早速ですが8/4(土)に出演させて頂く、小松原庸子スペイン舞踊団「真夏の夜のフラメンコ」公演のフライヤーを舞踊団から頂きましたので、こちらでもアップ致します。以前このHPでご案内させて頂いた時よりも出演者が増え、さらに豪華バージョンになっております!ワクワクです!
Baile | Cante | Guitarra |
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①ご氏名 ②郵便番号 ③ご住所 ④チケット種類(S/A/B)第1希望、第2希望 ⑤チケット枚数 をご連絡下さい。チケットは7月中旬以降こちらから発送、もしくはお渡しさせて頂きます。
ちなみに私はバタ・デ・コーラとマントンのソレアを踊らせて頂くことになりました。屋外でのバタとマントンの踊りというのは天候(風雨)に左右されやすいので厳しい部分があるのですが、広い舞台で踊らせて頂くせっかくの機会なので。バタとマントンの踊りも久しぶりです。しかもソレアは初めてなので、ただいま振付中。山にでも篭りたい気持ちなのですが、なかなかの出来かな(笑)手応えを感じています。
振付に関して言うと私の場合は誰かに習ったものをそのままとか、ちょっぴり変えて踊るということはしないので、振付の段階からものすごく脳みそを使います。しかもバタとマントンの振付というのは考える所満載です。そんなこんなで山にでも篭りたい気持ちにもなるのですが(笑)自分の芸術性と創造性、フラメンコ性など総動員するこの作業が私は好きです。
まずは何を踊るかという所から。例えばアレグリアスを踊る時とソレアを踊る時のバタとマントンの扱い方というのが異なります。同じテクニカ(技術)を使うにしても、聴いている歌や音楽が異なるのだから、バタとマントンのさばき方が異なるのは当たり前。それを踏まえて振付る必要があります。最終的にはバタとマントン「で」踊るのではなく、バタとマントン自体「も」踊ることになるからです。その土台となる振付は重要。
当然カンテを理解する必要があります。ただ数に合わせてバタやマントンを動かすのではフラメンコではない。バタもマントンも私と同じようにカンテを聴いているからです。そしてソレアにも歌のスタイルがいくつかあります。どのスタイルのソレアなのか、そして違うスタイルのソレアが歌われた場合でも対応できるような振付。振付というのはカンテを踊るためのツールでなくてはならないからです。
その上で、どの動きがどのテクニカがそのカンテを一番表現できるかという観点から少しずつ形になってゆきます。これだ、と確信してその振付になる場合もあるし、試行錯誤をしてひょんなところから出てきたものが振付になる場合もあります。ちなみに、Youtubeで振付のネタ探し(笑)をすることはしません。なぜなら、そうやって誰かの踊りを部分的に勝手に拝借した踊り、それをつなぎ合わせた踊りというのは本人の踊りにはならないからです。本人はそれがカッコイイと思っているかもしれないけど、つぎはぎは見破られます。
もちろんYoutubeを全然見ないわけではありません。インスピレーションが湧くこともあります。でもそれは振付のネタ探しをしながら湧くものではなく、素晴らしい踊りだから何度も何度も見て、覚えようと思わなくてもその踊りの「何か」が自分の「どこか」に残っていて、それが「いつの間にか」自分の踊りにもしかして出ているかもしれない?という時。もちろん自分の踊りはその素晴らしい踊りに程遠いのは承知していますが。
クラスで習う振付も同じです。最近は、忘れないようにと習った振付を動画で撮る人が多いですね。もちろんそれはいいことだと思うのですが、クラスの中でもしくは自主練習の中で自分の中に蓄積されたものでなければ、いくら振付の形だけ録画しておいてもそれは「形」に過ぎない。せっかくお金と時間をかけて習ったのだからその「形」を忘れないようにしておくというのは、もちろん一つの考え方だし、十分理解できます。私も録画はしますし。でもその「形」だけではフラメンコにはならないんだよなあ・・・。フラメンコ風の振付を作ることはできるかもしれないけど・・・。だから「振付」ってある意味、その人がフラメンコをどう学んできたか、どう感じてきたかの発露でもあるような気がします。
