萩原淳子の2018年セビージャ・ビエナル鑑賞記①(ロシオ・モリーナ、パストーラ・ガルバン、トマス・デ・ペラーテ、ウトレーラ、アンドレス・ペーニャ&ピリ・オガジャ、トマティート、レオノール・レアル)

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

約1ヶ月間に渡って開催されたセビージャのビエナル(2年に一度の世界的なフラメンコ祭典)が終了しました。9月の上・中旬に私は日本とバダホスにいたので、後半の2週間のみ、ほぼ毎日劇場へと足を運んだ毎日でした。贅沢といえば贅沢、でも疲れましたね(笑)お昼間は日本からいらした生徒さんへの個人レッスン、お昼ご飯を食べてから午後はまた別の生徒さんへの個人レッスン、家に帰って急いでシャワーを浴びて、劇場にギリギリ滑り込みセーフという・・・そりゃ疲れるわ(笑)というわけで、終了した今、やっと落ち着いて鑑賞記を書けるかな。

9月18日(火)ロシオ・モリーナ「Grito Pelao」(マエストランサ劇場)

Grito-pelao-·-Rocío-Molina-Silvia-Pérez-Cruz-©-Óscar-Romero-·-003Grito-pelao-·-Rocío-Molina-Silvia-Pérez-Cruz-©-Óscar-Romero-·-011Grito-pelao-·-Rocío-Molina-Silvia-Pérez-Cruz-©-Óscar-Romero-·-002「独り身のレズビアンの女性が子供を持ちたいと思う、彼女は自分の卵子を人工受精したいと思う。その女性はフラメンコ舞踊家、そして彼女は子どもを持つことへの憧れに関して舞台作品を創りたい」

とプログラムの最初に書き出してある通り、その女性、つまりロシオ・モリーナ自身の作品。実際彼女は妊娠7ヶ月のお腹で舞台に立ち踊った。

テーマがちょっと個人的すぎるんじゃないかというのが私の率直な感想だけど、それはそれで見る人により意見は分かれるのかな。とは言え、今回の作品の中でも状況を説明するセリフが多すぎるように思えた。映画や演劇でも役者がセリフでストーリーや場面転換を説明するようになると、大抵興味を失ってしまう。つまらない。同様にフラメンコの舞台でもやはり踊り手は踊りで内容を表現してほしい。セリフを入れることによって観客に作品を理解して

Grito-pelao-·-Rocío-Molina-Silvia-Pérez-Cruz-©-Óscar-Romero-·-007もらいたいという制作側の意図もあるのだろうし、それも分からなくはないけれど、観客側の感性や想像力にある程度作品を委ねてほしいというのが私の個人的な感想。フラメンコは理解するものではなく感じるものだと思うから・・・。ただし演劇的な手法を使って多少セリフを用いるというのは効果を発揮することもあるので、やはりバランスの問題なのかな?

歌が全編シルビア・クルスで通しているのも疲れる。綺麗な声だけれどフラメンコの歌い手ではない。フラメンコ公演の中で彼女の歌を部分的に使うならまだ分かるけれど、全部が全部彼女の声だと、だんだん聞くこと自体が苦痛になってきて、はいはい、わかりました、とどうでも良い気持ちになってきます・・・。

そもそもカンテはどこ?私にとってはフラメンコというのはカンテであるので、そのカンテがないとなると、これはフラメンコの作品と呼んでいいのかどうなのか・・・ダンスの祭典ならいいけど、フラメンコのビエナルのプログラムに入れるのはどうなのかな。前回のビエナルでのロシオ・モリーナの作品が素晴らしかっただけに(それこそ素晴らしいフラメンコだった)、今年は残念だった。

最終的にこの公演を通して、ロシオの赤ちゃんが元気に産まれてくるといいなと思いました。

9月19日(水)「La edad de oro」イスラエル・ガルバン舞踊団+パストーラ・ガルバン

Pastora-Galván-©-Óscar-Romero-·-002Pastora-Galván-©-Óscar-Romero-·-010すごく楽しみにしてチケット買って劇場に行ったのですが・・・というのはこの「La Edad de oro」というイスラエル・ガルバンの公演が私は大Pastora-Galván-©-Óscar-Romero-·-016好きで、これまでに2回観ました。故フェルナンド・テレモートが生きていた時に彼の歌でイスラエルが踊った時に1回、お亡くなりになってしまった後、ダビ・ラゴスが歌った時に1回。そして今回は歌い手がマリア・テレモート、つまり故フェルナンドの娘が歌うという・・・しかも、パストーラもちょっと踊るのかな?どんな公演になるんだろう!って興奮してチケット買ったのですが、劇場に着いてプログラムを見てガビーン。踊りはパストーラだけになってる・・・(え・・・イスラエル踊らないの?!)。歌い手はミゲル・オルテガになってる・・・・。なんじゃこれ????って思ったら会場が暗くなって公演が始まりました・・・。

