萩原淳子のビエナル・セビージャ2016鑑賞記②

みなさんこんにちは。

ビエナル・デ・フラメンコ・セビージャ2016の鑑賞記の続きになります。

  • 2016年9月13日(火)「J.R.T」ウルスラ・ロペス、タマラ・ロペス、レオノール・レアル/セントラル劇場 23:00開演

J.R.T.-01J.R.T.-09今年のヘレスのフェスティバルで観に行けなかった公演。公演名「J.R.T」はコルドバの画家フリオ・ロメーロ・トーレスの頭文字。フラメンコ愛好家で、自らも歌い、ギターを弾き、踊りもしたというこの画家の作品からインスピレーションを受けた舞台とのこと。私もこの画家の作品はとても好きで、どんな舞台になるのかなあと楽しみにしていました。開演直後、フリオ・ロメーロ・トーレスの作品の数々がスライドで映される。そのオープニングは面白い試みだと思ったのですが、公演内容はよく分からなかった、というよりなんだか長く感じました。3人とも素晴らしい踊り手なのだけど・・・この公演で一番光っていたのはレオノール・レアルだったかな。彼女の一挙一動にハッとさせられて、舞台上で何が起きていても自然と彼女に目がいってしまう。もっと舞台全体を観ようと意識的に目を離そうとしても、やっぱり視線はレオの元へ。なんなんだろう、踊りの実力の差や好みというよりも、その人間が持っている力なのかな。あるいは旬のアーティストが持つ独特の「何か」か?今度はレオのソロ公演を観てみたい。

Archivo Fotográfico La Bienal de Flamenco. Fotógrafo Óscar Romero.

写真:オスカル・ロメーロ(ビエナルHP http://www.labienal.com より。)

  • 2016年2月15日(木)「アララ」/ホテル・トゥリーアナ 23:00開演

_DSC6128_DSC5863_DSC6230_DSC6293_DSC6321待ってました!前回のビエナルで観客を大興奮の渦に巻いた、セビージャ郊外の地区“トレス・ミル・ビビエンダ”のアーティスト達による公演「ボボテリア」の第2弾!(といった所でしょうか?)ボボテリアに出演していたメンバーのボボテ、トロンボ、カラカフェ(この日は出演していなかった)、エウへニオ・イグレシアス、エルミニア、マリ・ビサガラ、ギジェルモ・マンサーノはこの「アララ」でも出演。前回の公演「ボボテリア」が公演名の通り、ボボテ色が強かったのに対し、今回の「アララ」は首長(?)のボボテを立てつつ、でもトレス・ミル地区のアーティスト全員が主役になっているというバランスのいい公演。公演パンフレットを見ると、監督はトロンボになっている。やっぱりね。さすがトロンボ!

のっけから彼らのコンパスに、会場全体がうおーっと盛り上がる。エルミニアの全身全霊のカンテ。マリの時にはマイクの調子が悪く、彼女の高音の音域部分が全部聴きにくい。それが本当に残念だったけど、私はマリの歌が大好き。エウへニオのギター、そして今回参加しているミゲル・イグレシアスのギターも素晴らしく、聴いているだけで恋に落ちてしまいそうだった。(笑)ギジェルモのマルティネーテも有無を言わせない、これぞヒターノの歌。アレグリアスを踊ったトロンボの妹、トロンバの強さ。最近のバイラオーラにはあまり見られないそれは、サパテアードでがんがん踊るのではなく、暴れているわけでもなく、本人の内面の強さがそのままバーンと外に出てしまっているシンプルな強さ。駆け引きや計算のないそれに、胸がすかっとする。1部はその後、ローレ・モントージャのカンテソロでしめる。ギターとあまり上手くかみ合っていなかったのが残念だったけど、伝説の彼女が舞台に出て来ただけで、有り難いのかもしれない。

2部はホアキーナ・アマジャとカルメン・アマジャのカンテソロのタンゴ。いいねえええええ!特にホアキーナが濃くて好き。2部のバイレソロはトロンボのソレア。一体この人はなんなんだ、なんというアーティストなんだ、なんという人間なんだ。出て来るだけで全てを変えてしまう男。さっきからずっとパルメーロとして舞台の上にいたにも関わらず、である。ただ歩いてくるだけで、動かずにカンテを聴いているだけで(それが彼のソレアだ)、その存在自体が全てを語っている。それがフラメンコなのだと、彼そのものがフラメンコなのだと。先述のギジェルモのカンテ。ギジェルモのソレア。ギジェルモといえばソレア。そのソレアを聴ける私はそれだけでいいはずなのに、それと同時にトロンボも観ている。なんと素晴らしい瞬間なのだろう。ああ、ソレア・・・・その後トロンボのサパテアードが始まり、ソレア・ポル・ブレリアに突入する。彼のサパテアードやレマーテはいつ観ても同じだ。(それとほぼ同じものを実は私は10年以上も前に習っている。)にもかかわらず、初めて見たような、初めて聴いたような感覚に包まれるのはなぜだろう。パソは知っている。でもそういうことではないのだ、毎回生まれ変わっているのだ、そのプランタもゴルペも。一歩一歩が、一音一音が、その度ごとに生命を持つ。当時、トロンボは言っていた。「パソは3つ持っていればいい。ただし本当に持っていること」・・・そういうことなのだ・・・

踊り終わった後、トロンボとギジェルモは舞台上で抱き合っていた。なんと神々しい姿だったことか。しかしトロンボのすごさはここでは終わらない。あれだけのソレアを踊った後、何事もなかったようにまたパルメーロに戻る。全員でのブレリアに、またパルメーロとして全力投球するトロンボ。オレがオレが、と一番目立とうとしたり、おいしい所を全部持っていくよう実は小細工しているアーティストが世の中ゴマンといる中で、なんという謙虚さなのだろう。謙虚というより、人間としての崇高さ。そして監督として全体を俯瞰する冷静さ。それはフィン・デ・フィエスタでボボテに花を持たせたあたりにも垣間みることができる。

最後になってしまったけど、補足。トレス・ミル・ビビエンダ地区というのはセビージャの一般人から、ある意味隔離された地区でもある。その昔、セビージャではスペイン人もヒターノも皆一緒に住んでいた。特にトゥリアーナ地区にはたくさんのヒターノが住み、フラメンコの聖地だった。ところが、政府がセビージャ郊外に、言ってしまえばヒターノ達を強制退去させてしまう。トレス・ミル・ビビエンダはその強制退去先の地区のうちの1つである。そのような背景があるため、「トレス・ミル・ビビエンダ→ヒターノが住む→ドラッグや犯罪が多い」という認識しか持たない人も多いが、トレス・ミルに住む全員がそうということではないし、フラメンコの聖地トゥリアーナをルーツにしているだけあって、この地区からは素晴らしいフラメンコアーティスト達も輩出されている。トロンボは(ちなみにトロンボはヒターノではない)そのトレス・ミルや別の地区のヒターノの子ども達が犯罪に走らないよう、フラメンコや音楽を通して子ども達を教育している。

公演名「アララ(Alalá)」はヒターノの言葉で「喜び」を表すそうだ。この公演の意図するもの、メッセージは何なのだろう。ブログは終えても私の思考は止まらない。

写真:アントニオ・ペレス

2016年9月21日 セビージャにて。

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