Apr 25

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

お蔭様で、5月4日フラメンコ・チャリティーライブ「VIVIR~生きて行く~」のチケットが早々の完売となりました。誠にありがとうございました。

東京・中野でのクルシージョ、つくば「国際美学院」さんでのクルシージョも残すところあと数日となりました。最後まで健康に気をつけクルシージョを終えたいと思います。

ではまたお会いしましょう。

2011年4月25日 中央林間にて。

Apr 17

みなさんこんにちは。

5月4日(水・祝)、西日暮里「アルハムブラ」でチャリティーライブに出演することになりました。

2011.5.4 // 「VIVIR」 -チャリティーフラメンコライブ 西日暮里「アルハムブラ」 18:00会場 18:30開演
入場料:2000円
Baile Cante Guitarra
  • AMI
  • 河内さおり
  • 関口京子
  • 屋良有子
  • 萩原淳子
  • パコ・エル・プラテアオ
  • フェルミン

当初予定されていた、同日の恵比寿イベリア「サラ・アンダルーサ」でのライブは中止となりました。そのため、「だったらチャリティーライブを企画したらどうか!」と思いついた私は、早速出演予定だった踊り手さんにご連絡。関口京子さん、河内さおりさんと私の3人の共同主催企画でチャリティーライブの可能性を探ることに。そしてAMIさん、屋良有子さん、パコ・エル・プラテアオ、フェルミンの心強いご協力、そして会場を無料提供して下さる、西日暮里のタブラオ「アルハムブラ」さんの懐深いご協力を得て、今回のライブ開催の運びに至りました。皆様どうもありがとうございます。

今回の収益金は被災地に送られ、後日、送付報告を3人の主催者のホームページにて公表致します。

お問い合わせ&チケットお申し込みは info@saori.flamenca.com (河内さおりさん)までご連絡下さるようお願い致します。早々の満席が予想されますので、チケットご希望の方はお早めにご連絡下さい。

では会場でお会いできることを楽しみにしております!

Apr 14

みなさんこんにちは。

先程日本に着きました。もともと予約してあったブリティッシュ・エアウエイズ(英国航空)の便が飛ばなくなり、チケット払い戻しの連絡が来たのが震災後。スイス・エアーのチケットを買い直したのが数日前。それなのにマドリッドの空港でその便までも飛ばないことが判明・・・・。誰も日本に行かないのだろうか・・・・とショックを受ける暇もなく、わーわー文句を言い、別の航空会社のチケットに交換してもらいました。しかし、その時間には間に合わない?!いや、間に合わせる!でないと日本に帰れないよ!!!そして空港内ダッシュ。その飛行機に滑り込みセーフでした。ちなみに飛んでくれた飛行機はルフトハンザ(ドイツ航空)。ありがとうございました。。。。

さて、明後日4/16から4/30まで、東京・中野「スタジオ・アル・ソル」にて、「第7回少人数制クルシージョを開講」します。お申し込みは3月上旬から始まっており、震災後受講キャンセルされた方は3名。お1人は地方の方で、ご家族から東京行きを反対された、とのこと。もうお2人は東京の方で、震災後予定が変わってしまったため、とのことです。現在お申し込みは38名。そのうち14名の方が震災後にお申し込みをされています。

こんな時だからこそフラメンコを必要としているのかもしれません。私たち自身が。

また、今回生徒の皆様から頂く受講料を、東日本大震災義援金として、日本赤十字社に送らせて頂きます。(送金結果はクルシージョ終了後私のHP上で公表させて頂きます。)私たち一人ひとりのこのエネルギーが日本のために少しでも役立つことを願っています。

2011年4月14日  湘南台にて。

Apr 11
¨SOMOS JAPON¨ 21 エル・トロンボ
La Yunko | Somos Japon | 04 11th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はエル・トロンボへのインタビュー&彼からのメッセージです。このインタビューの趣旨と質問内容を話すとトロンボは「その質問に対する答えを持っているアーティストとそうでないアーティストがいると思う。とても重要な質問だね。私はそれに答えられるし、語らなくてはいけない使命を持っていると思う。」と前置きをし、インタビューが始まりました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第21回 エル・トロンボ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私の足は生まれた時から奇形だった。両足のつま先が完全に内側を向いていたんだ。子供の頃、周りの人間は私を見る時、私の目を見ずにまず足を見たんだ。その時初めて自分の足に問題があると気づいたんだよ。だって母はいつも私の目を見て話してくれていたから・・・。サッカーをする時に、誰を自分のチームに入れるかじゃんけんをして決めるんだ。でも私はいつも最後に残された。誰も私をチームに入れたがらなかった。だから子供のころからいつも自分は疎外されている、と感じていた。人より劣っているというコンプレックスをうえつけられた。それが自分の人格形成に影響を及ぼしたんだ。

