俳句と新人公演用の振付とフラメンコに関する考察。

Unknownみなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか?

今日は仕事がお休みでしたので、ダウンタウンの浜ちゃんが司会するテレビ番組を見ていました。番組名は分かりませんが、結構前から放映されているので人気なのでしょう。芸能人にテーマを与え俳句を作らせ、俳句のプロの先生(写真:ネットより拝借)に添削してもらうもの。面白いです。

で、ちょっと思いました。この俳句の先生の添削の仕方って、新人公演とかで時間制限のある曲の振付の作り方にすごく似てる。ここで言う新人公演というのは、日本フラメンコ協会が毎年主催しているフラメンコのコンクールみたいなもの。とにかくたくさんの出場者がいるので、一人1曲7分半という時間制限の中で踊りを披露するわけです。(ギター部門、歌部門もありますが、今日のブログは踊りに関して。)この7分半ってはっきり言って短いです。普段私達がレストランとかで観るフラメンコショーでの踊りの1曲は10分〜12分くらい。劇場公演だと1曲15分くらい踊る場合もあります。ちなみにスペインのコンクールでは時間制限があっても10分ですし、お国柄でしょうか、多少オーバーしても全然問題ない場合も・・・(笑)そんなところを見ても、やはり1曲7分半の踊りっていうのは短い。もちろん、その人の踊りを評価するのに7分半も必要としない場合もあります。出て来ただけで「あああああ!この人は!!!」という太鼓判の人や、残念ながらその逆の人も・・・。そのような方々は7分半振付しようが、ものの3秒で実力が分かるわけです。が、そういう場合は例外として、出演する側からすると7分半の中に審査員に評価してもらうだけの要素を詰め、流れを整えるのには結構苦労します。

私が新人公演に出場したのはもう15年以上前だったかな?あの頃はもう少し振付時間が長かったように思えますが、いずれにせよ当時の先生に時間内に振付けて頂いたものを必死に練習していただけなので、こんなことは考えなかったです。それから年月が経ち今度は自分が「先生」と呼ばれるような立場になり、ここ数年、新人公演出演者から踊りを見て下さいと頼まれることが時々あり、うわっ、7分半って短いんだなって改めて思いました。

すみません、話は元に戻ります。その先生の俳句の添削基準を見ていると、これは既に述べた新人公演のような時間制限のある振付をする時と同じなんです。考えてみれば、俳句も字数制限がありますね。私のブログみたいに字数制限なければ(笑)だらだらだらーと気の済むまで文章を書けますが、俳句はそうはいかない。5・7・5の中にたくさんの情報を入れ、季語を入れ、それでいて語呂もよく、その情景が浮かばなくてはならない。こりゃすごい芸術です。たった5・7・5の中にアルテが詰まっているわけです。

で、先生がおっしゃるいい俳句を作るポイントと時間制限のある時の振付作り方のポイントに、例えば、こんな共通点があります。

①同じ様な内容の言葉は繰り返さない。

5・7・5の中ですから、同じ言葉を繰り返している余裕はないんです。情報は1つでいい。その分他の情報を語るのに字数を回すわけです。


フラメンコの振付を見ていると、何度も同じような動作とかパソ(足の動き)を繰り返す人がいます。なぜなら踊る側からするとそれが楽だったり、好きだったりするからどうしても気付かないうちに何度も出てしまうんです。もちろん私も経験あります。でも観ている人からすると「また?」「それ、さっきも見た」という印象を持ってしまう。人によっては「他にネタはないのか?」と思う人も(笑)それだったら重複する部分をカットして別の動きなり、音なりに変えた方がいいわけです。当たり前と言えば当たり前ですが、結構踊っている本人は気付いてしなかったりします。

②ただし、あえて繰り返すことで意味を持たせることもある。

①をふまえた上です。もちろん3回4回と繰り返すと①と同じになりますが、自分が強調したいものなどをあえて、1曲の中に例えば2つ入れる。これはお客さんもしくは審査員に印象付けるための、確信犯的な振付の仕方。なんとなく同じものが2つ入っていたというのと、確信犯的な2つではこれは雲泥の差です。