そしてバタとマントンに限って言えば、この組み合わせというのも考えなくてはならない。テクニカを持たずにただバタを引きずってマントンを肩にかけているだけというのは論外として(笑)、それぞれのテクニカをどのように使うのか。どのように組み合わせるのか。これは先の、何を踊るのか、カンテをどう踊るのかというのが原点にありつつも、それにプラスされて「センス」というものも必要になってくる。スペイン語だと「gusto(グスト)」と言いますね。それは「好み」というニュアンスにも取ることができます。
ではこの「gusto」というのはではどこから来るのか。もちろん「gusto」というのは一つではない。人ぞれぞれ違うわけです。人によってはその「gusto」であれはフラメンコだとか、フラメンコではないとか断罪する人がいますが、私個人的には「gusto」でフラメンコは計れないと思っているのでそういう論点からは外れさせて頂きますが、概して「buen gusto(ブエン・グスト。いい趣味、いいセンス、それいいねえ、好きだなあ、みたいな感じ)」のあるフラメンコの踊りというのは、まず絶対的にフラメンコである。フラメンコが匂う。そしてその上で、その人の踊りがその人なりというのが直で伝わってくる、じんわり後から伝わってくる、いつまでも伝わってくる。そんな踊り。じゃあ、そんな踊りにするためには、バタとマントンをどう使うのか?・・・・結局最初の話に戻るわけです(笑)。
要するにバタとマントンで踊ろうが、それらなしで踊ろうが、普段着で踊ろうが、ジャージで踊ろうが、フラメンコである必要があるのです。ゴチャゴチャ振付がなんだかんだという話をしても、結局核の部分はフラメンコでなくてはならないのです。
ところが、近年の踊りを見ると、バタやマントンのテクニカが栄えているのは結構なことだと思いますが、それだけの踊りというのも多いように思えます。要するにフラメンコを踊るというよりも、フラメンコの音楽に合わせて、ひたすら、これでもかこれでもか!とバタとマントンを動かす踊り。隙あらばテクニカを詰め込み、見た目で観客をあ!っと言わせる踊り。
問題はそこなんだ。
バタとマントンを使うことによって「ビジュアル的に」観客を圧倒するだけの踊り。ビジュアルだけを重視して、フラメンコのカンテが、音楽がそのBGMになってしまったら、それはフラメンコとは言えない。
・・・・それを私は「サーカス」と呼ばせて頂く。(ただし、プロフェッショナルなサーカスの技術的なレベルと完成度は桁違いであることは言うまでもない。)
そして本当の、本当の核心は、どんなに素晴らしい「buen gusto」の振付が完成し、それを100万回練習して失敗なく踊ればいいのか、という問題ではないということだ。そこに行き着くのはすごく難しい。人知れず、人並みならぬ努力が必要とされる。でも、フラメンコの踊りの素晴らしさはその「振付」を壊すところにある。振付が壊れちゃうところにある。振付を振付として踊れなくなって、その時その瞬間に聴いているものの方に身体が反応してしまう瞬間。
ああ、なんて素晴らしい瞬間なんだろう!!!!
その瞬間に出てきた動きを「振付」と呼ぶのかは私は分からない。でもそれを私はフラメンコの瞬間と呼ばせて頂く。
その瞬間はどこかに潜んでいる。どこに潜んでいるのか、いつ潜んでいるのか、いつも潜んでいるのか、それは分からない。
結局「振付」というのは、身体も心も研ぎ澄まされた状態にしておくためのツールの一つなんだと思う。もちろんその「振付」がなくてもその瞬間をキャッチできる場合もあるけどね。
そしてバタとマントンにもその瞬間は潜んでいると私は思うんだけど・・・。
彼らは私の一部であり、私でもあるから・・・。
2018年6月3日 セビージャにて。