私の心の中の雲行きの怪しいまま、そしてそのままそれは暗雲になり公演は終わる・・・。パストーラが素晴らしい踊り手であるのは周知の事実なのはわかっているけれど、パストーラにこのイスラエルの輝かしい公演は務まらない。申し訳ないけど。イスラエルの公演が素晴らしかったから、それだけにどうしても比較してしまう。パストーラの踊り自体も、兄イスラエルの真似だったり、他の往年の素晴らしい舞踊家の真似だったりと・・・それらしき踊りは以前の彼女の公演でもなんか観たことあったような・・・。やはりこの公演はイスラエルにやって頂きたいのと、パストーラは兄の影響を離れて独自の道を探した方がいいのではと思った。もうそれぐらいの実力のあるアーティストなのだから。大化けしたパストーラが見たい。パストーラなら出来るはずだ。楽しみ待っているから!!!

9月19日(水)「Soleá Sola」トマス・デ・ペラーテ (セントラル劇場)

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ビエナル期間中は、主に20:30開演の劇場公演の後、このセントラル劇場で23:00からの別公演もあるため、1日に2公演はしごする場合もある。ただし相当疲れるし、どちらかの公演の印象が薄れてしまう危険性もあるので、私はできるだけはしごは避けているのだが、このトマス・デ・ペラーテ、私は大好きなのでどうしても聴きたく、また前述の通りその前の公演のチケットも期待して購入したので、この日ははしごになった。

この歌い手は本当に面白い。ウトレーラのヒターノ一族「ペラーテ」家の血を引くプーロ(純粋)なフラメンコ

Tomás-de-Perrate-©-Óscar-Romero-·-006Tomás-de-Perrate-©-Óscar-Romero-·-008Tomás-de-Perrate-©-Óscar-Romero-·-009Tomás-de-Perrate-©-Óscar-Romero-·-010Tomás-de-Perrate-©-Óscar-Romero-·-013をプーロに歌うかと思いきや、かなりモデルノ(現代的な)フュージョンなどもやってしまう。プーロな人がやってしまうモデルノにありがちな、ちょっと無理なんじゃない?的なのは全くないし、また、モデルノのフージョンをする人にありがちな、全然フラメンコを感じないよね・・・的なのも全くない。面白い。この人は何をするのだろう、といつも目が離せない。(耳か。笑)

この日最高だったのは、ゲスト・アーティストとして登場したパコ・デ・アンパロのギターで歌ったブレリア。昔、ディエゴ・デル・ガストールの演奏で歌ったフェルナンダ・デ・ラ・ウトレーラなんかを思い出した。あの白黒の映像が、モロンとウトレーラの競演が、アルテが、今、ここセビージャ・ビエナルのセントラル劇場において、時代を超えて炸裂している。やっぱりフラメンコはいい。フラメンコの音楽としての可能性を広げるフュージョンも興味深いけど(やる人によっては全く興味が湧かないが)、私は「ど」フラメンコが好きです。

パーカッションの人と向かい合ってテーブルに座り、テーブルやテーブルにある食器を叩きながら歌ったソレアも良かった。ただし、そのシチュエーションは以前イスラエル・ガルバンがやっていたような・・・そんな既視感もあったけど、ソレアの歌は良かった。これも結局「ど」フラメンコ。

「ど」フラメンコといえば・・・ゲストで出演したイネス・バカン・・・のはずが・・・。同じくゲスト出演したラウル・レフリのギターが最悪でイネスの良さが全く出ていない。正確に言うと、レフリは全く歌伴奏をしなかった。もっと正確に言うとイネスの歌のトーンが取れずに伴奏できなかった(?)

