萩原淳子のフラメンコ鑑賞記 2017年10月② ホセ・ガランと障害者たちのフラメンコ公演リハーサル

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

イランへ撮影旅行へ行っていた夫が無事帰ってきました。数日前どこぞの大統領がとんでもない発言をしてからイスラム諸国大丈夫なんだろうか、デモが暴動になったりして巻き込まれたりしないだろうか・・・とか実は心配していましたが、お陰様で元気です。しかもちょっと痩せて少しカッコよくなってきた。(ただし、いつまでもつか。笑)今は疲れて眠っちゃったので昨日のブログの続きを更新してしまおうっと。

  • 10月15日(日)ホセ・ガランと障害者のフラメンコ公演リハーサル/TNT劇場(セビージャ)

木曜日にセビージャの蚤の市で、この公演に出演するという車椅子の女性に出会いました。車椅子のままフラメンコを踊るのだそうです。ホセ・ガランは以前にも視覚障害者、聴覚障害者とのフラメンコ公演をしている若手の踊り手。その踊り手の講習会を受講した彼女は住んでいたバルセロナを引き払ってセビージャに移り住み始めたそう。なんて勇気のある女性なんだろう。その彼女から公演のリハーサルの話を聞き、同じく興味を持った写真家の夫と一緒に行ってきました。

劇場にいたのはホセ・ガラン(健常者の踊り手)、手話で踊る女性(健常者で、多分踊り手ではないけど、公演では手話で踊る)、車椅子の彼女と視覚障害の女の子でした。視覚障害の女の子(年齢は20歳くらいか?)はご両親が付き添われていました。手話で踊る女性に連れられて、サリーダを歌いながら舞台中央に立つ。そしてその場所でサエタを歌うという設定のようでした。でも女の子はそれがどうしてもできないようでした。上半身を前後に何度も大きく揺り動かし、歩き出さない、歌わない。手話の女性は根気よく何度も何度も舞台袖から舞台中央に歩いて行く。ホセ・ガランも根気強く何度も励まし、途中で休ませたり。ご両親も叱咤激励したり。でも彼女はどんどん身体を大きく揺り動かすだけで全く歌わない。・・・もしかして夫と私がその場にいることで彼女は緊張しているのだろうか・・・目が見えなくてもきっと普段とは異なる雰囲気を敏感に察知しているのかもしれない・・・。それでしばらく夫と私は外に出、彼らも休憩に入る。外で私はご両親に謝りました。「ごめんなさい、私たちがいることでお嬢様緊張されてしまったのかもしれませんね・・・」するとお母様はこうおっしゃいました。「違うのよ、あの子は本当に自分で歌うという気持ちにならないと歌わないのよ。でもこういう状況は克服しないといけない。だって本番では歌わなくてはならないのだから。」

本当に自分で歌うという気持ちにならないと歌わない。

その言葉がグサッと私の胸に突き刺さりました。

私は自分が踊ろうという気持ちにならなくても踊る時もある。仕事だから。それに踊ろうって気持ちでなくても、リハーサルはいくらでもできる。だいたいこんな感じ、という風に手を抜いて踊ることもできるわけだから。もちろんそれは私だけではない。歌い手だってそうだろう。リハーサルで全力で歌う人なんていない。

でもあの子はそうじゃないんだ。あの子にとって歌うっていうのはそういうことじゃないんだ。あの子にとって歌うってことは全部本当なんだ・・・。

しばらくしてから、また同じ部分のリハーサルが始まりました。手話の女性が彼女を連れて舞台中央まで歩いて行く。彼女のサリーダが聞こえてきた。

歌った!

その瞬間を固唾を飲んで見守っていたホセ・ガランは微笑む。彼女のご両親は天を仰ぐ。私の夫と私は無言でガッツポーズをする。そんな私たちの気配を察しているのだろうか・・・いや、彼女はきっと完全に自分自身の世界に没入している。目が見える見えないの話ではなく、誰がいようといまいと、きっとあの時の彼女には歌しかなかったのだろう・・・。

そしてそのサリーダが終わった後、静かにサエタを歌い出しました。

あのサエタ。

今思い出しただけでも涙が出そうになる。

何がすごいのだろう。特別な声量でも上手な節回しでもない。ただ彼女が歌うサエタがリハーサルスタジオにこだまして、私は涙を止めることができなかった。どんどん溢れてくる涙。カンテを聴いてこんなにも泣いたのはいつが最後だったのか。oleの声すら涙声で、そんなになっている私は自分が信じられなかった。

そして彼女から少し離れた所で、彼女が歌うサエタの歌詞を手話を使って踊る女性。・・・うん、確かにそれは必要だよ、聴覚障害のお客さんだってきっといらっしゃるのだろうから。・・・・でも次から次へと手話の動きを繰り出すその女性(彼女は健常者)のその動きの羅列を目にして、だんだん薄ら寒くなってきた。手話が悪いんじゃない、手話をする彼女自身からは何の感情もこれっぽっちも感じられなかったのだ。彼女は彼女自身は、あの子のサエタを聴いて何も感じないのだろうか????

聴覚があってもあのカンテを聴いても感動しない・・・それって「フラメンコ文化」の中での障害とも言えるのではないだろうか。そして彼女の手話を見ながらこうも思った。もしカンテを聴いてもその意味がわからないというのも、やはり「フラメンコ文化」の中での障害とも言えるのではないだろうか・・・。

健常者(私自身も含めて)は自分を健常者だとして、知らず知らずのうちに彼らとの間に線を引いている。でも一体どこからが障害でどこからが健常と言えるのだろう・・・。

ちなみにこのホセ・ガランは来年のヘレスのフェスティバルにて障害者へのフラメンコ教授法というクラスを開講する。実は私はそれに申し込んでいる。障害者対象のクラスだけれど、健常者でも受講OKとのこと。障害者にフラメンコを教えるということ。自分にそのような能力があるのかは分からない。でもやってみよう。

最後に、「障害者」の表記方法に関して。
それが正しいのか、それとも「障がい者」が正しいのか、もしくは別の呼び方が正しいのか・・・実のところ自分でも結論付けるのが難しかったのですが、障害者とは社会やその他の人々に差し「障」りがあったり、「害」を及ぼす「者」ではないという見解で、私の中ではっきりしています。ただしだからと言って、「がい」もしくは「しょうがい」とひらがな表記にすることには、少し違和感を覚えます。ただ慣れていないだけなのか、それともひらがなにすることで何かがうやむやになってしまうような気がするからなのか・・・。ただの言葉の問題ということも言えなくはないですが、重要なのは表記方法の議論にとどまるのではなく、その奥に潜んでいる問題の本質に目を向けることなのではないか、と思っています。

2017年12月11日 セビージャにて。

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