お陰様で、1/28〜31「上海クルシージョ」はお陰様で無事終了致しました。上海だけでなく、北京や広州などの外地からのご参加も頂き、たくさんの方々にご受講して頂きました。本当にどうもありがとうございました。今回のクルシージョ(短期講習会)は、セビージャで私の個人レッスンを受講して下さった上海の方が、是非上海でもクルシージョを、ということでオーガナイズして下さいました。上海では主に現地のフラメンコ学校がスペイン人やスペイン在住の舞踊家を講師として招き、クルシージョを開講していることが多いそうですが、今回はその方と現地在住の日本人の方々による個人的なオーガナイズ。いろいろ大変なこともあったと思いますが、心からのおもてなしをして頂きました。本当にありがとうございました。
スペインと日本以外の国では初めての教授活動でした。生徒さんの割合は3分の2が中国人、3分の1が現地在住の日本人だったでしょうか。授業はスペイン語で行い、日本語でも時々説明しました。中国語への通訳も入り、最初は授業がスムーズに進むかな・・・という心配もありましたがが、お陰様でたくさんの生徒さんからお喜びのお声を頂きました。
上海では1〜2ヶ月単位のクルシージョが多いらしく、その度に生徒さんは先生も曲も異なる振付を学ぶのだそうです。私のクルシージョは日本同様、振付よりも基礎。そしてどこに問題点があるのか、なぜそれができないのか、できるようになるにはどうしたらよいのか、そもそもなぜそれを学ぶ必要があるのか、を生徒さん自身に考えてもらい、そして徹底的に説明します。そしてその実践。今までそんなこと教わったことがなかった、考えてみたこともなかった、とたくさんの生徒さんが驚かれていました。そうですね・・・振付中心のクラスでは確かにその部分がおざなりになってしまうのでしょう。手足は動かしているので踊っているようには見えるけど・・・という状態でしょうか。それは中国だけではなく日本でも同じかもしれませんが・・・。
教えていてたくさんの事を学びました。まずフラメンコを学ぶのに必要な性格。
①真面目
②明るい
③素直・謙虚
この3点要素があればどんどん伸びます。今回のクルシージョ受講生の多くにはこの3点が揃っていました。もし、敢えて中国人と日本人の違いを挙げるとすれば、一般的に中国人はどんどん質問する点でしょうか。自分が質問することでクラスを中断してしまうのではないか、こんなことが分らないのは自分だけなのではないか、皆の前で手を挙げるのが恥ずかしい・・・etc。日本人の多くががクラス中に質問することを躊躇してしまう(上海クルシージョに限らずどこでも)中、中国人達の質問の多さは特筆すべきものがあります。
中国の人達は自分が分らなければ分るまで質問する。そして出来た時、分った時、出来ない時、分らない時の感情表現、意思表示が日本人よりもはっきりしています。個人的には反応が見える方が教えやすいです。もちろん先生によっては教えにくいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。よく言われる日本の学校教育のように先生がとうとうと話をし、生徒は黙って板書をノートに写す、という一方通行的な教え方を好む先生には。
もちろん質問にも〝質〟があります。授業の内容とは全く関係のない質問。この手の質問にももちろん答えますが、回答はさっさと終わらせる。もしくは授業後、個別に答える。そして〝質〟の高い質問。それは授業をちゃんと聞いていて、自分の頭でちゃんと考え、そこから出て来る質問。それでも分らない質問。そういう質問はoleです。なぜなら能動的に授業を受けているから。受動的にただスタジオに存在している人には絶対に出てこない類いの質問です。面白いことに、こういう質問は意外と初心者の方が多い。フラメンコ歴の長い人の方がいろいろ知っているから、たくさん質問が出て来るのでは?と思われる方も多いかもしれませんが、実は反対だったりもします。
ここに学びの秘密が隠されています。
フラメンコ歴が長いとそれだけ確かに知識は多い、初心者よりも。しかし、知識が多くなればなるほど、「それ、知ってます。もう習いました。私できます。」と思ってしまう人も多い。
本当なのか?それは?・・・・と、改めて問いたい。
なぜなら、実はそれが危険だということに気付いていない〝自称上級生〟が意外と多いから。なぜ危険なのでしょう?それは、そう思うことで自分で自分の脳みそにシャッターを下ろしてしまうからです。フラメンコは私達からすると外国の文化です。外国人がちょっとフラメンコの振付やテクニックを学んだからといって、それでフラメンコを踊っていると思ったら大間違い。土足でその文化を踏みにじっていることにもなりかねません。自分が知っている(と思っている)こと、習った(と思っている)こと、できる(と思っている)ことなんてのは偉大なフラメンコの中ではミトコンドリアにも満たない大きさなのです。
