踊りの中にある。他の踊り手が同じことをすれば、奇をてらっているとしか思えないことも、彼女がやるとなぜかニヤリ、としてしまう。思わず「オレ!レオ!」とつぶやいてしまう。同じ雰囲気が小さい劇場を包み込み、最高のレオの公演となった。前日見たあんなすごいロシオ・モリーナの公演の後なのに全然見劣りしないレオ。すごいな。これからもがんばってほしい。レオ。

  • 5月19日(木)イネス・バカン&トマス・エル・ペラーテ /カハソル劇場
  • カンテ:イネス・バカン、トマス・エル・ペラーテ
  • ギター:アントニオ・モジャ

「ジュンコ、鏡を見た方がいいよ」。公演が終わった後、知り合いのフラメンコ関係者に言われました。家に着いて自分の顔を見てみたら・・・マスカラが落ちて「パイレーツ・オブ・カリビアン」(ジョニー・デップ)の目みたいになっていました・・・。いや〜泣いた、泣いた、泣いた・・・

イネスとトマスは、前回のブログでも紹介した“レブリーハ”の歌い手。そしてアントニオ・モジャはウトレーラのギタリスト。ウトレーラとリブリーハはアーティスト同士親戚関係が多く、フラメンコにおいて非常に結びつきの強い土地です。モジャのギター。モジャのギター。モジャのギター。アンダルシアの「oooooooleeeeeee」を引き出すあの音。若手ギタリストがカッコいいファルセータやリズムを探すのに躍起になって、それに合わせてカッコいい振付けをするのが流行っている昨今、是非聴いてほしい。モジャのギターを。モジャのギターなしに彼らの歌はない。

トマスの最後のブレリア。レブリーハのブレリア。待ってました!とばかりに会場が沸く。一斉にかかるハレオの中に自分もいる時、ああ、フラメンコの瞬間を共有しているんだ〜と思い、幸福になる。カンテが好きな、つまりフラメンコが好きな人たち。その中にちょこんと混ぜてもらっている私。フラメンコと出会えてよかったと思う瞬間。

盛り上がりに盛り上がった所で、2部のイネス登場。彼女が登場しただけで涙が出て来てしまう。彼女が歌いだしたら、波が止まらなくなってしまった。そうだ、これが聴きたかったのだ。そうなのだ。その気持ちを涙の一粒一粒が確認している。彼女は特別だと思う。神がかっている時もある。存在自体が神々しい。

「これがフラメンコで、あれはフラメンコではない」と断じるつもりはない。そんな資格は私にはない。どちらが良いかとか、正しいか、とかということではなく、“違う”のだ。単に。前々日に観たものとも、前日に観たものとも、明らかに“違う”。でもその“違い”が明らかに私の涙になっている。

私は思った。もしこれらの公演を被災地で行ったらどうだろう。ロシオやレオの公演は人々をびっくりさせるだろう。世の中にはこんな踊りがあったのか!と。そして夢のような一時を過ごせるだろう。「素敵だった!素晴らしかった!元気が出た!」と言われるかもしれない。それに対して、イネスとトマスの公演はどうだろう。派手さはない。見栄えもしない。スペイン語がわからなければ何を歌っているかは分からない。でも、そうだとしても、彼らの歌とギターは人々の心に伝わるのではないか?心を貫くのではないか?

それを聴いたからといって、何かに直結する訳ではない。失ったものは戻ってこない。何も解決はしない。でも。それは必要なのではないか?イネス、トマス、モジャだけではない。必要とされるものを持っているアーティストはきっと他の土地にもいる。そのフラメンコの本質を持っているアーティストはたくさんいる。

私はその土地のものではないし、その文化を持っていない。何年セビージャに住んだとしてもそんな年数は何ともないほどフラメンコの根というのは深い。その私がここで、フラメンコを吸収することができるのだろうか。そして私は私の根で私を育てることができるのだろうか。そうする、と思ってここで生きているけれど。

いつの日か、そうして生きている私のそのままの踊りを被災地の人に届けられたらいいと思う。

2011年5月24日 暑い熱いセビージャにて。

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