11月を振り返る。ルイス・ペーニャ、フアナ・アマジャ、マノロ・マリンのクラス。

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

あっという間に12月になってしまいました。昨日から10日間、夫(写真家)がイランに撮影旅行に行ってしまったのでだらりとした日々が始まっています。(笑)そんなわけでブログもゆっくり更新。

11月は色々なクラスを受講しました。ルイス・ペーニャ、フアナ・アマジャ、マノロ・マリン。3クラスも受講するのは留学当初以来かなあ。いや、フンダシオン(クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校)に行っていた10年前もそのくらい受講していたか?どちらにしてもかなり久しぶり。身体は当然疲れるし、頭もパンパン、消化しきれないーと思うのはやっぱり年月が経っているからでしょうかね。(笑)というわけで、今日やっと落ちてついてクラスを振り返ってみようと思います。

  • ルイス・ペーニャのクラス(ブレリア)

ルイス・ペーニャ月水金20−21以前にもセビージャで数回クラスを受講したことがあったのですが、その時は生徒が多くてルイスの動きも見えないし、正直なんだかよく分からなかった。あと、ブレリアに関しては長らくアナ・マリア・ロペスからヘレスのそれを学んでいたので、ルイス式のブレリアに慣れるのに苦労した。しかも全然見えなかったからね。その後日本に行って、戻ってきて先月、今月とクラスを受けてみた。と言っても月水金の週3日だけだからまるまる2ヶ月ではないけど、まあ2ヶ月目。そしたら今度は生徒が少なくて、ある意味とても贅沢なクラスではあります。(ルイスはお昼間にも別のスタジオで教えているので、生徒が割れているのかも?)

何を学んだか・・・学んでいるんだが言葉にできない・・・言葉にできないということは、思考が定まっていないということでもある。

彼なりの独特の美学(それは視覚的な問題だけでなく、聴覚でもある)に非常に共感できる瞬間がクラスの中で多々ある。それを見逃してしまうと、ルイスが教えようとしている核心がすり抜けてしまう。しかしそれは、いともたやすく見逃しがちでもある。ここは重要な所で、どの先生でもそうだけれど、先生が説明しない部分に実は重要なことが潜んでいる。なぜ説明しないのか、は先生にもよる。説明できなかったり、先生のエゴにより説明してくれなかったり、あるいはあえて説明しない方がいいと判断して説明しなかったり・・・etc。幸いルイスの場合は割と説明してくれる方だと私は思う。でもその説明というのは、手足の動かし方とかそういう技術的な問題というよりも、なぜそれがアルテなのか、という観点からの説明。でもその説明を聞いたから分かったと思ったら大間違いだ。そこからさらに自分自身で理解を深めていく必要がある。もちろんその前の段階で、その説明を受け取る側がアルテを理解していなければ、ルイスの説明は宙に浮いてしまうけど。

クラスを受ける側の受け皿というのも重要。受ける側として自分をもっと育てないと。クラスに行けさえすれば先生に育ててもらえる、と思うんじゃなく。

  • フアナ・アマジャのクラス(ブレリア、タンゴ)

スクリーンショット 2017-12-02 0.37.06実はスペインに行く前に、私はフアナ・アマジャに習いたいなって思っていたんです。日本にいた時にビデオで見たフアナ・アマジャのソレアの踊り(以下Youtube参照)の印象が強烈で、セビージャに行ったらこんな踊り手のレッスンを受けられるんだ!って密かにドキドキしていた。大学生の頃。でも当時所属していた大学のフラメンコサークルの先輩達にそれを言ったら、「えー萩原さんがフアナ・アマジャに習うのー!」大笑いされてしまって・・・実は内心傷ついた記憶もあったり・・・。(今では笑えますけど。)

当時見たそのフアナ・アマジャのソレア(ビデオが擦り切れる程見た。)→https://www.youtube.com/watch?v=AjgwL1ZjSxk

ついでに、今年のフアナ・アマジャのソレア→https://www.youtube.com/watch?v=GUPZhUv6ErE

まあそれは余談ですが、実際に習ってみると私の中でのフアナのイメージが随分変わりました。フアナ・アマジャといえば超高速弾丸サパテアードで有名。もちろんフアナが自分で踊る時とクラスで教える時とではスピードが全然違うのだけど、あのパソをあのパソの匂いがするように音を出すには、実は音がない「間」の部分が重要なんだと私は思う。実際フアナの足音にはその「間」がある。でも耳で聞こえるのは音が出ている部分だから、その「間」を感じられないと、パソは同じでも全く異なったセンティードになってしまう。クラスでフアナはそれを何度も注意するけど、クラス全体の音はあまり変わらない。

