被災者への支援と「表現の自由」について考える。

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

ここ最近ずっとブログ更新が滞っておりました。「第18回少人数制クルシージョ」「第8回福岡クルシージョ」「第8回大阪クルシージョ」、つくば国際美学院さんでのクルシージョ全てお陰様で無事に終了し、先週セビージャに戻りました。受講して下さった皆様、本当にありがとうございました。

お陰様で私の方はまたこちらの日常の生活に戻っております。・・・・が、今回の九州地方での地震に大変心を痛めております。お亡くなりになってしまった方々のご冥福をお祈りすると共に、避難されている皆様が一日でも早く安全と安心を取り戻せるよう、微力ではありますが支援させて頂いております。

インターネット上での情報網が発達し、こちらスペインにおりましても現地でがんばっていらっしゃるボランティアの方々の活動を毎日随時確認することができます。もちろん行政の活動も確認できますが、現段階では実際に現地で働いている方の生のお声の方がより的確で迅速なのではないかと。全ての情報を鵜呑みにするわけではありませんし、それで全てを知ったつもりにもなりませんが、そのような日々の情報を元に支援物資を何点か送らせて頂きました。現地ボランティアの方々のお仲間の方が福岡の方で物資を集められ、4トントラックで熊本まで発送して下さっているとのことです。私個人で物資を直接届けることはできませんし、もしそれをしたとしても逆に交通渋滞を招きご迷惑になると思いますので、まとめて発送して下さる方々がいらっしゃるのは大変嬉しいです。少しでも早く、今すぐに支援したいと思っている私達の気持ちも一緒に届けて下さるわけですから・・・。

支援に関してはよく考えました。そして今も考えています。

東日本大震災の時は、義援金を集めるためセビージャや日本でチャリティー公演に出演しました。また震災後東京で開講したクルシージョでの収益金は義援金として送らせて頂きました。ただし義援金が被災者の元に届くには時間がかかります。チャリティーの公演やクルシージョを企画し実施するまでにも時間がかかり、その義援金を送るのにも時間がかかり、そこから被災者へ分配されるまでさらに時間がかかります。長期的な視野での支援にはよいと思うのですが、今すぐ支援するにはどうしたらいいのか?

そしてこちらのHPでも発表していますが、東日本大震災の直後、個人的にセビージャのフラメンコアーティストにインタビューをして、たくさんの応援メッセージを頂きました。ただの応援ではなく、アーティストの皆さんがこれまでの人生の中でどのように苦しみや痛みを乗り越えてきたのか、今乗り越えているのか、それを語って頂いた上での応援メッセージでした。たくさんの方から、「励まされました」「ありがとうございました」とメッセージを頂きましたが、でも今すぐに被災者の皆様に役立つ訳ではない。

今、苦しんでいる人を、すぐに助けるために私ができること。

毎日毎日、必要な物資は変わります。昨日必要だった物資が今日もう必要でなくなることも。そんな情報を毎日毎時間確認しながら、その都度支援物資を送らせて頂いています。私個人が送れる量ですからたかが知れているのは承知です。どこかの大きな企業がぼーんと大量に物資を送れば、私個人のものなんてなんでもないのだと思います。でも同様に考えている方が他にもたくさんいらっしゃって、そのようにして集まった物資を4トントラックで毎日まとめて運んで下さるボランティアの方がいらっしゃる。そうして頂けることで個人個人のとるに足りないかもしれない支援も、大きな企業の支援と同じくらいの支援になるのでは?少なくともそのひとかけらになるのではないかと思います。

私個人でできることは小さなことです。でも小回りがきく。だから迅速な支援につながる。それに対して皆で力を合わせて計画して実行することは時間がかかるけど、個人個人よりも大きな結果を生む場合もある。どちらがよくてどちらが悪いという問題ではない。重要なことはその都度その都度自分で考え、判断し、即効性と長期的な展望もって支援してゆくことだということを私は東日本大震災の時に学びました。

もちろん、世の中にはいろいろな方がいらっしゃって、「そんなの無意味だ」とか「自己満足にすぎない」とか「売名行為だ」とかいうご意見もあるのは想像に難くありません。・・・いいんじゃないでしょうか。「民主主義」の世の中ですから、各自自由に考え、自分の思う事を公表できるわけです。そしてそれと全く同じ理由で「民主主義」の元に、私は自分の思い・考え・活動を公表します。しかしそれは、自分がこうしているからあなたもそうすべきよ、と半強制的なメッセージを送っているわけではなく、「表現の自由」を単に行使しているだけです。踊ることと一緒です。だって、「表現の自由」とは私達が持つことのできる権利なのだから。他人の自由と尊厳を奪わない限りは。

「民主主義」に基づく「表現の自由」を段々と脅かしているのは社会の外枠だけではないと思います。被災していない人間の「心」に目を向けた時、個人個人の心の中にもそれを脅かすものが忍び寄ってきているのではないか。支援する・しない、どのように支援するのか、という観点以前にその「心」が被災している人。いや、それは被災とは言わない。被災とは災いを被ること。心が被災しているのではなく、自分のその考え方・行動によって自分の心に自分で災いを招いている人、育てている人。そしてその災いで新たな災いを誰かに被らせている人。それに気付いていない人。根拠のない批判や誹謗中傷が生まれ、その人達によって「表現の自由」という権利が脅かされると言わざるを得ない昨今、気をつけなくては。その自由はそこにあるものでもない、プレゼントされるものでもない。人類の歴史の中で闘ってつかみとられてきたもの。それを守らなくては。そしてその自由の意味をはき違えてはいないか、自分以外の人間の自由があり、その人間も自分と同様、人としての尊厳を持っているということを改めて考えなくてはいけない。

支援をすることは特別なことでもなく、支援をした人間が特別な人間なわけでもない。ましてや支援額や支援の量によってその人間が格付けされることなんてあり得ない。でも今、当たり前なことが当たり前でないことに、そして当たり前でないことが当たり前なことにすり替わりつつある・・・。

自分を見失わないようにしなくちゃ。そのためには自分の頭で考えて、自分で決断し、自分の意思で行動する。小さい頃からずっとやってきたこと。それを続ける。

2016年4月21日 セビージャにて

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