にもかかわらず、「それ知ってます、もう習いました、私できます」と勘違いすることで、どんなに教えてもらっても、もうその内容は頭には入らない。自分で自分の脳みそにシャッターをおろしているわけですから。もちろん教える側としてはそのシャッターを開ける可能性を示すことはできます。見限ったりはしません。でも、自分でしめたシャッターは自分で開けなければならないのです。
そしてそれとは反対にシャッターなんて最初から何もない人もいます。全開。だから教わることは全て飲み込む。その時にはできなくても全て吸収してしまう。初心者の強みはそこにあります。ただし、「みんな上手いのに、私だけ下手・・・」と卑下する人、落ち込んだまま立ち直らない人はダメです。だから「明るさ」が必要なのです。「明るさ」は時に「強さ」を生み出すのです。
今回のクルシージョでこんなことがありました。初心者の中国人の生徒さん達が数名参加されたのですが、ご本人達も自分たちのレベルは重々承知いうことで、「クラスについてゆけないのは分っている、自分たちに構ってもらわなくてもいい、でもどうしても参加したいので先生の許可がほしい」との連絡が事前にありました。まずこの時点でこの生徒さん達は素晴らしい。「謙虚」なのです。もちろんそのような謙虚な生徒さんの参加は大歓迎です。確かにクラスの中では他の生徒さん達より遅れをとっていたかもしれません。例えば、サパテアード(足音)のクラスでは他の生徒さん達がぱっととってしまうパソ(足の動き)がなかなかとれない。ちなみに私のクラスでは足の動きをとることよりも、そのリズムとコンパスのうねりをとることを重視します。そのため、足を動かす前にリズムを口で言ってもらうことが多いのですが、クラス終了後その生徒さん達が、先生の音を録音したいとやってきました。私がサパテアードを始めると、「違う違う」と言います。え?何が違うの?と聞くと「サパテアードの音ではなく、先生が口で言うリズムを録音したい」と言うのです。これには参りました。なんという「素直」な学び方でしょう。私がクラスでさんざん叫んでいた口三味線というのでしょうか、アクセントやためや抑揚や間をつけた、あのリズムを録音して彼女達は満足して帰ってゆきました。
フィエスタのブレリアクラスで、ブレリアのコンパスを学んだ時もそうです。コンンパスを足で刻み、レマーテをさぐっていた時のことでした。コンパスを刻む重要性、レマーテとは何か、それを説明しながらカンテを聴いてoleと思わず出てしまう、そんな私と一緒にコンパスを刻みながら、なんと、ブレリアを習ったことのない彼女達のうちの一人の口からなんと、「ole」が飛び出たのです。まさにそのレマタールされた瞬間に。その時の彼女の喜びの顔は忘れることができません。それに対して、もし「なんでこんなことをいつまでもやってるわけ?早く振付教えてよ」ともし思っている人がいたとしたら・・・その人は〝自称上級生〟かもしれませんね。そして〝自称上級生〟である以上、その人の口からは決して「ole」は出てこないでしょう。なぜならフラメンコを聴こうとしていないから。聴かなければフラメンコは感じられない。フラメンコの一番重要な部分を教わっているにもかかわらず、全く学んでいないことになってしまうのです。
やはりここにも学びの秘密があるのです。そう考えると、今の時点でのフラメンコ歴なんてのは、どうってことなくなってしまう。もしかしたら今は初心者かもしれない。でも学び方によって、たった1時間半のクラスでもその立場をひっくり返してしまうことだって大いにあるのです。そして〝自称上級生〟はそれからも学べない。〝本当の上級生〟というのはどんなことからも学ぶ、だから〝本当の上級生〟になってゆくのです。
じゃあ初心者だからよいのか、そういう問題でもありません。クルシージョは特別授業のようなもの。普段の基礎の勉強がきちんと身に付いているからこそ、そこに肉付けして学べるのです。だから、本当は普段の基礎の勉強という土台があれば、今回の初心者の生徒さん達はもっともっと収穫があったでしょう。でもそれは人それぞれ。スタートが違って当たり前です。だから重要なのは「今」。今のその時間をどう学べばよいのか、そしてそれを今後どう生かせばよいのか。それを各自一人一人の状況に合わせて、コツコツ積み上げてゆくのです。
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長い間私も学んでいます。いろいろな変遷がありました。もちろん〝自称上級生〟の時代もありました。そのために長く無駄に時間と労力を費やしてしまったことを今、悔やみもします。でもその時代があったからこそ、今の自分があるとも思います。そしてまだまだ学んでいます。学ぶことには限りがありません。生徒として学び、先生としても生徒から学ぶ。そうして私の一生が終わるのでしょう。でもフラメンコは不滅なのです。悠久なる歴史と文化、彼らの人生や生活の中でずっと生き続けるのです。そういうものを私は学ばせて頂いているのだ、ということを改めて肝に銘じています。だからこそその自分が教える時には、自分の今までの学びの、今までの人生の全責任を持って教える。それに値する学び、それが私には必要なのです。
教えるからには。
Foto: Koji Terada
2015年2月2日 帰ってきた日本にて。