「ガルロチ」でトロンボを見る。フラメンコのアルテとアフィシオン、文化の関連性を考える。

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みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

今回の日本滞在もあと数日となりました。来週月曜に日本を発ちます。1/20に日本に着いてから本当にめまぐるしい毎日でしたが、やっと今週に入って少し休むことができました。そして昨晩はセビージャの師匠、トロンボを観に、新宿にあるタブラオ、「ガルロチ」に行ってきました!

ガルロチさんのHPはこちら→http://garlochi.net

IMG_20190215_223202_436IMG_20190215_223219_492いやー、本当に素晴らしかった!!!あまりに素晴らし過ぎて笑いがこみ上げてくる程。一緒に行ったのは水戸の踊り手、マリコさん。(写真左)マリコさんと私は偶然にも同じ時期(2002年3月)にセビージャに着き、そして同じ時期にトロンボに習い始め、それから数年間トロンボのスタジオに毎日通った仲間であり同志です。そのマリコさんと一緒に行ったので、盛り上がる、盛り上がる(笑)。なんといってもトロンボの良さ・素晴らしさ、そして弱点までも熟知している私たちなので、見るポイント、聴くポイント、感じるポイントが全く一緒。だからこそマリコさんと行きたいなと思って私からお誘いしたんですけどね。終演後にウエイターさんに「盛り上げて頂きありがとうございます」なんてお礼を言われてしまったけど、盛り上げたんじゃないくて、盛り上がっちゃうの。(笑)だから「こんな素晴らしいライブを観せて頂き、こちらこそありがとうございます」とお礼を申し上げました。

ところで、ガルロチに行く前に「トロンボはあまり踊らないから・・・」というコメントを耳にしましたが、それは一体どういうことなのか、このブログで考察してみたいと思います。

フラメンコを踊るということは、身体を動かし、足音を出すことなのか?それらを見栄え良く、フラメンコっぽく、お客さんにうまくアピールすればその踊りは素晴らしい踊りなのか?

確かにそういう踊りは分かりやすい。フラメンコを知らない観光客はそういう踊りに反応しやすい。だからスペインのタブラオの踊り手達がかなりの確率でそういう踊りになってしまうのは致し方ないかもしれない、なぜなら観客の反応のいかんでそのタブラオでの仕事が続くか続かないか決まることだってあるからだ。彼らも食べていかなくてはならないのだ。だからそれを分かった上で、外国人観光客ウケを狙う踊りをする人もいるし、自分では気付かないうちにでもそういう踊りになってしまっている人もいる。要するに、芸術や文化としてのフラメンコではなく、商業主義・営利目的のフラメンコ。

でもそういう「商業フラメンコ」が蔓延する中で、それと一線を画し、個人の「アルテ」を突き詰めている踊り手もいるということを知ってほしい。「アルテ」とは簡単に表現するとフラメンコの芸術性とでも言えようか。「アルテ」とはその人間の本質であり、フラメンコの本質であり、歌・ギター・踊りそれぞれのその本質が昇華された一瞬に立ち現れるものだと私は思う。ある意味、それは「商業フラメンコ」と対極の位置にあると言ってもいい。誰にとっても分かりやすい、サパテアードをダーっとやって、髪の毛振り乱して、ぐるぐる何回転もして、パッと止まった時にもらえる拍手、おー!すっげー!というのとは異なる。そもそもその「アルテ」というのはパッと見て分かるものではないから。その中に私たちも入り込んで、彼らが感じていることを自分も感じるからそこに「アルテ」を発見できるのだ。発見というより、感じるというか、それを吸い込むというか、嗅ぐというか、あるいはそれらができないくらい息が止まってしまうというか・・・。

だから「OLE」という言葉が存在する。本当の「OLE」はその瞬間のためにある。

そう、そうなのだ。トロンボの踊りの素晴らしさは彼の動きに限ったことではないのだ。彼の踊りはその瞬間瞬間のギター(ホセ・ガルベス)やカンテ(ホセ・メンデス)から触発されて生まれている。そこにフラメンコの本質と根源があるんだと私は思う。だからそこには「振付」という形式では起こりえない絶妙な「間」というのも生まれる。そしてその動いていない「間」にこそ彼の、そしてフラメンコの本質が満ちているのだ。でも多分その部分を表面的に捉えると、「トロンボはあまり踊らないから・・・」という冒頭のコメントにつながってしまうのかもしれない。要するに、「動かない時が多い=あまり踊らない」という意味で。

話はちょっと飛ぶけど、昔スペイン人の知り合いで「日本映画は映画館でお金を払って見るもんじゃない」と言っていた人がいた。なんで?と聞いたら、大真面目に「だってほとんど喋らないでしょ?」と答えてたけど・・・(笑)要するに登場人物が喋りまくり、大爆発があり、血がどばーって出る映画だったらお金を払うけど、無言のシーンが多い日本映画はつまらない、こっちはお金払うんだからその分何かしろ、とのこと。(笑)

呆れて思わず笑ってしまったけれど、その会話がない所に、会話がないからこそ、情緒や登場人物の心情が際立ち、観客に伝わるのだと思いませんか?それを全て会話や動作で表現したとしたら・・・・?そういう部分を全部省いて、効果音や特殊映像、分りやすい音楽でその「間」を埋めるとしたら・・・?逆に言えばそう思える人は、特殊効果満載の映画こそお金を払って見たくないと思うはずなんです。

映画の話だったら、そうそうと納得できる人が、フラメンコになるとうーん、よく分からないということになるのはなぜか?

