コンチャ・バルガスのクラス

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

今月はコンチャ・バルガスのクラスを受講していました。まだあと数日あるけれど、今日午後から数日間セビージャを離れなくてはならないので、昨日が私にとっては今月最後のクラスでした。それにしても、この暑い時に、熱いコンチャ。実はコンチャに習うのは初めて。コンチャから「あんた私のクラスを受けたことあるでしょう!あんたの顔には見覚えがある」と言われたけど、本当に初めてなんです。シギリージャとブレリアのクラスを受講しました。

  • 6月12日(火)シギリージャクラス

どこかで見たことある人がクラス見学をしている、と思ったらマカニータだった。9月のセビージャのビエナルでコンチャとマカニータはアンドレス・マリンの公演で共演するらしい。シギリージャのクラス中、急にコンチャがマカニータに向かって叫ぶ。「ティア!(女友達を呼ぶ時に使う言葉)あんたのブエルタ、あれはどうやってんの?ブレリアを歌いながらパルマをたたいて回る、あのブエルタよ。本当にすばらしい。舞台の上でやった時ときたら・・・」するとマカニータが「え〜このブエルタのこと?」と言い、軽く歌いながらくるくる回り始めた。生徒一同大喜び。その後「コーヒー飲んでくるわ〜♪」と表に出て行ったマカニータを尻目に、コンチャはものすごい形相で「あのブエルタを私もやりたいんだけど、できないのよ。ホラホラ。」と言い、試しに回り始めたコンチャ。・・・たしかに回れていない・・・「あのブエルタやりたいんだけどな」とコンチャはものすごく悔しそうに何度もつぶやいていました。

  • 6月13日(水)ブレリアクラス

コンチャが大変興味深い話をする。

「私は小さい頃コンパスなんて知らなかった。生まれながらにしてコンパスを持っているなんて大間違い。今もはっきり覚えている。私の父はアントニオ・マイレーナやフアン・タレガを自宅に呼んでよくフィエスタを開いた。4〜5歳の頃。その時アントニオ・マイレーナが私に小銭を握らせて言ったの。『これで飴でも買っておいで』つまり、パルマをたたくなってことよ!戻ってくるなとは言わなかった。でもそういうこと。私がパルマをたたくことでフィエスタが台無しになるからね。だから、『コンチャは生まれながらにしてコンパスを持っている』なんて大ウソよ!!!私にコンパスを教えてくれたのはペペ・リオ。それから私はグィートやマリオ・マジャと組んで彼らから学んだ。もちろん私の踊りは彼らの踊りのようではないけど。私は私の踊りだから。」

さらに続くコンチャの話。

「そして私の夫はバルを経営していて、そこにアーティスト達がたくさん集まった。私は彼らがどう踊るか見て学んだのよ。フラメンコは学校では学べない。学べるけど学べない。フラメンコを知っている人達と一緒に飲み明かすのよ。フラメンコを〝本当に〟知っている人とね。」

  • 6月13日(水)シギリージャクラス

マチョの部分の振付。なんと、あのマカニータのブエルタがマチョの振付に取り入れられた!コンチャは言う。「マカナ(マカニータのこと)はブレリアで回ったけど、私達はシギリージャで回るからね。これはマカナのブエルタだからね」そして回るコンチャ。昨日より少し回れている。でも舞踊的には厳密には回れていない。軸もずれているし視点も定まっていない。でもなんであんなにフラメンコなの?!そして、技術的には余裕しゃくしゃくで回れる私の、でも薄っぺら〜いフラメンコ。この差。歴然とした差。。。。

  • 6月14日(木)クラス欠席しました。 ファルキートの公演のために。クラスを受けてから汗だくでリュック背負ってロペ・デ・ベガ劇場まで自転車すっ飛ばして行くなんて、できない。できるけど、私にはできない。この日はコンチャには申し訳ないけどクラスをお休みして、ちゃんと時間に余裕を持ってguapaにして劇場に向かう。

やっぱりファルキートという踊り手は唯一なのだ。ファルキートに憧れてファルキートのマネをしている踊り手は世界に何十万人といるだろう。でも誰もファルキートにはなれない。ファルキートを観た事のない人にはウケるかもしれないけど、観た事ある人にはちゃんちゃらおかしいか、みじめで可哀想か。いっそのこと、ものマネ芸人みたいに、ものマネという角度からそのアルテを磨くのはどうか。〝コロッケ〟のフラメンコ版みたいな、ものマネアーティストが出て来たら、それはそれですごいんじゃないの???ただのものマネがアルテに昇華するんだから。そういう人達が集まった「ものマネ・フラメンコ選手権」の方がコンクールなんかよりずっと面白い気がする。(話が飛躍しすぎました)

  • 6月15日(金)ブレリアクラス

コンチャがブレリアのコンパスで「さくら〜さくら〜」と歌い出す。それを聞きながらブレリアを踊っていたら、コンチャが私のことを「彼女は日本人だから日本の桜を思い出して踊った。それをsentir(感じる)という。彼女は彼女のやり方で踊っているけどね。でもそれは大切なこと。私は皆にアイデアを与えることはできる。でも感じるのはその本人。大切なのは皆それぞれが自分自身を持っていること。」

