ミラグロス・メンヒバルへの感謝

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みなさんこんにちは。いかがおすごしでしょうか?

随分前になってしまいましたが、レブリーハのペーニャへミラグロス・メンヒバルの踊りを観に行きました。ミラグロスはセビージャを代表する著名舞踊家。その優美なブラッソ(腕)やマノ(手)、上体の表現には定評があり、またバタ・デ・コーラ(裾の長いフラメンコ衣装)の名手。またクリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校で教授活動もされている有名なマエストラ(偉大な先生)でもあります。10年以上も前になりますが、私はミラグロスに2年間師事していました。当時はバタ・デ・コーラの技術を全く持っていなかったので、ゼロの状態からミラグロスのレベルの高いバタの振付クラスについて行くのは本当に大変でした。それで最初の1年間は無我夢中であっという間に終わり、2年目にしてやっとバタ・デ・コーラの技術や振付だけでなく、その芸術性をミラグロスの教えやちょっとした仕草などを通して学べるようになりました。ミラグロスから学んだことは本当に大きく深いです。バタ・デ・コーラのテクニカもそうですが、毎回クラスにはギタリストと歌い手が来ていたので、ミラグロスがどのようにカンテとギターを聴いて、それをどのように身体の動きにつなげて行くのか、というより、ミラグロスの身体がどのように反応してしまうのか、というのを毎回つぶさに観察・研究することができました。最近日本では「Bailar al cante」「カンテに呼応して踊る」なんてテーマが巷でよく聞かれますが、あの当時自分が学んでいたことがまさにそれだったのだと今思います。それを学びたくてスペインに渡り、それを教えて下さる先生に師事していた。ミラグロスの前に師事していたトロンボも、踊りのスタイルは全く異なりますが、根本のところでは同じでした。あの時期がなかったら、きっと今の私はないでしょう。(自分の過去の人生を振り返った時、どこかの時期が欠けているということはありえないのですが・・・)

尊敬し、敬愛するミラグロスのクラスのことをとある記事の中で執筆したことがあります。その文章のほんの一節だけを切り取って、私がミラグロスの悪口を書いたと、ミラグロスにその記事を渡された方がいらっしゃったそうです。ミラグロスご本人から私の元にお怒りのメッセージが届き、私はそれを知りました。突然の知らせに驚き、また非常な悲しみを覚えました。私はミラグロスに記事全文をスペイン語訳してお渡ししたいとお伝えしました。尊敬し、敬愛しているミラグロスの悪口を書こうなんて意図がある訳がない、それは誤解であるということ、むしろ逆で、私がどれほどまでにミラグロスからの教えに感謝しているかを知って頂きたかったからです。でもそれは叶いませんでした・・・。

それから数年の間、普段は普通に暮らしていても、ミラグロスの名前を聞いたり目にしたりした時、気分は灰色になりました。もうミラグロスを先生と呼べる日は来ないのだろうか、ミラグロスに師事していたという事実すら認めてもらえないのだろうか、どうしたら誤解を解くことができるのだろう、誤解はもう解けないのだろうか、私は一生誤解されたままなのだろうか・・・・、苦しかったです。あれから何度かミラグロスの踊りを観に行きましたし、劇場や街中でミラグロスをお見かけすることもありましたが、声をかけることができなかった。怖かったのです、今度は面と向かって拒絶されるであろう自分を想像すると・・・・。

何年かの歳月が流れました。レブリーハのペーニャでミラグロスが踊られるということを耳にして、ペーニャに行くこと、ミラグロスに挨拶すること、それを決めました。覚悟に近かかったかもしれません。ペーニャという場所はフラメンコ愛好家が所有する舞台付きの場所のようなところで、多くのペーニャがアーティストを呼びその公演を楽しんだりします。劇場とは違い規模も小さく、また客席との距離も近い。愛好家やアーティストとの心理的な距離も近く、舞台終了後に一緒にご飯を食べたり飲んだりすることもよくあります。だからペーニャに行くということは、ただ客席からミラグロスの踊りを見て、はい、さよならという訳ではありません。必然的に顔を合わせて挨拶することになる。だからその意味で覚悟に近かったです。あの“事件”の後、私は初めてミラグロスに話しかけるんだ、もしそこで拒絶されてもいい、それでも話しかけよう、って。

