“テ・デ・トゥリアーナ”ライブ大成功!

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

木曜の「テ・デ・トゥリアーナ」ライブはお陰様で無事終了致しました。(ギター:フィティ、カンテ:エル・トゥリニ、踊り:アルヒロ、萩原淳子)前回のブログで、もう一人の踊り手を“男性舞踊手”とアップしましたが、女性でした・・・「テ・デ・トゥリアーナ」のライブでは男性舞踊手、女性舞踊手が一人ずつ出演すると聞いていたので、私が女ならもう一人は男と、勝手に思っていたのでした・・・しかしなんとアルヒロも同じ事を思っていたらしく、顔を合わせて「あれ〜女だ〜」とお互いにびっくりし、ゲラゲラ笑ったのでした・・・

当日はアルヒロがアレグリアスを踊りたいと言ったので、それじゃあ私はソレアかな。ということでソレアを踊りました。久しぶりのソレアで、やっぱり私の踊りはソレアなんだなと実感した次第です。ギタリストのフィティとは初共演でしたが、本当にいい瞬間がたくさんありました。こんなに踊りやすいギターってないんじゃないの、というくらいぴったり呼吸の合うギターでした。 トゥリニのソレアも重厚で、多分三者がそれぞれ光っていたのではないかな。ブレリアに入ってからは、それぞれの即興の掛け合いがあい、とても楽しかった。

ライブの次の日、観に来てくれた友達にこんなことを言われました。

「あんなにうるさい場所だったのに、よくあんなにすごいソレアを踊れたね。しかも、ジュンコが舞台に向かって歩いている時に男がジュンコの目の前を横切ったんだよ!信じられない!ひどい!」

・・・はあ?という顔をしてしまいました。 確かに最初はうるさかった。バル「テ・デ・トゥリアーナ」はグアダルキビル川沿いのベティス通りにあります。トゥリアーナ橋やヒラルダの塔を眺められるその通りは観光のメッカ。フラメンコはバルの奥の方で行われますが、入り口はライブ中も開放しているので通りにいる一般の通行人の騒ぎ声が筒抜けになります。私のソレアが始まった時、フィティのギターが始まった時、その騒ぎ声でギターが聞こえにくかった。そしてライブのお客さんが「シーシー」と静かにさせようとしている声も聞こえて来ました。そこまで。そこまでは確かに、私もうるさいなと思ったけど、それからはギターとカンテしか聞こえなくなったので、静かになったと思っていたのでした。でも実際は通りの騒ぎ声はずっと続いていたそうです。そして、私がお客さんの間を縫ってソレアを聞きながら舞台に歩いて行った時、ある男が私の目の前を横切った・・・・らいしのですが???全然知りませんでした。

自分が踊る時、ギターやカンテを聞き始めると、おそらく私の中で何かが起こります。その時の独特な感覚がある時は、あとは自分の身体から流れ出るものに素直に従えば、その時の踊りはきっとフラメンコなのだと思います。そしてそういう時の自分には恐らく余計なものは入ってこない。周りの騒ぎ声も私の踊りを阻むものも。

10年以上前にやはりソレアを踊った直後にお客さんから「大丈夫でしたか?痛くなかったですか?」と聞かれたことがあります。「何が?」と聞いたら「え、腕から血が流れていますよ」と言われたのです。え?!と思って自分の腕を見たら本当に血がたらたら。どうも踊っている最中にシージョ留めの針が外れ、それが腕に刺さりそのまま腕を動かしていたので針で腕をザザザと切っていたそうなのです。・・・ひえ〜と貧血を起こしそうになってしまいました・・・もちろんその時も全然痛みなんて感じなかった。(今ではもう、うっすらとしかその跡は残っていませんが、しばらくの間は跡が残っていたので本当は痛かったんじゃないかなと思います・・・。)

もちろんそれがいいか悪いかは分かりません。踊り終わった後に気付いたら歩けなくなっていて、その後1ヶ月半びっこを引いていた経験もあるから・・・。でもあの独特の感覚なない時は、確かに技術的には上手に踊れるかもしれないけど、ただソツなく無難に踊った、という結果になる場合が多い。なんなのだろう。ラジオのチューニングをするように、ギターとカンテに自分をチューニングさせる感覚。自分を集中させようと思って集中するのではなく、また何かを思い出したりストーリーを作って感情移入させるのでもない。ただギターとカンテを聴く。だからこそカンテとギターがいいものでないと。でもただよく弾けてよく歌えればよいという訳ではありません。なぜなら私達はそれぞれ人間だから。それぞれの、その人間としての何かがフラメンコを通してカチっと合った時、初めて私達はフラメンコの扉を開くことができるのではないかな。そしてその開かれた扉にすっと素直に入れる人が、同じフラメンコを共有できるのではないかな。

別の人がライブの終わった後に私にこう言いました。

「あなたのパソ、盗んじゃった♪」

「お好きなように。」私は答えました。そう、盗みたければ盗めばよいのだ。でもあなたは、何もフラメンコを学べない。フラメンコを感じられない。たとえパソを盗めても、その時は得したようでも、一番大切な瞬間を共有できなかったのだ。それはもう二度と現れない。それを自ら放棄したのだ。そして、あなたが盗んだそのパソは私のものと同じかもしれない。でも決して同じではない。なぜなら私のパソには私の歴史がある。これまでに私は何度もソレアを踊った。私の人生の中で何度も。その中で繰り返し繰り返し何度も涙を流し、そうして学びとったパソなのだ。

でも思い出さなくてはいけないことは、“私の”パソ、なんて本当はないのだ。フラメンコの長い長い歴史の中でそのパソは作られたのだ。誰のものでもない。本当は。でもその長い歴史に敬意を払い、自分の人生をかけて自分の命を吹き込めは、そのパソは自分に答えてくれる。いつも自分と一緒にいてくれる。そしてその命は誰かの心に伝わるはずだ。

フラメンコは電子レンジではない。長い長い時間をかけてやっとできるものだ。長い長い時間をかけてもできないかもしれない・・・自分の一生をかけても。でも続けていく。そのフラメンコに出会えたことだけで、私がこの世に生まれてきた意味があると思うから。

2011年2月19日 セビージャにて。

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