クラスの中では黙っていたけれど、本当は「さくら〜さくら〜」しか聴き取れませんでした。コンチャが歌うと日本の歌でもフラメンコに聞こえちゃうんだよね。そのコンチャのフラメンコを感じて踊っていたんだよね。やっぱりこの人はフラメンコのかたまりなんだな、と。そして私は自分のやり方でわざと踊っていたのではなく、クラスで習った振付をちゃんと覚えていなかったんだよね・・・でもせっかく褒められたから黙っておくことにしました。とはいえ、なんだか良心がとがめるのでブログにて告白させて頂きました。。。。

そしてコンチャは皆に円陣を組ませ、ブレリアのコンパスについて説明し始めました。「ブレリアの1コンパスは12拍ある!!!アクセントは5つ!!!アクセントの場所は数で言うと、3・6・8・10・12。ブレリアの1コンパスは二つに分けることができ、前半は長い部分(12・1・2 / 3・4・5)後半は短い部分(6・7/8・9/10・11)!!!!分かったか!!!!」フラメンコを数年習ったことのある人なら皆知っている当たり前のことだと思うのだけれど、コンチャはこれをものすごい形相で、大声で叫びながら教えてゆく。この世の終わりを民衆に告げる予言者ように。そしてさらなる雄叫び。「フラメンコを20年学んでいてこんなことも知らない人がたくさんいる!!!!」

・・・・私は思いました。私は知っていたんだろうか?本当に?自分が知っていると思っていただけで、フラメンコから見たら、無知限りないんじゃないかって。

  • 6月26日(火)クラスの後で

コンチャのクラスって、自分が踊るよりコンチャをただ観ている方がいい気がする。自分の踊りなんてばかばかしく思えてきてしまう。は〜っとため息をついていたら、コンチャがやってきて「クラスに満足しているか?」とにかっと笑いながら私に聞く。もちろん満足しています、と言ったけど、ため息ついた所を見られてしまったので、正直に思ったことを言ったら、コンチャは言いました。「踊るのは誰にでもできる。誰にでも教えられる。でもあんたのここ(私の胸を指差す)にあるものを目覚めさせなくてはならないのよ。誰かが。それを取り出さなくてはならないのよ。」

私はコンチャのクラスを受けてもコンチャに食べられない自信はある。「食べられる」というのは、つまり自分自身を失ってコンチャのコピーに陥ること。ここは非常に難しいところで、その先生のクラスでその先生を見て踊るわけだから、見た目、その先生のように踊ってしまう(もしくはそう努力する)のは普通だ。なおかつ、その先生が大好きならその先生とそっくりに踊りたくなる。確かに学ぶということは模倣から始まる、らしい。でも重要なことは、絶対に誰にもコンチャにはなれない、ということ。どんなに上手くコンチャのように踊ったとしても、それはコンチャの〝よう〟 であって、コンチャではない。そして何より、その人ではない。つまり、コンチャの〝よう〟というのは、はっきり言えば〝エセ・コンチャ〟、もう少し柔らかく言えば〝なんちゃってコンチャ〟なのである。

クラスで先生の言う事を聞いてきちんと踊れると先生に褒められる。それは一つの学びで褒められるに値する。先生だって生徒が自分の教えの通り学んで伸びてくれて嬉しい。が、しかし、それはクラスの中だから。もしその人がそのまま先生のように踊り続けて、クラスの外で踊れば、「◯◯先生の生徒だ」としか見られない。その人に〝personalidad(ペルソナリダー)〟がなければ。〝personalidad〟というのは、その人自身、その人がその人であるためには欠かせない何か。それがなければ「◯◯先生の振付だ」とか「◯◯先生の踊り」になってしまう。つまり、その人自身が語られるのではなく、◯◯先生が語られる。そうすると何が起こるか。まず、その人には、クラスでは褒められていたのと逆の現象が起きてしまう。そして先生の側からすると、これはコンチャのことではなく、一般的な先生の話だけれど、自分のコピーが世の中に広まるということは、自分の生徒が自分を宣伝してくれていることになる。たとえ生徒に〝personalidad〟を持ってほしいと思っていて教えても、自分の広告塔になってくれる生徒が世界中に増えれば、最終的にその先生の名と踊りはその広告塔を通して世界に広まる。これは矛盾しているけど、完全に先生のビジネス。

何をどう教えるか、それは教える側の倫理観、フラメンコ観に基づく。いろいろな先生がいる。先生だって食べていかなくてはならないというのも現実だし、いろいろな教え方がある。誰が正しい・間違っている、でもなく、誰の方がよい・悪いの問題でもない。皆それぞれにおいて正しい。だから習う側は、自分とは何なのか、自分が踊るということはどういうことなのか、そのために自分が何を学ぶのか、それを学ぶためには誰に師事したらよいのかを自分で見つけなくてはならない。それは習う側の責任。〝personalidad〟の確立はそこから始まるように思う。

  • 6月27日(水)ブレリアクラス、シギリージャクラスともに

「カンテを聴け、歌え。踊るからにはカンテを知る義務がある。」

「私の踊りはソレア。踊りを一つ持て。4つもいらない。」

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6月28日 出発する前に、考えを整理したかった・・・・けど、まだまだ考えそう。 セビージャにて。

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