無伴奏の中で歌うイネスは本当にかわいそうだった。レフリは歌うイネスの歌を録音して、その後にその録音を自分のフュージョンに使うという手法をとっていたけど、本来はイネスの歌の時にちゃんと伴奏するはずだったらしい。これは終演後イネス関係者から聞いた話だけど、リハーサルの時はイネスの歌に伴奏していたらしい、ところが本番では伴奏しないという・・・本番でビビったのか、レフリ????いずれにせよイネスは本当に最悪の気分で劇場を後にしたとのこと・・・なんてかわいそうなイネス・・・。

それにしてもレフリは、関係者なら誰でも知っている、フラメンコを弾けないギタリスト。フラメンコの曲を歌いながら全然フラメンコでない、でも最近若者に人気のロサリアの伴奏ギタリストでもある。どう見てもどう聞いても、地球がひっくり返ってもフラメンコの伴奏をできないレフリがなぜイネスの伴奏をすることになったのか・・・せめてトマスの演奏をしていたアルフレッド・ラゴスのギターでイネスが歌っていれば・・・

それも何かのフュージョンを狙った、つまりプーロなフラメンコのイネスとフラメンコを知らないレフリの「究極の」フュージョンだったのだろうか・・・いやー、不可解。

その他、特筆すべきは照明。カンテのコンサートながら、ものすごい照明を駆使していた。ここら辺、幾つかのバイレ関係者も学んだ方がいいのではないか。(フラメンコ舞踊公演の照明、暗すぎてよく見えないのとかもあるんですけど・・・)

9月20日(木)「La Savia del Tronco¨Utrera¨」ロペ・デ・ベガ劇場

Cuchara-de-Utrera-©-Óscar-Romero-·-002Cuchara-de-Utrera-©-Óscar-Romero-·-005Cuchara-de-Utrera-©-Óscar-Romero-·-006これもすごく楽しみにしてチケットを取った公演!そして素晴らしかった!やはりフラメンコはフラメンコでなくては。ウトレーラのヒターノ達の一族。彼らが培ってきたフラメンコ、引き継ぎ、受け継ぐフラメンコ。根っこのある、根っこを忘れない、根っこからちゃんと伸びてゆくフラメンコ。それが公演に一貫していた。家族の絆。リスペクト。それでこそフラメンコ、それをウトレーラの彼らが実証してくれた。本当にありがとう。

ゲスト出演したホセ・バレンシアの歌にも泣けた。ウトレーラ土着の歌い手、ガスパール・デ・ウトレーラのブレリアを歌うホセ・バレンシア。彼の、ウトレーラに対する、ガスパールに対する想いが一言一言に滲みでていた。プロの歌い手の巧さだけではない、それだけでは人を感動させることはできない。フラメンコの素晴らしさはそういう所にあるのではない。それをあの日、ホセ・バレンシアが教えてくれた。涙・涙・・・

それにしても、そのホセ・バレンシアと、この公演の根幹を成したクチャーラ・デ・ウトレーラの写真がないのが残念だ。このブログの写真はすべてビエナルのHPに掲載してあるものなんだけど(注:アントニオ・ペレスの写真ではありません。)、その公演を表すシンボルが写真として残ってないって・・・。多分写真撮影が許可されている時間は公演の最初のうちだけとか、あとは次の公演が控えている時は写真家は最後まで撮影できないまま次の会場に急がなくてはならないとか、いろいろ事情があるのかもしれないけど・・・。写真家も大変なのだろうが・・・。

9月21日(金)「La Tournée」アンドレス・ペーニャ&ピリ・オガジャ

Andrés-Peña-Y-Pilar-Ogalla-©-Óscar-Romero-·-002Andrés-Peña-Y-Pilar-Ogalla-©-Óscar-Romero-·-005Andrés-Peña-Y-Pilar-Ogalla-©-Óscar-Romero-·-006Andrés-Peña-Y-Pilar-Ogalla-©-Óscar-Romero-·-008Andrés-Peña-Y-Pilar-Ogalla-©-Óscar-Romero-·-009今年のへレスのフェスティバルで評判だった作品。私はへレスでは観られなかったのでビエナルで観ることにした。うーん、おしゃれで粋な作品だと思うのだけど・・・この演出・・・ダビ・コリアの演出なのだけど、ダビ・コリア本人の作品の演出と結構似ているのですが・・・。それとアンドレとピリの踊りも見たことのある振りやパソが何度も出てきて新鮮味に欠けるというか・・・。二人がそれぞれ一人で踊り、またパレハで踊る手法の二人の公演は何回か観てきたので、次回は他にゲストの踊り手を入れるとか、舞踊団員を数名入れて群舞を入れるとかちょっと変化をつけた公演にしたらどうなるのかな?と思いましたが・・・