あの日ミラグロスはタンゴ・デ・マラガとアレグリアスを踊られました。ミラグロスの踊りを見ていたら当時のミラグロスのクラスや、その時のミラグロスの教えなどが走馬灯のように流れてきて止まらなくなり、そうだ、そうだ、私はこんなにもたくさんのことをミラグロスから教えて頂いたのだ、と涙が溢れてきました。その日のギタリストはいつもミラグロスに伴奏しているラファエル・ロドリゲスではなかったこともあり、しっくり来なかった部分もありましたが(ギタリストが踊りをすくい取っていなかった、もちろん)、それでもカンテとギターから生まれ出るミラグロスの踊りにoleが止まりませんでした。

_DSC3006_DSC3012終演後客席でペーニャの人たちに挨拶されているミラグロスを待って、やっと話しかけました。「私はジュンコです、数年前私が書いた文章の一部のせいであなたに嫌な思いをさせてしまった、でも文章全体で私が伝えたかったことは、あなたがどれだけ素晴らしいことを教えて下さったのかという感謝の気持ちだったのです。」それを一気に言いました。その後ミラグロスが言ってくださった言葉に私はまた涙が止まらなくなりました。

「何年前の話をしているのよ?そんなことはもうどうでもいいの。いつまでも覚えていたら顔中シワだらけになってブスになるわよ。忘れなさい。重要なことは幸せになること。あなたがやることを決めるのはあなたしかいない。誰に習ったって構わない、私に習わなくたっていいのよ、あなたが決めることだから。幸せになりなさい。分かった?」

ミラグロスは私を抱きしめてくださいました。長い年月私の中でずっと肥大化していたしこりがぽろっと取れたような感じがしました。正しくは、ミラグロスがその言葉によって取って下さったのだと思います。感謝の気持ちしかありませんでした。

私は正直な人間です。媚を売るのも、おべっかを言われるのも大嫌い。だから嘘は書かないですし、書けないです。ただ物事の捉え方や表現の仕方がまっすぐ過ぎるためか、それに拒否反応を示される方もいらっしゃるのかもしれない・・・という気もします。また、自分の意図がそのまま他人にも伝わるのかというのはとても難しいことです。こちらの意図とは全く異なる個人的な感情を重ねて文章を読まれる方もいらっしゃるでしょうし、その解釈の仕方は人それぞれだと思いますから・・・。でも誰かを傷つけようとか、おとしめようと思って自分の文章を公表することはありません。だからこそミラグロスから再び暖かいお言葉をかけて抱きしめて頂き本当に嬉しかった。この数年間、自分の中で死んでいた部分が生き返ったような感じがしました。あの日は私にとって本当に特別な日だったのです。

いろいろな人がいて自分もそのいろいろな人のうちの一人であって、一人一人考え方も表現の仕方も異なる。ほんの言葉じりによる悲しい誤解はどうしても生じてしまうのかもしれないし、誤解されないようにと思うことが逆に仇になる場合だってある。記事やブログだけでなくても、例えばメールでのやり取りなどでもそのような悲しい誤解というのは生じてしまうこともあると思う。難しいなあ・・・自分で気をつけなければいけないこともあれば、自分ではどうしようもないこともあるだろうし・・・。

いずれにせよ、私にとっての一番の表現方法は踊るということなんだと思う。結局踊りが全てを語ってくれる。上手い下手の問題ではなく、その人間の本質を。だから本質を見て下さる方、本質を感じて下さる方がきっといらっしゃるのだと思うと、やはり私は本質で踊らなくてはならないと思うのです。

そう、それもミラグロスが教えて下さったことでした。

写真:アントニオ・ペレス

2016年12月6日 セビージャにて。

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