萩原淳子の2018年セビージャ・ビエナル鑑賞記②(アンダルシア舞踊団、マリア・モレーノ、ラファエラ・カラスコ舞踊団、フアナ・アマジャ、アナ・モラレス、エバ・ジェルバブエナ)

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

ビエナルが終わり、日本からいらした最後の生徒さんの個人レッスンも終了。10月になり、少し落ち着きを取り戻したセビージャではまた新たな毎日が始まっていますが、ビエナル最後の週を思い出してみます。ブログにしておかないと忘れてしまうので・・・

9月24日(月)「Flamencolorquiano」アンダルシア舞踊団(マエストランサ劇場)

BFA-©-Óscar-Romero-·-002BFA-©-Óscar-Romero-·-008BFA-©-Óscar-Romero-·-006前回観た同舞踊団の公演があまりにも暗くつまらなかったので(公演名は忘れた・・・)、今回ビエナルのチケットは購入していませんでしたが、お友達のチケットが余っているとのことで急遽劇場へ。(Iさんありがとう!)

ロルカをテーマにしたこの作品、面白かったです。舞台の使い方、曲構成などはさすが舞踊団だけあって見ごたえがありました。監督のラファエル・エステベスとゲストアーティストのマリア・テレモートの掛け合いのタンゴも面白く、oleの言葉が出る前にゲラゲラ笑ってしまった。うまく表現できませんが、楽しすぎてタガが外れてしまうというか。

ラファエル・エステベスの片腕ナニ・パニョスよりも、舞踊団員のアルベルト・セジェス君の存在感が光る。成長著しい若手舞踊家。数ヶ月前にアルベルト君の踊りをタブラオでみたら、ラファエル・エステベスそっくりに踊っていてそれはどうかと思ったけど(笑)なんでも吸収している時期なんだろうな。今後のさらなる成長が楽しみな一人です。

ビセンテ・ヘロやセバスティアン・クルスの舞踊団専属歌手に加え、今回ピアノの弾き語りをした若手ホセ・ルイス・ペレス・ベラの存在も公演の流れの中でうまく使っていたな。彼の登場のシーンからあえて彼に注目をさせるような演出でうまいなあ。

とにかく舞踊団員の皆さんは踊る踊る、よく踊るなあと感心しましたが、マリア・テレモートが歌いながら途中でちょっとブラッソをあげたりした時に香るフラメンコ。そんなシンプルな動きに心が惹かれる私でもありました。

9月25日(火)マリア・モレーノ「De la Concepción」(セントラル劇場)

María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-014María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-015María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-018マリア、素晴らしかった!!!最初の方の演出はプログラム記載の通りのエバ・ジェルバブエナ色が強くって、この公演はどこに行くのだろう・・・とちょっと心配してしまったけど(余計なお世話ですが。笑)ソレアが素晴らしかった。ものすごいフラメンコの塊でした。最後に踊ったバタとマントンのカンティーニャスも良かったです。日本のタブラオでマリアの踊りを見た時は、バタが短めだったせいか動きがうまく生きていなくて残念だなあと思っていたので、大きな舞台でちゃんとした長さのバタの踊りを観ることができて大満足。

彼女の踊り自体が素晴らしいフラメンコなのであまりゴチャゴチャした演出は必要ないような気もしたけど、どうなんだろう?

いずれにせよ、エバの舞踊団員として何年も踊り続け(出始めの頃から彼女は光っていた!)、今回そのエバがこの公演の演出と振付指導をしたようだけど、それでもエバに染まっていない彼女独自の個性が一貫している。それって実はすごく難しいことだと思うんですよね。彼女よりもキャリアのある踊り手で、エバの影響を受けすぎてエバっぽく踊っている踊り手だっている。(でもエバにはなれないのは明白・・・)世の中たくさんの踊り手が素晴らしく踊り、たとえエバっぽくなかったとしても、なんだかみんな似たような踊りだなあ・・・と思ってしまう昨今、マリアの個性は本当に素晴らしいと思う。これから先のマリアも楽しみだ。一体どんな踊り手に成長するのだろう?楽しみ。楽しみ。