4〜5才の頃だと思う。ラジオから流れていた音楽を聞いていた私は両腕を上げたらしい。その時母は「オレ!」と私に言った。自分の子供が初めて自分を表現をしたと。ラジオから流れている音楽がなんだったか分からない。でも今のようにポップスとか外国の影響を受けたフュージョン音楽ではない。スペインの、アンダルシアの文化のかおりのする音楽だったはずだよ。

そして母は私を地元の踊りの教室に連れて行った。フラメンコではなくて、セビジャーナスを地元の人に教えるような教室。先生はロサという名だった。その先生に「この子にはアルテ(萩原註:芸術性)がある。私には教えきれない」と言われ、別の教室で習うように勧められた。フェリア通りにあるペペ・リオスの学校。そこで私はフラメンコを習い始めた。セビジャーナスを踊る分には普通の靴でも問題ない。でもフラメンコを踊るためにはボタ(萩原註:男性がフラメンコを踊る時に履く靴。丈はくるぶしくらいまである。)を履かないとだめだ。当時私はひざから靴までギプスのような金具を両足につけていたから、そのボタを履くことができなかった。だから「カルメリージャ」という靴屋で私専用の特注のボタを作ってもらったんだ。そしてペペ・リオスにサパテアードの技術を習った。それを毎日毎日練習することで私の足先の感覚は鍛えられた。そしてそれが私の足のためには結果的によかったんだ。

そうするうちにギプスを取り外せるようになった。それから私はイシドロ・バルガスに習い始めた。未だに左足は少し内側を向いているけれど、この時から本格的に足を動かせるようになった。イシドロからは、アカデミックなフラメンコ舞踊を習ったのではない。フラメンコを踊る上での「鍵」を教えてもらった。どのように観客の前に姿を現すか。どのようにして自分自身を観客に見せるのか。どのようにして観客の前から去っていくのかということ。そして私は「ロス・ガジョス」や「トローチャ」(萩原註:セビージャにある、フラメンコを観せる商業施設。「トローチャ」はなくなってしまったが、「ロス・ガジョス」は現在も営業中。)で踊り始めた。

そしてその「トローチャ」での私の踊りをファルーコが見たんだ。ファルーコは私を弟子にしてくれた。当時ファルーコは彼の娘達を連れてフェスティバルに出演していたけど、そこに私も入れてくれたんだ。

そしてその頃の私の踊りをマリオ・マジャが見て言った。「まだ何かある」。当時私はファルーコの影響を受け、フラメンコの根っこの部分を強く持った踊りをしていた。しかしマリオはそれだけでなく、舞踊としてのフラメンコの可能性を教えてくれた。強い根っこを持ったフラメンコと、舞踊性のバランスを取ることを、ね。そしてフラメンコが世界に通じるものであること、振付の観点から、舞台制作の観点から教えてくれたんだ。自分が踊るだけでなく、舞台を創る側になった時に、また舞踊団を持った時にどのようにするかということ。

当時私は18才だった。80年代。スペインでは独裁政権が終わり、大きな民主化の流れがあった。たくさんのヒッピーがうまれ、なんでもあり、羽目を外せば外す程いいという風潮に染まっていた。そしてその流れの中で若者の多くが麻薬やアルコールに手を出した。それが「自由」だというスローガンがスペインを覆った。たくさんの若者がそれに溺れた。・・・・そしてトロンビートも麻薬に溺れたんだ。(萩原註:トロンボは自分自身のことを自分の愛称、「トロンビート」と呼ぶことがある)

