セビージャでのセミ・プライベートレッスンを終えて。技術力の向上と経験と感動について思う。

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

グラナダから戻ってきて大風邪を引いてしまいました。病み上がり途中の萩原です。とはいえ、今日はセミ・プライベートクラスの最終日だったのでがんばって起きてみました。これまで数ヶ月間クラスを受けて下さった生徒さんのうちお一人が来週で帰国してしまうため、最後のレッスン。そんなこともあり、涙あり笑いありの今日レッスンでしたが、今までのことを振り返ると、皆さんほんとによく成長されたなあと実感します。本当にお疲れ様でした!

できないっていうのはその本人自身が悪いとか、その本人に才能がないとか、そういうことではなく、なぜできないのか?どこに問題があるのか?どうすればできるようになるのか?を知らない、教わっていない、もしくは教わってもそれを理解していないだけのこと。それをきちんと理解できれば、できるようになる。もちろんクラスの中でその場ですぐにできる人は少ないのだけど、その時にはできなかったとしても、クラスの中でできそうになる萌芽というのが生徒さんの中に芽生える。あとはその感覚を忘れないように自分でしっかりコツコツと時間をかけて練習する。それが世に言う「自主練」(自主練習)というもの。だから、「できないなー」「なんでできないんだろう、私」「これだけやってもできないってことは、フラメンコに向いてないってこと?」とマイナス思考に傾きながら練習するのは私からするとお金と時間と労力の無駄。もしくは意味もなくただ身体を動かして汗をかいて練習した気になっているというのは、気持ち的には「練習した〜」とスッキリするけど、上達することは違う、偉大なる勘違い。

教える側には、その生徒さんのどこに問題があって、どのように直せばよいのかを見抜かなくてはいけないし、それをきちんと言葉と身体で説明する必要がある。理解してもらうために。そして同じ視点を生徒さんに持ってもらえば、あとは生徒さん自身が自分でどんどん直せるようになる。自分の欠点・長所、そしてクラスメートのそれも同様に見極めることができるから、同じクラス時間でも今までの何倍も吸収して学べる。あとはどれだけ自分に厳しくコツコツ自主練習を続けられるか。それは本人の意思の強さ。どこまでフラメンコを学びたいのかというレベルにもよります。だからこれらが揃えば、踊りは上手くなる。技術的には。

・・・そう、技術的には。だから外国人でもフラメンコを上手に踊れる人はたくさん出て来ている昨今なのだと思います。

・・・が、バイレ・フラメンコとはそれだけではない。

そこがフラメンコの難しいところであり、奥深いところであり、私達を魅了しているところでもあるのでしょう。

技術だけではフラメンコは踊れない。でも技術がないと踊れない。しかし技術を超越した所にフラメンコというものは存在している。

スペインでは12月の上旬に連休があります。昨年の12月、その連休を利用して、生徒さん達と私の夫アントニオと私で、タリファへ小旅行しました。タリファというのはアントニオの育った場所で、ヨーロッパ大陸の一番南、アフリカ大陸に一番近い町です。セビージャからバスで3時間程なのですごく近いというわけでもないのですが、夫の家族がタリファに住んでいることもあって、私はこれまでに何度か行っています。今回も夫と二人で行くつもりだったのですが、せっかくの機会なのでいつもがんばっている生徒さん達も誘おう!ということになり、皆で夫の実家におしかけました。(笑)タリファ観光もしつつ、近郊の町アルへシーラスまで足を運んだり、時期的なこともあってアルへシーラスのペーニャでフラメンコのサンボンバを聞きたかったのだけど、ペーニャは閉まっていました。でもパコ・デ・ルシアの生家を訪れたり、元フラメンコの歌い手という人とバルで飲んだり。大したことはしなかったけど、私の中ではとても大きなフラメンコの勉強になりました。それはほんとにささいなこと。フラメンコギターの神様と呼ばれるパコ・デ・ルシアが子どもの頃過ごした地区というのがどんな雰囲気の所なのか、その場所を実際に自分の足で歩くこと。ヒターノの子ども達が、パコの家はこっちだよ〜と、サッカーして遊んでいるのを止めてわざわざ私達を道案内してくれたこと、その道路の反対側ではジャンキーのおばちゃんが大声で歌いながら闊歩していたこと、全てなんてないこと。でもそれがいかに、フラメンコと密につながっているのか。果たして、そういう経験を、フラメンコの踊りを学んでいる人間の何%が持っているのか。何%がそのつながりに感動できるのか。

いや、何%なんて統計的なことはいい。自分はどうなのか? 自分はそれに対して100%なのか????

結局私達は外国人だ。どんなに上手に踊れようが、どんなにそれらしく踊れようが。でもそこに少しでも、「経験と感動」というものが加わるのであれば、それらは必ずその人の人生の一部となり、そして最終的にはその人の踊りににじみ出て来るのではないか、と思う。それは技術でも模倣でもない。なぜなら、その経験と感動というものは、その人の五感と脳みそと身体とを全て総動員して得て刻み込まれた、その人自身そのものだからだ。

何を経験し、何に感動するか。それがその人の人生そのものであり、フラメンコそのもの・・・・私はそう思っています。

そして、生徒さん達はきっと私が知らない所でも、そんな留学生ならではのいろいろな経験といろいろな感動をしているのだと思う。だから今回のクラスで学んだ技術がそれらと結びついて、いつの日か、生徒さん達自身が、彼女達に感動を与えたフラメンコを踊れるようになればいいなと思っています。

時間がかかってもがんばるのだ。お互いに。

2016年2月18日 セビージャにて。

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