日本では「走る」という表現を使いますが、本来のテンポより早くなること。あえて早くしているのではなく、コントロールが効かなくて早くなってしまっている状態。サパテアードの技術が足りない人はもちろん、それぞれの音をきちんと出す必要がある。でもある程度技術があってパソもそれなりに取れる人、実はこのレベル層がある意味危険度が高い。人によっては(場合によってはかなりのパーセンテージで)自分はできている、と思っている。ゆえに音を出すことばかりに気を取られて、音のないその「間」に気づかない。そうなると技術レベルの高さではなく、その違いに気づけないという「耳」の問題。耳が遠いという聴力に問題があるのではなく、フラメンコの音を聴き分ける「耳」が養われていない・・・。

それはフアナ・アマジャのクラスに限らない。長年セビージャでクラスを受けていて、常にクラス全体がそういう状況という場合が結構多いように思う。要するに生徒の質の問題。でもスペイン人のプロ(タブラオとかで踊っている人、例えば)がクラスに何人かいるからクラスの質がいいということでもない。最終的には「耳」の問題。だからもしそういうクラスに自分が入ってしまっている時は、その音に慣れないよう注意しなくては。そうでないと、自分の耳が聴き分けた先生のセンティードやアクセント、間というのが侵食されてしまう。だからみんなでやる時にはたとえみんなの中に混じっていても、ものすごく脳みそを使って、どこをどのようにすれば良いのかを忘れないよう頭に叩き込む。そしてフアナが一人でやってくれる時の音に全神経を集中させる。フアナがチラッと見せた動き、ほんのすこしの言葉も絶対に見逃さず、聞き逃さず、忘れないように。

ちなみに、クラス時に録音や録画をする人も多いけど(フアナのクラスは一部録画OK)、私はクラス時には機械に頼らないようにしている。クラスはクラスで集中した方がいいというのが私の個人的な考え。録音や録画をしたければ、一人になった時に、クラスで学んだことを総動員して自主練習する時にすれば良い。ICレコーダーや携帯はなくしたり盗まれたら終わりだから。そこまでなくても、録音したつもりが、録音されてなかった!なんて経験がある方、多いんじゃないんでしょうか?(笑)

フアナのブラッソ(腕)やマノ(手)の使い方も独特。エスクエラ・セビジャーナ(セビージャ派)の使い方を初心者のうちから叩き込まれている私にはとても新鮮。フアナのスタイルは叩き込んで下さった先生方とは真逆の発想。でもスタイルは異なっても、そこにフラメンコがぎっしり詰まっている。フアナの音もそうだけど、私はフアナのマルカール(マルカへ)がすごく好きだ。マルカール(マルカへ)とはフラメンコのリズムであるコンパスを刻むこと。そのシンプルな動きでリズムを刻むフアナの踊りは、やはりシンプル、そしてシンプルだからこそ濃い。フラメンコが。個人的にはパソよりもそっちをもっと教えてほしいと思う。フアナの踊りを見ていても、ああもうちょっとマルカール(マルカへ)が続けばいいのになあ、すぐにサパテアードにするのはもったいないって思っちゃう。(個人的な好みの問題だと思いますが)

フアナ・アマジャはヒターナ(ジプシーの女性)。生粋のヒターナの血が流れている踊り。フアナの踊りが好きで、フアナみたいに踊りたくて習っている人世界中にたくさんいるだろう。気持ちはすごくよく分かる。でもフアナはフアナでしかない。彼女を真似することはできない。もし真似できたとしても、3番煎じか4番煎じでしかない。

ちなみにルイス・ペーニャのクラスでも同じことを感じる。ルイスの教えをそのままに、それは素晴らしいことでもあるけど、ルイス・ペーニャ「みたいな」踊りになってしまってはいけない。

ではどうするのか。

だからここでも受ける側の準備が必要だ。誰に習っても自分の踊りにすること、それができる確固たる精神と内面の純粋さ。

ヒターナの踊りはヒターナだからできる。ヒターナでない人間がそれを真似することはできない。真似できていると思っているのは本人だけで、はたから見れば滑稽以外何者でもない。

フアナ・アマジャは一人。

私も一人。

あなたも一人。

  • マノロ・マリンのクラス(タンゴ・デ・トゥリアーナ)

