「Fuente Ovejuna(フエンテ・オベフーナ)」を観る。フラメンコにおける「真実」について考える。

image_content_18391666_20161020220452みなさんこんにちは。いかがおすごしでしょうか?

今週末のセビージャは残念ながら雨、雨、雨・・・せっかくの週末が・・・。でも楽しみにしていた公演が2つありました。一つは「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」というタイトルの演劇、もう一つは「La Sirenita(ラ・シレニータ)」というタイトルのフラメンコ公演。前者は日本では「アンダルシアの嵐」という邦題でアントニオ・ガデス舞踊団が公演していたかと思いますが、今回私が観たのは演劇。今日はこの公演を観て考えたことをブログにしたいと思います。

まず「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」のあらすじですが、フエンテ・オベフーナという名の村で実際に起きた話を元にした演劇作品。横暴な村の領主に苦しんできた村民たちが、花嫁となった村娘を結婚式の日に領主が略奪・暴行したことをきっかけに立ち上がり、領主を倒すという話。そして「誰が領主を殺したんだ!」と尋問されるも、村民は皆「フエンテ・オベフーナがやった!」と叫ぶ。スペイン演劇史上最も民主主義的な作品だとも言われ、その意味でも価値があるらしいのですが、この公演のチケットを速攻買ったのにはもう一つ訳があります。

なんと、この公演に出演しているのが、セビージャ郊外の「El Vacie(エル・バシエ)」というヒターノ(ジプシー)居住地区に住む本当にヒターナ(ジプシーの女性形。女性ジプシー)達8人。もちろん女優なんかじゃありません。素人です。一体素人のヒターナ8人も演劇に出演させてどうなるんだ?!とほとんどの方が思われるのでしょうが、実はこの作品はバシエのヒターナを演劇に起用した第2弾で、その前の第1弾「ベルナルダ・アルバの家」が本当に凄かった・・・・数年前に観たこの「ベルナルダ・アルバの家」では、登場人物の7人中本当の女優はたった一人で、後の6人はバシエのヒターナ。あの衝撃は今でも忘れられない。6人のヒターナ達はもちろん文字も読めないし書けない。(識字率がとても低いのです。)だからセリフは全て記憶が頼りだったといいます。素人だから演技力だけ見たら当然本物の女優には全く及ばない。でもその存在感は有無を言わせないものがありました。スペイン国内の演劇賞を総ナメにしたこのバシエのヒターナ達による「ベルナルダ・アルバの家」。さらにこの作品を有名にしたのが、これだけスペイン国内で大反響を呼んだにもかかわらず、国外では公演拒否する国が多かったとのこと。というのは、6人のヒターナ達の中には窃盗やらなんやらの罪で服役していた人もいたから。国によってはどんなに素晴らしい演劇作品だろうが女優だろうが、犯罪歴のある人間は入国させないという国もあるわけで、当然その国での公演は不可能というわけです。

話は少し逸れましたが、まあそんなこともあり第2弾の「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」、本当に楽しみにしていたんです。結論から先に言うと第1弾ほどの衝撃はなかったかな・・・。やはり第1弾で大成功をすると、第2弾というのは難しい。素人の第1弾は観客からしても初めてだから、全てが驚きになる。成功しやすい。でも第2弾というのは、観客は第1弾以上のものを期待するのでハードルが高くなる。「ダイハード」や「ミッション・インポッシブル」は面白かったけど、「ダイハード2」とか「ミッション・インポッシブル2」になっちゃうと、まあ面白かったよね・・・ぐらいの感想止まりになってしまうのと同じかな?(笑)

でもこの「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」を観ていて、時々自分の口が開きっぱなしになっていることに気づきました。心臓をぐあっと掴まれたまま呼吸できなくなってしまうような感覚。フラメンコではそういうことが時々ある。でも演劇だよ。あのヒターナ達の存在感。そして「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」の中で演じられるその姿が実は、彼女達の本当の人生の、生活そのものであると気づかされた時。演じているんじゃないんだ。彼女達は「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」という演劇を通して、彼女達の存在を、権利を、自由を主張している。本当のことなんだ。だから彼女達が起用されたのだろう。〝ただの〟女優(その人が有名だろうが大女優だろうが)には絶対に出すことのできないもの。演じていることと、その人生をそのまま生きていることの違い。

ちなみに「エル・バシエ」という地区はマカレナ地区の外れにある大型スーパー、Carrefour(カルフール)に隣接しています。以前マカレナ地区に住んでいた私は、カルフールに行く時にいつも「絶対出口を間違えちゃダメだよ!バシエの方に行ったら危ないから!」とルームメートのスペイン人に言われていました。カルフールの表通りはバスとか通っていて普通のセビージャの街並みなのですが、その裏側に行くと、本当にここがセビージャか?を疑うほどの景色が広がっています。人々は粗末なバラック小屋に住み、子供達は真っ黒で半裸裸足で走り回り、もくもくと煙があちこちから立ち上っている。うあー本当にヒターノってこういう風に住んでるんだ・・・と。(もちろんそのような住居に住んでいないヒターノもいるのでしょうが)

そもそも何で彼らがそういうゲットーみたいな所に住んでいるのか。昔はスペイン人もヒターノも皆一緒に同じ地域に住んでいたのに。差別ですよ。ヒターノ隔離政策ですよ。彼らが歴史的に背負ってきた「迫害」、それが今現代でも形を変えて続けられているわけです。それはバシエだけではない、フラメンコアーティストをたくさん輩出しているので有名な「トレス・ミル・ビビエンダ」「サン・フアン・デ・アスナルファラッチェ」なんかもそう。そんな地域が実はセビージャ郊外に、観光客には見えない所に、観光客に見せないようにいくつもある。そんな現実の中で、社会的な人種差別の中でヒターナ達は生きている。ヒターナであるという自負と尊厳を持って。だからそんな彼女達が、この「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」の中で、権利と自由を求めた叫びは決してセリフなんかじゃない。セリフを超えた彼女達の「真実」なのだと思う。

そして思ったのです、フラメンコも同じなんじゃないかって。どんなに踊りが上手でも、歌がうまくても、ギターがうまくても、やはりその「真実」を持っている人にはかなわないんじゃないか。もちろん競争ではない。優劣の問題でもない。でもその「真実」があるかないかで、フラメンコというのは大きく二つに分けられるのではないかと。

じゃあ、ヒターノ達のフラメンコだけが「真実」のフラメンコなのか・・・それはどうなんだろう・・・。彼らには彼らの「真実」があって、それはそれを持っていない人が決してマネできないもの。でもそれと同様に、私には私なりの「真実」というものがあるんじゃないか。それがいったい何なのか・・・それを今言葉で説明することはできないけれど、その「真実」が私の身体から出てくるのなら、その時それを「フラメンコ」と呼んでよいのではないか・・・。
そんなことを「Fuente Ovejuna(フエンテ・オべフーナ)」を観て考えたのでした。

写真:Felix Vazquez

2016年10月24日 雨の続くセビージャにて。

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