おばあちゃんの糸

写真-5みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか?

さて、明日はパセオフラメンコライブ、萩原淳子ソロライブです。お陰様で満席とのことですが、当日突然キャンセルされる方もいらっしゃるとのことですので・・・(平日のライブですから仕方ない部分もありますね)もし急遽いらっしゃれる!という方は直接お店の方へお問い合わせ下さい。

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今日は衣装をチェックして、縫い物などをしていました。そして見つけたんです。

おばあちゃんの糸。

祖母が亡くなった時に、母が形見として譲ってもらった糸だそうです。糸の台紙の部分に懐かしい字で「平成元年 3/8 英子」と書いてありました。この字で「淳子ちゃんへ」と書かれたお年玉やお手紙をもらったんだ、子どもの頃・・・。

2005年から2007年、私は文化庁「新進芸術家在外派遣研修員」としてセビージャへ国費留学していました。その、あと数ヶ月で留学期間が終わって帰国できるという時に祖母は亡くなりました。留学前、最後に会った祖母はとても小さくなっていました。私のことわかっているのかなあ・・・そんな感じでした。

祖母のお葬式が終わった次の日に、私は父から祖母が亡くなったことを電話で知らされました。国費留学している私が、祖母のお葬式のために帰国すると言い出さないよう、わざと後から知らせたのでした。

ずっと泣いていました。私は何をしているのか、祖母のお葬式にも出られなくて。もう会えない。ずっと泣いて、朝ベッドから起きる気がしなかった。当時はクリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校に毎日通っていました。でもその日は休もうと思った。こんな状態で学校に行ってもどうせ集中できない。今日は休もう。

でもその時思った。祖母のお葬式にも出られなくて、クラスまで休んだら、私は何のためにここにいるんだ?

ガバッと起きて、いつもと同じように学校へ行きました。学校に着いて一番最初に会ったのが当日その学校で教えていたカルメン・レデスマでした。

「おはよう、ジュンコ。今日踊りたい?」

何だかよくわからなかったのですが、「Sí(はい)」って即答した私にカルメンが言いました。「今日は学校を早退しなくてはならない。でも素晴らしいアーティスト達と共演できる機会だから踊りに行きなさい。出演料ももらえるはずだから。」余計に何が何だか分からなくなった私にカルメンは「2曲分の衣装を持って行きなさい。そこでは即興で踊るのよ、事前に合わせはないから。大丈夫、歌い手もギタリストも私が普段共演しているプロだから。」

全く訳が分かりませんでした。私がそんなプロの人達と仕事をするということ???事前の合わせもなしに????当時はまだ私は踊り手として働いていなかったので、ただの一外国人留学生がなぜそんなことになるのか、全く理解できなかった。それでも時間が経つうちに事の大きさがわかってきて、怖くなりました。家に帰る途中、バスの中でガタガタ震えていたのを今でも覚えています。本当にマンガみたい、震えを止めることができなかった。

カルメンに言われた通り2着分の衣装を持ってその場所に行きました。ギタリストのアントニオ・モジャが奥さんのマリ・ペーニャと一緒にいました。「すみません、カルメンに今日ここで踊れって言われたんですけど・・・ソレアとアレグリアスを踊れますが・・・」そうするとモジャは「ソレアか?それともソレア・ポル・ブレリアか?」と聞いてきました。「ソレアです」と答えて、構成を説明しようとすると、シッと言われました。「ここではそんな説明は必要ないよ、ただ聴けばいいんだ。よく聴くんだよ」

・・・本当に本当に即興なんだ・・・説明もさせてもらえないんだ・・・

今考えてもありえない。ただの外国人留学生がそんな状況で踊るなんて。でもあの時踊ったソレアが結局、私の人生を変えることになりました。

初めて、カンテが自分の毛穴から入ってきて、毛穴から自分の踊りがぶわーっと出てくる感覚を覚えました。

カンテって耳で聴くんじゃなかったのか!!!!

ソレアが5つも6つも歌われました。(と思う)当時習っていた先生達の「振付」なんて何も出てこなかった。ただただ聴いて、それに反応していた。いつの間にかソレア・ポル・ブレリアになって、ソレア・ポル・ブレリアもいくつも歌われたかなあ。きっとそれからブレリアになって終わったのだと思うけど、お辞儀して振り返ったらモジャが目を真っ赤にして泣いていた。立ち上がって私をぎゅっと抱きしめてくれた。そして「俺はもうこれ以上弾けない!」と叫んで会場を出て行ってしまった。

何が何だか私には分からなかった。それからモジャが戻ってきてからアレグリアスを踊り、その後カルメン・レデスマがペーニャで踊るという話を聞いて皆でそのペーニャに行きました。

カルメンのソレア。

あれがソレアだ。ソレアとはああいう踊りを言う。

・・・じゃあ私が踊ったのはなんなんだろうって。

そして思った。もしあの時、私がソレアを踊れたのだとしたら、それを踊らせてくれたのはおばあちゃんだったのだ。祖母が私に会いに来てくれて、私に力を与えてくれたんだ。そうじゃなかったら、私があんな踊りできるわけがない。

あの日から私の人生が変わった。在外派遣研修員の任期を終えて、私は当然日本に帰るものだと思っていたけれど、でもあの日あのソレアを踊ったことで全てが変わりました。その場所のオーナーから「日本に帰るな、お前はここで踊ればいい」と言ってもらえたからです。もちろん正式な契約ではなかったけれど、可能性が1パーセントでもあるならここに残ろうと自分で決意したから・・・。

祖母は、私がスペインで踊り手になることを応援してくれていたんだ。なぜか留学先をフランスと思っていたらしく「フランスは遠いからね、日本と違うからね、身体に気をつけて」と言ってくれていたのを思い出す。でもフランスじゃなくて、ちゃんとスペインのセビージャまで来てくれたんだ。

・・・・そんなことを祖母の糸を見つけて思い出しました。

1916122_214149806227_436176_n11643_187741741227_6513493_nそして、不思議なことに、あの時ソレアを歌ってくれた歌い手の一人がマヌエル・タニェ。あれから結局1年半くらいあの場所でレギュラー出演させて頂くことになったのだけど、10年の月日が流れて明日また共演。人生って不思議だなあ。。。。

写真(Magdalena Stachura撮影)は当時のもの。ちなみに、この黒い衣装を明日着てみようと思って、一生懸命縫っていたのでした。(相当広げましたけど。笑)

2017年8月22日

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