ダビ・ラゴスとお掃除と文化論

みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。

ただ今、日曜の22:30。やっとお掃除が終わりました。スペインでは「夜に掃除すると結婚できない」とよく言われます。でもそれを知ったのはこの間。そんなの知らなくて今までずっと夜も掃除していたよ〜。だって終わらないんだもん。もっと早くから掃除を始めれば夕方くらいには終わるのかもしれません。でもなかなか腰が重たくて・・・。掃除し出すとモーレツに掃除するのですが。

今日の掃除に時間がかかったのは理由があります。ダビ・ラゴスのCDをかけちゃったから。この人のCDをかけると掃除どころではない。はたきでコンパスを刻み、ゴム手袋をはめたままパルマをたたき、そのうち踊ってしまう。すごいダビ・ラゴス。彼のCD「EL ESPEJO EN QUE ME MIRO」(写真)。これはすごい。

数年前に発売されたCDだから、もうお聴きになっていらっしゃる方も多いかな?まだ、という方、YouTubeにそのCDのプロモーションがアップされていますよ。クリック→watch?v=ME3FGu7FSQI

ヘレスの歌い手だけにブレリアのコンパスは「うへ〜」だ。そして最近の若い歌い手にありがちな、一般受けするライトなポップス調のブレリアやルンバをCDに混ぜていないところがいい。全部フラメンコだ。フラメンコなんだ。

そしてレトラもいい。このCDのほとんどのレトラは彼自身が作詞しているみたい。そのブレリアの中にこんな歌詞がある。聴き取ってみた。(ちょっと違うかもしれないけど・・・)

¡Quién pudiera tenerte en un reloj!

de esos que granito a granito cuenta el tiempo

y a cada granito poder besarte yo

hasta formar una montaña, formar una montaña

lleno de besos de amor

日本語に訳したいけど、訳すとなんだかおかしくなってしまう。ニュアンスが変わってしまう。でもそれを承知で訳してみると

君を時計の中に持てればいいのに!

その時計、一粒一粒時を刻む時計。

そしてその粒ごとに僕は君に口づけする。

その粒が山を作るまで、山を作るまで

愛の口づけでいっぱいの。

やっぱりおかしい。私の訳し方が悪いのかな・・・要するにそういうことなんだけど、でもスペイン語で聴く歌詞と日本語訳した歌詞というのは、元が同じでも全然違ってしまう。

例えば「beso」という言葉。これは日本語にすれば「接吻」「口づけ」「キス」・・・なんか違うんだよな〜。「beso」は「beso」で他の何者でもない。要するにその言葉の土台となっている文化が違うんだろう。だからその言葉をその言葉のまま感じとらなければ。でもそれはスペイン語を母国語としない人には難しい。スペイン語を話す人にだって、フラメンコの歌詞を聴きとりましてや感じることは難しい。フラメンコの文化。

松尾芭蕉のかの有名な句。「古池や 蛙飛び込む 水の音」・・・この英訳を何かの本で読んだことがある。「それ、ちょっと違うでしょ!!!」と本にツッコんでしまった記憶がある。確かに訳しているけど、間違ってはいないけど、そうじゃないんだよ〜。という感覚。俳句は俳句だ。日本語だ。

それと一緒。多分。

でももし自分がもっとフラメンコの文化と日本の文化に精通しているなら、きっともっといい翻訳ができるに違いない。絶対的な限界があるにしても。多分私はどっちも中途半端なんだろう。

・・・・ちゃんと掃除したつもりでも、後から同居人が同じ所を掃除していたりする・・・

その掃除の仕方と一緒。多分。

でもそれはそれで、私は自分がやったことに満足していたりする。それが私の小さな幸せだったりする。最近そう思えるようになってきました。

明日からまた、そんな1週間が始まりますように。

2012年1月15日 セビージャにて

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