9月26日(水)「El Salón de Baile」ラファエラ・カラスコ、ルベン・オルモ、タマラ・ロペス、ダビ・コリア(マエストランサ劇場)

El-salón-de-baile-©-Óscar-Romero-·-001El-salón-de-baile-©-Óscar-Romero-·-011ラファエラ・カラスコ率いる一流舞踊家軍団の公演。ラファエラを始め、ルベン・オルモ、タマラ・ロペス、ダビ・コリアと出演者名を見ただけでひっくり返りそうになる。実際個々の実力はさることながら、群舞として見ても圧巻。プロのレベルというのはこういうものだ、とまざまざと見せつけられました。

でもそんな最高級な公演の中でも私が一番好きだったのは、ハビエル・バロンのソレア。Oleがとまらない。背も低くブラッソ(腕)だって長いわけではない。なのにあのエレガントさ。聞き惚れてしまうサパテアード。その音を入れる絶妙なタイミング。そうだよ、フラメンコはこう踊るものなんだよ、と改めて実感。今の時代なかなかないよね、ああいう踊り。ハビエル・バロン。すごい。さすが。彼の踊りの前には陳腐な言葉しか並べられない。お粗末。

ちなみに、そのハビエル・バロンの写真はビエナル公式HPには掲載されていない。あんなに素晴らしいソレアを記録できていないというのは、痛恨の極みとしか言いようがない・・・。

9月27日(木)「Gitanas」フアナ・アマジャ、フアナ・ラ・デル・ピパ、レメディオス・アマジャ(マエストランサ劇場)

Gitanas-©-Óscar-Romero-·-004Gitanas-©-Óscar-Romero-·-003Gitanas-©-Óscar-Romero-·-001フアナ・アマジャ、フアナ・ラ・デル・ピパ、レメディオス・アマジャと来て公演チケットを買わないフラメンコファンはいないだろう。

皆素晴らしかったけれど、なんと言ってもこの日のフアナ・アマジャのソレア。この人にはやはり大きな舞台が合う。合うと言うよりも、大きな空間が必要な踊り手なのではないか。日本のタブラオでも彼女のソレアを見たけれど、それも素晴らしかったけれど、フアナの持つエネルギーが大きすぎて、深すぎて、タブラオサイズでは収まらない。マエストランサという空間の中で見ることができて、初めて納得できる部分もあった。というより、マエストランサの空間も4人のモンスター達(エンリケ・エストレメーニョ、マヌエル・タニェ、エル・プルガ、エル・ガジ)の歌も全て飲み込み、丸ごとフアナ・アマジャになっていた。

自分の培ってきたものを、自分の道をただひたすら歩き続けてきた真のアーティスト。流行や新しいものを追いかけ、自分を見失ってしまうアーティストが多い中、彼女は彼女であり続けた。彼女はいつでもいつの時代でもフアナ・アマジャであった。唯一無二だった。それが長い年月を経て、さらなるマグマとなり彼女の身体に蓄積されてきたのだろう。それがあの夜爆発した。

彼女の名はそのソレアで、後世フラメンコ史に名を残すことになるだろう。

そして、そのフアナと私たちは同時代に生きている。感謝したい。

9月28日(金)「Sin permiso Canciones para el silencio」アナ・モラレス(ロペ・デ・ベガ劇場)

Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-001Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-003Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-008亡き父に捧げた公演。以前、震災直後にアナ・モラレスにインタビューした際、その父のことについて語ってくれた。そんなことを思い出しながら公演を観る。

当時のアナ・モラレスのインタビューはこちら→http://www.layunko-flamenco.com/JA/2011/03/¨somos-japon¨⑨%E3%80%80ana-morales/