際立っていたのは、ギターのラファエル・ロドリゲス。この人がギターを奏でると、一音だしただけで劇場の空気がガラッと変わってしまう。音の一つ一つがフラメンコであり、彼の音楽は珠玉なのだ。あまりにも素晴らし過ぎて、舞踊伴奏ではなく彼のリサイタルなのでは?と錯覚してしまう程、観客が彼のギターに集中してしまう。それゆえ、彼のギターと同等の踊りでないと、結果、残念ながら踊りは霞む。今回の舞台でも彼のギターは素晴らしいと感動しながらも、でも踊りが見えてこなくて残念という場面が何度かあった。アンドレとピリだっていい踊り手だと思う。でもラファエルが素晴らし過ぎるのだ。格が全く違う。例えばミラグロス・メンヒバルくらいの、あるいはロシオ・モリーナくらいの格のある踊り手でないと、ラファエルのギターと相まって踊りが生きてくるというのは難しいように思う。それだけラファエルが素晴らしい、素晴らし過ぎるということなんだけど。

ちなみに最初と最後の小芝居(?)での歌い手達(インマ・リベーロ、ミゲル・ロセンド、エミリオ・フロリード)がなかなかの味を出して演技をしていて面白かった。最近の歌い手はただ歌とパルマがうまいだけでなく、いろんなこと要求されて大変なのね。

9月22日(土)「Viviré」トマティート(マエストランサ劇場)

Tomatito-©-Óscar-Romero-·-002Tomatito-©-Óscar-Romero-·-009Tomatito-©-Óscar-Romero-·-006Oleeeeeeee!!!やっぱりトマティートは裏切らない。ゲストの歌い手のドゥケンデ、アルカンヘル、ランカピーノ・チーコも素晴らしかった。その他3名の歌い手も、第2ギターのトマティートの息子も、パーカッションもバイオリンもトマティートと一丸になって、全部いい。全部いいのだ。

最高だったのは、わかっていたけど、やっぱり彼のブレリア。彼のブレリアを聴くと本当に血液が沸騰するのだ。マエストランサ劇場ってかなり冷房が効いていて寒いくらいなんだけど、トマティートのブレリアの後は汗かいてたし。(私がね。笑)やっぱりトマティートはいい。トマティートのいないビエナルはビエナルではない。トマティートのチケットは絶対買うべし。

それにしてもトマティートは今年で還暦らしい。こんな60歳のギタリスト、どこにいる???

9月23日(日)「Nocturno」レオノール・レアル セントラル劇場

Leonor-Leal-©-Óscar-Romero-·-005Leonor-Leal-©-Óscar-Romero-·-008
Leonor-Leal-©-Óscar-Romero-·-011Leonor-Leal-©-Óscar-Romero-·-013Leonor-Leal-©-Óscar-Romero-·-016レオノール・レアルという踊り手は、私にとっては興味深い踊り手。彼女は彼女なりの表現というのを常に模索し、それを発表し続けている。その表現がフラメンコではない、という意見もあるのだけど、個人的には彼女の踊りが好きだ。新たな表現をするために奇をてらう踊り手や、無理にコンテポラリーの動きなどを取り入れて失敗する踊り手(本人はそれに気づいていない場合が多い。)が多い中、彼女の表現は自然だ。彼女が彼女の内なる欲求の通り、自然に素直に身体を反応させた踊りとでも言うのだろうか・・・。彼女の踊りを見ていると、あんなのはフラメンコじゃないって断罪する前に、もしかすると私の方がフラメンコの「型」にとらわれているのではないか?と自問してしまう。フラメンコであるためにフラメンコらしく踊る、つまり、それは実のところ、フラメンコ本来の持つ自由さからはかけ離れているのではないか・・・という疑問。うーん。

前置きが長くなったけど、ギターとパーカッション、レオノールの踊り、3名のアーティストだけの舞台。個人的にはカンテをやはり聴きたい。公演の中で部分的にギターとパーカッションだけで踊るというのはアリだと思うけど、全くカンテがないというのは正直物足りない。観客を飽きさせないようにうまく作品は創ってある。舞台の使い方、ギターやパーカッションとの組み合わせ、パーカッションのキャラクター(公演にかなりの彩りを添えていた)何よりレオノールの踊りに目が離せない。彼女なりの独特の魅力と個性。公演時間も1時間あるかないかくらいで、ビエナルの劇場作品にしては短い方だと思うけど、その公演時間の短さも全て計算されてのことだろう。肩肘張った長々した作品を見せられるよりは、たまにはこんな作品も息抜きにいいかなと思いました。

・・・でも次回はやっぱりカンテありの作品が見たいかな。

写真:Oscar Romero
ビエナルHPよりり抜粋。http://www.labienal.com/galeria/

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