【答え②】あるフェスティバルで踊った時に批評家にこう言われたんだ。「踊りはいい。でもつま先が内側を向いていて美的によくない」その時そのフェスティバルに出演していたフェルナンダ・デ・ウトレーラはこう言った。「私は、自分がソレアを歌う時の顔はとっても不細工だと思っていた。でもみんなに『なんてフラメンコの顔なんだ。フェルナンダは美しい』と言われたのよ。」それを聞いて思ったんだ。フラメンコではきちんと形を整えることも必要だ。でも形が崩れることこそ実はフラメンコなんだ、って。私の足に問題があると思う人、そこにしか目がいかない人は、目に問題がある。物ごとの考え方に問題がある。心に問題がある。私に足の問題があるようにね。

麻薬中毒からどう立ち直ったか。母は私を信じてくれた。助けてくれた。そして神を信じること。子供の頃からマリア像などを拝んだりしていたよ。でもそれは信じていたというより、文化や風習として身につけていただけ。でも聖書を読んで気づいたんだ。教会というのは自分の心の中にある。1年に1週間だけ、セマナ・サンタ(萩原註:復活祭。十字架にかけられて死んだイエス・キリストが復活したことを祝う宗教行事)の時だけ復活を信じるのではない。毎日人は復活できるんだ。自分の人生のでの足や麻薬中毒の問題は、自分が新しく生まれ変わるため、新しい人生のための準備期間だったんだよ。聖書は自分にとって人生の道しるべになった。それまで自分は表面的に生きていたことに気づいた。本当の問題は自分自身の中にあるということに気づいた。聖書を鏡にして自分自身を映し出し、自分の内面性を働かせるようにしたんだ。そうして自分自身を助けることができるから、他人を助けることができるんだ。

そして自分のフラメンコ教室。自分がそうやって学んだことを実践に移す場所がここだった。12年間。たくさんの人の気持ちを知ることができた。そして自分が他人を助けることができた、と知ることによって自分を治癒することができた。そして他人が自分を助けてくれる、ということ。その相互のコミュニケーションが、私をよりよい人間にするのに役立ったいると思う。人とどのように接するか。他人との調和を探すために。

私は刑務所でフラメンコの音楽を教えている。受刑者は自分達が疎外されていると感じている。コンプレックスがあるんだ。昔の私と一緒。だから彼らを助けている。

それから子供達にも教えている。ポリゴノ・スルやサン・フアン・デ・アスナルファラッチェ(萩原註:セビージャ中心から離れた場所にある地区。ジプシーが多く居住する。麻薬や売春などの社会的問題を多く抱える。)に住んでいる子供達だよ。彼らはフラメンコの現在で未来でもあるから。フラメンコの踊りの振付けを教えているのではない。“音楽”の価値を教えているんだ。人間は皆、楽器だから。そこから出発して踊ったり、歌ったり、弾いたりする。人としてどう他人と調和するのか。踊る前に、弾く前に、歌う前に、人は他人との波長を合わせなければならない。人としての波長。そのためには5つの感覚が必要なんだ。

まず「耳」。現代はいろいろな情報が多すぎる。音楽もいろいろなものが混ざって“フシオン”(萩原註:フュージョン音楽。スペイン語ではfusiónと言う。)になっている。フュージョン音楽も素敵だよ。でも基礎がなければ“コンフシオン”(萩原註:スペイン語でconfusiónと言う。混乱、取り違えの意味。)になる。“www.com.fusion” になっちゃうんだよ。(トロンボ笑う。私も笑うが、大きくうなずく。)だから聴くことを学ぶんだ。

そして「目」。人は見ていても表面的にしか見ていない。そして否定的な見方をする。そうではない。その人の中にある最も重要なものを見るんだ。そして「目」は全てを語る。人を見るだけで、相手を抱きしめることもできるし、相手を突き放すこともできる。

「鼻」。音楽は吸って吐くものだから。

「さわること」。強さは必要ないんだ。(トロンボは私の膝をちょんとさわる)敏感さが必要なんだ。

「味」。(トロンボは自分の唇をなめる。)人は「なんだ、味なんてないじゃないか」と言う。「口は乾いている」と。でも私たちの中には大西洋があるんだ。たくさんの水がある。それを動かすんだよ。