たくさんの観客が劇場を後にして、ほとんど誰もいなくなってから私は一人劇場を後にした。自分の心の中のこの感情をずっと留めていたかった。友達に挨拶すらしたくなかった。唯一会ってしまった知り合いの踊り手は、幸いなことに電話で誰かと話していた。内心ホッとしながらその踊り手に手を振ってすれ違った途端、涙が出てきた。

Trasmitir

トラスミティール。

フラメンコを愛する人なら知っている言葉。直訳すれば「伝達する」ということだけど、そのtrasmitirがあってこそ、それはフラメンコとなりうる。それがなければどんなに素晴らしい技術も振付もメロディーもフラメンコではない。

それそのものだった、あの日のアナ・モラレス。

踊りが上手だとか、プーロだとかモデルノだとかスタイルの問題じゃない。全てをひっくるめ、そして全てを超越した人間が人間に伝えるもの。伝えずにはいられないその内面。それが表に出てしまうこと。表に出すのではなく。

「全ては時間が解決する」と人は言う。

本当だろうか・・・・

誰かを失うこと。例えば人の死。その人が近ければ近い程、その喪失感と残された虚無感は深い。それを解決するのは時間なのだろうか・・・

時間が経たなければならない。時間が経たないうちは何も解決はしない。でも解決するのは時間ではないと私は思う。そして解決することでもない。

アナは父の死から、その想いを彼女のフラメンコを通してアルテに昇華させた。そして同じく喪失感と虚無感を持つ人の感情を揺さぶり、共鳴させたのだ。

人はなぜ踊るのだろうか。

なぜ舞踊家は踊らなくてはならないのか。

その根源的な問題を突きつけられている。

9月29日(月)「Cuentos de Azúcar」エバ・ジェルバブエナ(マエストランサ劇場) 

Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-001Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-002Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-003Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-011Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-015奄美の島唄歌手、里アンナさんとエバ・ジェルバブエナの共演。2年前のビエナルの時に、エバが里アンナさんのCDをプレゼントされたことがきっかけだったという。日本とアンダルシアの文化の融合、と評されているようだけど・・・なんと表現したらいいのか、この違和感・・・。

※里アンナさんの公式HPはこちら→https://www.annasato-primitive-voice.com

ちなみに、ビエナル公式HPには里さんの写真は掲載されていない。(理解不可能・・・。)

異なる文化を舞台上で融合させるというのが悪いと言っているのではない。今回のこの公演の着眼点や発想はとてもいいと思うし、里アンナさんの歌もエバの踊りも、音楽陣も素晴らしかったと思う。それぞれにそれぞれの良さがあっていい!と思う瞬間が沢山あった。ただ構成の仕方なのか、そのいい!と思う余韻が別の場面に転換することでブツっと切れてしまい、その余韻が増長することが難しかったように思う。なんというか、場面場面、それぞれのアーティスト達の歌や踊りはいいのだけど、それぞれがバラバラに独立しているオムニバスみたいな感じと言ったらいいのか・・・それはそれで面白いけれど、転換やつなぎがもう少しスムーズに流れるといいのだろうか。その辺は演出や照明の使い方の問題になると思うので専門的なことは私には分からないのだけど・・・。

踊りはエバの他にフェルナンド・ヒメネス・トーレス(へレスのフェルナンド・ヒメネスではなく、昨年のウニオンのコンクールで優勝した踊り手の方)がいた。フェルンドくんの実力はコンクールで優勝したという実績だけでなく、長年エバの舞踊団の要として踊っているし、アンダルシア舞踊団やロシオ・モリーナの公演等でも多数活躍していることからもわかるように、そんじょそこらの踊り手ではない。とにかく上手い。舌を巻く。今回もフェルナンドくんは実力をいかんなく発揮し、脱帽。・・・といきたい所なのだが、時々出てきた気になる振付が・・・。どうしても気になるのだ、アンダルシアと日本の融合ということで、髪型や衣装もそれっぽく、というのはまだ分かるのだけど、外国人がそれが日本だと考える、あの特有の仕草とか振付の中に出てくると、それはちょっと違うんだよなーと首をひねってしまう。両手を胸の前で合わせてお辞儀する、あれだ。間違いではないかもしれない、でもそれをあなた達(この場合スペイン人達)がやるのはちょっとおかしいよ。