23435043_1462609747109899_8341015517460759777_nマノロ・マリンを知らない人もいらっしゃるかな・・・。フラメンコを教える人は世の中にたくさんいるけれど、マノロはその中でも偉大。マノロ・マリンの元から現代活躍するたくさんの踊り手が飛び立った。マエストロ中のマエストロ。そのマノロ・マリンの4日間のみのクラス。中上級はソレア&ブレリアで、初級がこのタンゴ・デ・トゥリアーナ。トゥリアーナの主であるマノロが教えて下さる、タンゴ・デ・トゥリアーナ(トゥリアーナのタンゴ)を是非学びたい!と思って申し込みました。(私にとってレベルはあまり関係なく、自分が習いたいものを習っています。)

マノロの弟子、つまり現在、教師や踊り手として活躍しているスペイン人アーティストも何人か受講していました。もちろん彼らも素晴らしい先生で、素晴らしい踊り手なのでしょうが、いやー、やはりマノロが素晴らしかった、私にとっては。現代風のなんでも誇張する踊り、それは一見見栄えがしてかっこいいのかもしれないけど、私は全然興味を覚えない。マノロのようにシンプルでありながら、だからこそ味のある踊りがいいんです。15年くらい前に習った、マティルデ・コラルのタンゴのクラスでも同じようなことを思ったなあ。一瞬同じ時代のトゥリアーナにタイムスリップしたような錯覚を覚えた珠玉の時間。

昔のトゥリアーナのタンゴ(Rito y Geografía del Canteの一部)→https://www.youtube.com/watch?v=bwc_pzvP3G4

毎日ワクワクしたクラスだったけど、特に最終日に素晴らしいことが起こりました。いつも後ろの列いる私をマノロ先生は前列に引っ張り出して下さり、私とパレハで踊って下さったのです、そのタンゴ・デ・トゥリアーナを!!!最初はびっくりしたけど、マノロ先生が「これがトゥリアーナのタンゴだよ」と一言おっしゃって下さり、ああああ、そうだ、こうやって昔トゥリアーナではタンゴを踊ってたんだって、もちろん私はその時代を知らない。それはビデオでしか見たことないけど、きっとそうなんだ。マティルデがトゥリアーナのタンゴがなぜああいう動きなのかというのを教えて下さったことを思い出し、緊張しつつ、噛み締めながら踊りました。

振付だけ見れば簡単かもしれない。技術的には難しくない。でもフラメンコってそういうことではないんだ。人によっては好きな踊り手の動画を見ただけで振付をとって踊ってしまう人もいるだろう。でもそういうことではないんだ。そうやって振付だけをとって踊っている人は、そうね、確かに器用で上手なのかもしれない。でも踊りに匂いがしない。私からすると全く興味を覚えない。

トゥリアーナのタンゴですっ!!!って鼻息荒くして踊る人もいる。タンゴ自体はそれらしく上手に踊れても、トゥリアーナもグラナダのタンゴも区別がつかないで踊っている人もいる。いろいろな人がいるけど、やはり重要なのは「Vivencia(ビベンシア)」なのではないでしょうか。つまり、生きること。その時代、その場所、その人達と生きること、人生を共有すること。その「Vivencia」のある踊り手とない踊り手では雲泥の差。もちろん「Vivencia」のある人が教えるのと、そうでないのだって月とスッポン。その「Vivencia」がないから誇張するしかない(つまり自然には踊れないから)、その「Vivencia」がないからその踊りのルーツが分からない、ルーツを知らない。その「Vivencia」がないから踊りも教えも他人の物マネ、受け売りで形骸化してしまう。

ルイス・ペーニャのクラスに時々モロンの男の子が遊びに来る。踊り手ハイロ・バルールの弟さんなんだけど、彼が歌って踊るブレリアはまさに「Vivencia」の塊。あれは習ったり学んで練習したものではない。「Vivencia」とはそういうもの。

じゃあ、そういう血筋に、そういう環境に生まれ育っていない私はどうすれば良いのか。

私は私なりのできるだけの「Vivencia」を探す。もちろんそうしたところで本当の「Vivencia」を持っている人には届かない。でもそれでもいいのだ、だって仕方ない。もともと「違う」のだから。それを同じようにしようと見せかけるからおかしなことになるのだ。それが無理だと諦めて本質と対峙しないからフラメンコでなくなるのだ。そもそも、そういう人達に届かないから自分という人間が劣っているわけではない。もちろんそういう人達と競争しているわけでも、比較するわけでもない。

私は私。私なりの「Afición(アフィシオン)」で生きてゆく。

フラメンコそのものを愛し感じる心。神髄を探求し続け、見極める心の眼と耳。

2017年12月2日 セビージャにて。

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