そして6つ目のもの。それは「弱さ」だよ。今説明した5つの感覚を研ぎすませ、完全にするには「弱さ」が必要なんだ。自分が元気で強い時にはそれに気づかない。自分にはエネルギーがあると思っているから。でも本当は重要なのは「強さ」ではない。「弱さ」なんだ。その「弱さ」があるから逆に自分を生まれ変わらせ、新しい「強さ」を持って立ち上がることができるんだ。今の日本がこれから立ち上がるようにね。

【答え③】“アーティスト達の家”を作りたい。アーティストというのはいつもあちこちで公演していて、一所に落ち着いていない。いつもスーツケースが広がったままになっている。そんなアーティスト達が集まれる場所を作りたいんだ。そしてそのアーティスト達と他人を助けるためのプロジェクトを組む。その考えや行動を共有する場所を作りたい。子供達をアーティストにするためのプロジェクト。それからフラメンコだけでなく、詩や写真やフラメンコ以外の舞踊や、いろいろな芸術を学ぶためのクラス。それはフラメンコだけでは学べない創造性を育むことができる。芸術性を豊かにするんだ。そして麻薬やアルコール中毒の問題から立ち直ったアーティスト達の妻の会合の場所にもしたい。たくさんのフラメンコアーティストがその問題をかかえている。中毒から立ち直ったアーティストの妻達が、現在問題を抱えるアーティストの妻達を支援できるような場所。クリスティーナ・ヘレン(萩原註:セビージャにある「クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校」のこと。クリスティーナ・ヘレンはアメリカ人。)みたいのではなく、ここのアーティスト達による、アーティスト達のための場所だよ。たくさんの経験をし乗り越えてきたアーティスト達が他の人達を助けるための、ね。

【メッセージ(写真)】9才にして初めて旅立った先が東京・日本でした・・・。そのことを私はずっと覚えているでしょう。あなた達は、フラメンコという呼ばれるこの音楽の、とりわけ優れた子供達であり果実です。あなた達があなた達の両腕を上げることを、私たちは必要としています。トロンビート 日本への神の祝福がありますように。

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2011年4月11日 明日、日本へ発ちます。インタビューは一時休止させて頂きます。 セビージャにて。

Apr 10
¨SOMOS JAPON¨ ⑳ ナタリア・マリン
La Yunko | Somos Japon | 04 10th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はナタリア・マリンへのインタビュー&彼女からのメッセージです。ナタリアは、3月30日セビージャ・アラメダ劇場にて行われたチャリティー公演に出演してくれました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第20回 ナタリア・マリン

(フラメンコ歌い手)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私は18才で娘を産み、その子が1才の時に未亡人になった。

【答え②】「何か」。なんと呼べばよいのか分からない。天使?自分の周りにある「何か」が私を助けてくれた。

愛さえあれば簡単なの。たくさんの愛。でもその愛は自分に対してではないの。他人に対する愛。私にとっては娘に対する愛だった。努力するのは大変よ。でも道を歩くのは簡単なの。愛さえあれば。ここからバルケータ(萩原註:セビージャにある橋)まで犬を散歩させるとするでしょう。道は同じ。石ころがあるかしれないし、でこぼこしているかもしれない。でもただ散歩させるのと、道にソーセージを置いて散歩させるのとでは全然違う。ただ散歩させるのは苦労する。でもソーセージという目標があれば犬は簡単に散歩する。私にとっても同じなの。犬にとってのソーセージが、私にとって娘だった。娘の成長を見るのが私にとっての何よりの幸せだった。充足感を感じていた。それが愛なのよ。

そして努力した。娘を養うために、階段掃除もした。ウエイトレスとしても、店員としても、事務員としても働いた。どんな仕事でもした。でも歌を仕事にすることはできなかった。娘を預けられなかったから。娘が10才になるまで私は歌えなかった。歌への情熱は持っていた。でも10年間歌えなかった。

娘に与えられた時もあったし、ちょっとしか与えられなかった時もあった。それは仕方がない。でもそれは結果的に子供をちゃんとした人間に成長させる。なんでもかんでもいつでも好きなだけ与えられる子供よりも。なぜなら私の娘はものの価値を知る事ができたからよ。私は自分が働いてきたこと、娘を育ててきたことに満足しているの。