うまく言えないのだけど、例えば日本で「フラメンコやってます」と言うと、「ああ、あのあれでしょ、バラを加えて手のひらパンパンって叩く踊り?」と言われた時の違和感に近いか?今時そう言われることは少なくなってきてはいるが、以前はそう言われることが結構あった。その度にいや、そうじゃないんだよね、って心の中で思ってしまうあの独特の感覚・・・。

同じく、公演最後のアレグリアスでエバが出てきた時に一瞬目をこすってしまいそうになったのだけど、エバの顔が白塗りされているように見えたのは私だけか???(それとも照明の関係でそう見えたのか・・・?)いずれにせよ、その瞬間、これも日本を知らない外国人がよく考える「日本女性=白塗りの芸者」みたいな図式が頭の中に浮かんできて、またか、とのけぞってしまう。ブレリアに入ったところで、ギターがブレリアのコンパスのまま、里さんがそこに彼女の歌をかけ、それをエバがブレリアとして踊った箇所はすごい!と思った。日本とフラメンコの融合問いう観点でみた時、唯一いいと思った場所だ。

そんな感じでアレグリアスも盛り上がって終わり、公演終了というところで、里さんがお盆に急須とお茶を乗せて袖から出てきたのだ・・・ま、まさか・・・・

そう、そのまさかが起きてしまった・・・

里さんが正座し、向かい合ってエバが正座をする。里さんがお茶を汲みエバにお茶を渡す。エバはお辞儀をしながら里さんと会話して(そんな風な演技)二人でお茶を飲む・・・・。

会場、割れんばかりの拍手・・・

緞帳が降りる・・・

・  ・・いくらなんでもその演出はおかしいだろう、それが日本とアンダルシアの融合という公演の最後を締め括る演出なのか???

陳腐。

あれだけの素晴らしい歌とフラメンコの音楽と踊りと、たとえそれがぶつ切りになっているように見えた部分があったとしても、それぞれは一級品なのだから、そんな子どもでも思いつくようなありきたりの演出で終わらせないでくれ・・・。それもずっと気になっていた、あの、日本を知らない外国人が、これが日本だと思う固定観念に基づいたもの。ステレオタイプ。それがベースにあるということに気づいた時、私の瞼は半開きになり、目の前に「脳内緞帳」がさーっと降りてきた・・・。

こんなことを思っているのは私だけかもしれない。

思えばセビージャに住んで16年、ここで日本人として、そしてフラメンコの踊り手として生きて行く中で、その固定観念やステレオタイプ的な考え方、それを持つ人達と日々闘っている。だからそういうものに私は人一倍敏感なのかもしれない。でもそれがこの公演を見て、正直私が感じたこと。嘘やおべっかは書けないから・・・。

・  ・・と同時に思うこともある。それは私達外国人がフラメンコを踊る時にも同様に起こりうるのではないか。

フラメンコの、アンダルシアの、ヒターノの文化を知らずに、フラメンコの表面的な動きだけで踊る。こういう動きがフラメンコっぽい、とかこういう格好がヒターノっぽいとか、何も知らずに生半可な知識で形だけ真似る。フラメンコを踊るからにはフラメンコが好きなはずだ。嫌いだったら踊ったりしない。でもその大元の文化を深く学ばずに、ただカッコだけで踊るということがどういうことなのか。しかも自分が知らないということすら知らない場合は・・・さらにタチが悪い。

自省する人・・・・?

はい、私です・・・。

写真:Oscar  Romero(ビエナルHPより抜粋)

2018年10月4日 セビージャにて

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