それはフラメンコの文化が、まだ真の意味で日本に浸透しきっていないからだと思う。フラメンコを学ぶということが、フラメンコ風の踊りの振り付けを習うことなのか、フラメンコの「アルテ」を学ぶことなのか。フラメンコを観るということが、その踊り手の振り付けや動きやパソ、はたまた衣装のデザインをチェックしに行くことなのか?それともその踊り手のアルテを感じることなのか?

ただこんな話をすると、フラメンコって難しい、フラメンコを知らないとフラメンコは楽しめないんじゃない?って思ってしまう人もいるかもしれない。

でもそういうことではないと私は思う。現に、フラメンコを全然知らない人の方がかえってフラメンコの本質に射抜かれることだってある。なぜなら心がまっさらだから。この踊りは、この振付は、このパソはどうなっているんだ?と勉強のために、自分の踊りのためのお役立ちツールとして利用しようとしている人。(本人にそのつもりはなくても)そして何かしら批評材料・コメント材料を探しながら見ている人が忘れてしまった、まっさらな心。

そのまっさらな心で見るから、聴くからこそ感じられる「アルテ」。そして、だからこそ深まる「アフィシオン」(フラメンコを愛する心)。そのアフィシオンがアルテを持つアーティスト達を支えるのだ。

良質のアルテに触れる機会が多ければ多いほど、アフィシオンは育つ。アフィシオンが育てば育つほど、よりアルテを感じられるようになる。良質のアルテを持つアーティストが観客のアフィシオンを育て、アフィシオンのある観客がアーティスト達のアルテを育てる。それが、家族で代々受け継がれるフラメンコ文化、ルーツを持たない私たちが受け入れ、育ててゆく「もう一つのフラメンコ文化」だと私は思う。

「商業フラメンコ」に毒されることなくその「もう一つのフラメンコ文化」を育むこと。それはとても難しいかもしれない。フラメンコのゆりかごと言われるアンダルシア地方でだってそれは難しい現状なのだから。

だからその本質を持つアーティストを今回招聘して下さったガルロチさんに感謝したい。

素晴らしいショーを見て、昨日は帰りの電車の中で私は一人ニタニタ笑っていました。マスクをつけていたからまだよかったものの、マスクがなければただの変態(笑)。そして家に帰ってショーの後に撮った写真をトロンボに送ったら、それをトロンボがフェイスブックにをアップしてくれた。そしてこんなコメントを残して下さいました。トロンボの文章をそのまま以下、コピペします。

Hoy día 14 de Febrero me an dado una hermosa Alegría … mi Mariko y mi Yunko an venido haberme a Garlochi… personas que más allá de sus talentos y Arte, conozco desde hace 20 años la edad que tienen mis hijas Son de mis primeras alumnas que un día llegaron a Sevilla a mi escuelita en el pelícano . GRACIAS POR QUERERME Y HABER PODIDO COMPARTIR JUNTOS EN LA ENSEÑANZA GRACIAS POR CUIDARME TANTO… GRACIAS

簡単にざっと訳してみると、

「今日2月14日、素晴らしい喜びが私に与えられました。私のマリコと私のジュンコが私に会いにガルロチに来てくれた・・・彼女たちと知り合ったのは20年前、私の娘たちと同じ年です。私の最初の生徒たち。セビージャに着いて、ペリカノ広場にある私の私の小さな教室に辿り着いたのでした。私のことを愛してくれてありがとう。私の教えを一緒に共有してくれてありがとう。私のことをこんなにも気遣ってくれてありがとう・・・ありがとう

このコメントを読んだ時、さっきまでニタニタしてた私は、一瞬にして胸を締め付けられ、泣いた。トロンボはあの当時からフラメンコの本質を私たちに伝えてくれていた。実際マリコさんと私がトロンボに習い始めたのは20年前ではなく16年前だけれど、その間ずっとずっと彼は本質のままだった。踊りも教えも。

だから今の私がいる、あの当時トロンボに習っていなかったら、今の私はいない。

もちろん、その私は大した人間でも威張れる程の踊り手でもない。だけどトロンボのお陰で、私はフラメンコのアルテを知り、アフィシオンを育てる土台を作ることができたんだ。それは断言できる。

その感謝をトロンボに伝えると同時に、だからこそ私はこれからもアフィシオンを持ってフラメンコを学んで行きたいと思う。踊るにしろ教えるにしろ、自分の原点はそこなのだ。そしてそれを自分以外の人にも伝えゆくこと。私の踊りや教授活動を通して。それが彼のアルテを受け取った私の責任でもあると思うから。

・・・その意味で、このブログも何か少しお役に立てるといいのだけど・・・なんて思いながら更新させて頂きます。

長くなりましたが、お読み頂きありがとうございました。

2019年2月15日 (ガルロチさんでのトロンボ出演は2/20までだそうです。)

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