③最初から結論が分かってしまう句はだめ。どんどん展開してゆく、もしくはどんでん返しの面白さ。

次の動きや展開が簡単に予測されるような振付というのは、観ている方からすると驚きがない。要するにつまらない。飽きる。

④視覚化と聴覚化の重要性

俳句は読んで楽しむものです。映像も音声もない。だからその俳句から、何かが見えて何かが聞こえてくることが重要。フラメンコの踊りって、まさに視覚と聴覚がかけ合わさったも。その踊りがどう視覚化されて、どう聴覚化されるのかを客観的にとらえる必要があります。

⑤ありきたりの季語ではなく、それも季語か!という斬新さ

季語は季節感を表し、その俳句の要となるもの。フラメンコの踊りでも、曲によってその曲らしさを表すものというものがあります。それはその曲の歌の内容だったり、歌の歌われた場所の特徴だったり、伝統や歴史だったりします。それらを知らずに、尊重せずにただ動きだけ振付ると一体その踊りはなんなんだ?ということになる。アイデンティティが見えてこないからです。フラメンコを、つまりカンテを知っている人から見れば、それは一目瞭然です。ただ動きの羅列を音楽に押し込めただけなのか、それともそのアイデンティティを学んで理解して尊重しているのか。ただしきちんとフラメンコを学んでいらっしゃる先生であれば、それはちゃんと振付て下さっているはずです。審査員の先生方は言わずもがなでしょう。

ただし、「それも季語か!という斬新さ」。これはその人のセンスだったり、何をもって季語とするのかという考え方の広さにもよってくるのではないでしょうか。何がなんでも純粋に、これまでの歴史の中で「これぞ季語」と言われたものしか季語と認めない方もいらっしゃれば、これも季語、へー、でもありだよね。そのセンスすごいねって認められる方もいらっしゃるのかなあ。ただ、重要なのは、伝統的に季語と言われているものが何なのかまず知らなくてはならないことではないかな?(もちろんその土台には日本の文化や歴史風土も関係していると思う。)それをしっかり学んでいるからこそ、斬新な季語っていうのが生まれてくるんじゃないかなあ。・・・・はいはい、そう考えてみるとフラメンコも同じですね。フラメンコの文化の土台なしに、単に目立とうと思って奇をてらった動きや音を出して斬新(モデルノ)って呼ぶのはね・・・

まあ、挙げればキリがないのですが、とにかく共通点がいっぱい。そしてそう考えると俳句ってすごい芸術だなあと感嘆するわけです。
ただし、フラメンコもすごいぞ。なぜなら、俳句は一度作ってしまったらそれはその作品として固定される。でもフラメンコは違う。俳句と同じような観点で振付をしたとしても、フラメンコの踊りのすごさっていうのはその振付から飛び出てくるところにある。
なぜなら、カンテ(歌)とギターがあるから。それを聴いて感じて踊るから。そこから出て来るものこそフラメンコの踊りだから。
そう、フラメンコの踊りって、振付を踊ることじゃない。
松尾芭蕉の俳句が未来永劫その言葉通りに変わらないのに対し、フラメンコは一瞬一瞬のうちに変わる。一度として同じものがない。
同じ振付を何百万回と繰り返し練習して、絶対間違えないように、失敗しないようにって歯を食いしばって練習してきた人達が、たくさんのお金を時間と労力をかけて、涙と汗を流してきた人が、きっと今年もたくさんいる。今日も明日も、本番直前までそれは続くのかもしれない。
でも、だからこそ知ってほしい。振付を完璧に踊るということは大変なことだよ、でももっと重要で、素晴らしいことがフラメンコにはあるから!
もしそれを舞台の上で感じることができたら・・・・・、それがほんとの「賞」なんだと私は思います!
2016年6月9日(木) ああ、昔の私に教えてあげたい、このブログ。(笑)

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