そしてもちろん家族の協力も。私の父は私をとても助けてくれた。一人では生きてこれなかった。

今、日本でもたくさんの人が(フラメンコの歌を)歌うわね。みんな一生懸命努力して歌っている。それは素晴らしいこと。でも勉強して学んだ歌を歌うのと、苦しみを持って歌うのとは違う。闘わなくてはいけないの。何かのために。私は娘のために闘った。

【答え③】私は一日一日を生きている。今日やることは今日のうちにやってしまうの。明日私は何をするのかしら?多分母の散歩を手伝うと思うけど。仕事の日だけはちゃんと知っているし準備するけどね。食べていかなくてはならないから。8月に“ヒビヤ”に行くと思う。(萩原註:「日比谷野外大音楽堂」で行われる、小松原庸子スペイン舞踊団の公演)節電のために16:00開演と聞いたわ。“ミンオン”(萩原註:「民音」)のツアーにも参加する。今年の夏は、特に心のこもった公演になるはずよ。ベルランガ(フアン・カルロス・ベルランガ。ナタリアと同様、小松原庸子スペイン舞踊団で働くギタリスト)と話しているの。ツアーのうち数公演をチャリティー出演という形にしてもいいって。9月には“マルワ”(萩原註:スペイン舞踊振興マルワ財団)のフェスティバルにも出演するわ。

でもプロジェクト?そんなものはないわよ。人生は一瞬のうちになくなるものだから、今を楽しむのよ。自分の周りの家族や友達とね。

フラメンコというのは、その瞬間瞬間で生み出されるものなの。その時のギターの音がカンテを呼び起こし、そして踊りを引き出す。その瞬間のエネルギーからもたらされたものがフラメンコなの。自分の周りの状況、他人との関係によって感情はかわる。自分の身体も感じ方も考え方もその時によって違う。いろいろな要素によって自分が変わって、それがフラメンコにも現れる。あらかじめこう歌う、踊る、弾くと決めてその通りにするものではないの。生き方も一緒。特にアーティストというものはそういうものだと私は思っている。心に従うことが、生きていく上での一番の道しるべなのよ。

【メッセージ】私は日本でたくさんの事を学んだの。ヨウコ(萩原註:小松原庸子氏)のスタジオでね。そしてたくさんの一流のアーティスト達と知り合うことができた。ローラ・グレコ、クリージョ・デ・ボルムホス、マリベル・ガジャルド、マルコ・バルガス、フアン・ホセ・アマドール、ハビエル・バロン、フアン・オガジャ、マリア・アンヘレス・ガバルドン、デブラ、アントニオ・ガメス。スペインではそんな機会がなかった。日本は私を豊かにしてくれたの。アーティストとしての質を高めてくれたの。だからとても感謝している。

そしてそれだけではない。泣いて笑って怒って。文化を学んだわ。日本人の生き方。スペインとは全く違う。日本には寛容さがある。物ごとを、それはそういうものだと受け入れる寛容さ。信じられないくらいに。スペイン人がうらやむくらいに。そして信じられないことはまだある。自転車を鍵もチェーンもかけないでそこに置いておくでしょう。30分買い物して帰ってきてもまだそこにある。私の友達が電車の中で忘れ物をしたの。そしたら忘れ物はホテルまで届けられた。空港でスーツケースが壊れたら、お金が支払われる、修理される。店のレジで待っていても、0.2秒で店員が来る。スペインの救急病院では急患でも2時間以上待たされるというのに。日本で賞味期限の過ぎたヨーグルトなんて売っていないし、腐った果物なんて見たことない。本当に日本は信じられない国なのよ。(萩原、全くもって同感。)

私は日本で働くことによって、たくさんのことを学び、視野を広めることができた。それによって、何が本当に大切なのか学ぶことができたの。同じところにずっと住んでいたらそれはできなかったと思う。だから日本に感謝している。私は“ハポニョーラ”。(萩原註:ハポネサ(日本人女性)とエスパニョーラ(スペイン人女性)を組み合わせた造語。)

そしてここで私は「ナタリアは日本で働く歌い手」と認識されている。もちろんスペインでも仕事しているけど。だから日本に何か起こった時に知らんふりすることはできない。私は今まで日本のために歌ってきたんだもの。知らんふりたら、「じゃあ、お前はなんなんだ」という話しになる。自分はだませる。他人もだませる。でも神様をだますことはできない。飼い犬のフンを「どうせ誰かが始末してくれるだろう」と思って見て見ぬ振りするのはスペイン人。でも私はハポニョーラなの。だから日本を助けて当たり前。誰かがやってくれるだろう、じゃなくて自分がやるのよ。

