教える側のエゴ

_DSC5271みなさんおはようございます。お元気でお過ごしでしょうか?

今日は(もう日付が変わってしまいましたが)、夫が早く寝てしまったので一人静かな夜を過ごしています。ただいまスペイン夜中12時半。いつも2時くらいに寝ているので、まだまだ夜はこれからという感じです(笑)

日本でクルシージョを開始する前に、毎回気をつけるようにしていることがあります。それを忘れないように心に留めるというか。それは、教える側のエゴで教えてはいけないということ。長い間たくさんの先生に習ってきて、また今も習っていて、自分が生徒の立場に立ってみて思うことでもあります。

いろいろな踊り手がいて、いろいろな先生がいらっしゃる。いろいろな考え方と教え方がある。あの先生とこの先生では教えることが正反対なんてこともフラメンコにはざら。でも誰が正しくて、誰が間違っているとか、どちらが良くてどちらが悪いという問題ではないのだと、習う時には思うようにしている。みんな違う、だからフラメンコなんだ。みんな一緒だったらフラメンコじゃない。

だから個人的にどうしても、自分だけが正しくて他はフラメンコじゃない、というスタンスで教える先生から教わるのはちょっとしんどい。もちろん自分の踊りや自分のアルテを自負するのはアーティストならば当たり前のことだと思う。日本ではそういう姿勢は謙虚じゃないと批判されがちだけど、自分の存在価値を自分で認めることはスペインでは傲慢ではない。だから本当に実力のある人が自分に自信を持つのは誇り高い姿勢だと私は思う。

でも、それと同時に、同じように誇り高き素晴らしいアーティストもたくさんいるのだ。その先生とは異なるだけで。

そして忘れてはいけないのは、生徒も一人の人間として誇り高き存在なのだ。

確かに踊りやフラメンコにおいて技術や経験、知識はもちろん先生の方が豊かだ。(だから先生なんだし)でもだからと言って生徒さんを下に見るのはおかしいと私は思う。その生徒さんの人生や考え方や感情、学び方や歴史というのを無視して、さらには踏み潰して、自分の「手下」になるように教えてはいけない。先生は自分のいいなりになる生徒、自分の教えた通りに踊る生徒を生み出してはいけない。生徒は先生のコピーロボットではないのだから。

生徒も一人の人間として誇り高き存在なのだ。

でも気をつけなくては。その生徒が先生を崇拝している時(それは悪いことではないかもしれないけど)、生徒は自分を見失いやすい。一生懸命学んでいるようで、実は教える側のエゴに振り回されて踊っているにすぎないのかもしれない。踊っていると本人は思っているかもしれないけど、それはただのモノマネかも。3番煎じくらいの。

自分のエゴを押しつけることと、と本当に教えるということを混同してはいけない。

自分のエゴで教えるのは簡単だ。誰でもできる。

でも本当に教えるということは?

それが自分にできるのかできないのか、まずは自問して始めなければ。

できないなら、どうしたらいいのか、それを考えなければ。

そうでないと誰も幸せになれない。生徒さんも私も。

2017年6月7日 真夜中の脳みその中身でした。

Comments are closed.