30日の公演でも私は日本のために、“私の”日本のために、自分の全てを出したの。アーティストがたくさんいると自分を一番目立たせようとする人もいるのよ。でも私にはそんなこと関係ないの。18才で娘を産み、歌い手としてスタートしたのは29才の時。10才の子供を持つ母だったの。私はすでに大人の女性だった。だからアーティスト同士の嫉妬や競争でいがみ合う世界には属していなかったの。あの日は男の歌い手が多くて、私は自分の音域で歌うことができなかったし、カルメン(・レデスマ)が私を舞台中央に引っ張りだしたから、マイクなしで歌った。でも重要なことは誰かより上手に歌うとか、どれだけ有名な踊り手に歌うかとか、そういうことではない。私は日本のために全身全霊を込めて歌った。

今年中に数回日本に行くでしょう。

【写真のメッセージ】私の全ての愛情と全ての尊敬の念を持って私は日本を信じています。私は自分がハポニョーラであることに誇りを持っています。 ナティちゃん(萩原註:ナティはナタリアの愛称)

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30日の公演でナタリアはカルメン・レデスマにブレリアを歌いました。インタビューでナタリアが話したように、彼女はカルメンに連れられて舞台中央へ。マイクなしで歌ったナタリアの歌声は私がいた2階楽屋までは聞こえなかったけど、その時カルメンとの間に生み出された濃密な真実の瞬間。そのフラメンコの瞬間が私の涙と「ole」を引き出していました。二人の魂はきっと日本に届いたことと思います。ありがとう。

2011年4月10日 セビージャ、ナタリア自宅にて。

Apr 9
¨SOMOS JAPON¨ ⑲ イサベル・ロペス
La Yunko | Somos Japon | 04 9th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はイサベル・ロペスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。セビージャのタブラオ「アウディトリオ・キンテーロ」出演中のイサベル。本番前の楽屋にお邪魔しました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第19回 イサベル・ロペス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】日本で起こっているようなことは、今まで私の人生では起こっていないの。幸い私の家族は生きているし、私も病気をしたことがない。つらい事を語りたくないのではなく、自分の人生には起きていないから語れないのよ。

【答え②】もし自分に何か起こったと想像するなら・・・・前を見ること。それ以外にないと思うわ。あとはもっとひどい状況も起こりえたはずだ、とあえて想像してみる。ただし、今の日本の状況は本当にひどい状況だから、それよりもひどいというのは想像できない・・・日本のケースには当てはまらないわね・・・・

でもあなた達の国にはすばらしい教育がある。私はこれまでに6ヶ月契約で3度日本に行ったのよ。それ以外にも何度も。だからあなた達がどんな人間なのかよく知っている。もし他の国で起こったのなら、状況はもっとひどかったに違いない。盗みや暴力がないのは、あなた達が日本人で素晴らしい教育を持っているからなのよ。

【答え③】踊り続けること。この年でまだ踊っているというのは難しいと思うのよ。時代も変わっているし。でもほら、私はまだ踊っているわよ。(笑うイサベル)

日本にも行く。メグミ・タキザワとのプロジェクトがあるの。去年それがあるはずだったのだけど延期になってしまった。そして震災もあって・・・いつの日か分からない。でも私は待っているわ。

【メッセージ(写真)】それが起きた後でも日本は地に足をつけている。自分達のアイデンティティーを失うことなく。そして毎日の仕事が役に立っているということと、彼らの根気というものに私たちが気づかされる時でもあります。そしてそれを持っているあなた達を(私たちは)うらやむべきです。乗り越える事ができるかどうか、あなた達がどういう人間なのかを世界に示すための試練。あたかもまるで何事もなかったかのように、もうすぐあなた達に会えるでしょう。 あなた達の心の中に。 イサベル・ロペス

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東京のタブラオで彼女の踊りを見てから、かれこれ15年程経つのでしょうか・・・あの時、「いつの日かぜったいにセビージャに行く!」と密かに決心していた自分を懐かしく思い出しました。

2011年4月9日  その、セビージャにて。

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