Mar 30

スクリーンショット 2016-01-23 10.38.29スクリーンショット 2016-03-15 12.43.20スクリーンショット 2016-02-15 16.32.19スクリーンショット 2016-02-07 12.12.03みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

今回の帰国期間の約半分が過ぎました。
お陰様で今回もたくさんの生徒さんにクルシージョをお申し込み頂き、これまで以上のコマ数のクラスや個人レッスンを行っています。
「大変ですね」とよく言われるのですが、そうかなあ?これは私の仕事だし、しかも私の方こそ教わることが多く、ハッと気付かされたり感動する毎日です。本当に有り難いことです。

東京でのクルシージョは4/10(日)まで、福岡は4/8(金)、大阪は4/9(土)、つくば国際美学院さんは4/3(日)になります。(詳細はファイルをクリックしてご確認下さい。)

ちなみに3/31現在の空き状況は以下の通りです。

「第18回少人数制クルシージョ」満席のためキャンセル待ちをお願いするクラス

  • 4/2(土) 16:15〜 バタ・デ・コーラ・テクニカ基礎5
  • ※「バタなし」受講は受付可。
  • 4/2(土) 18:40〜 バタ・デ・コーラ・アレグリアス振付5
  • 4/4(月) 19:45〜 今、見直すべきテクニカ5★お申し込み先★ layunko@gmail.com(ハギワラ)

4/8(金)開講「第9回福岡クルシージョ」空き状況

  • コンパス重視のタンゴ    13:30〜14:45 空きあり
  • サパテアード原点(タンゴ) 14:50〜16:05 空き6名
  • コンパス重視のタンゴ    19:00〜20:15 空き3名
  • 使ってこそ身体(タンゴ)  20:30〜21:45 空き3名

★お申し込み先★ fukuokacursillo@gmail.com (ウラベ)まで。

4/9(土)開講「第9回大阪クルシージョ」お申し込み状況

  • サパテアード原点(タンゴ)12:30〜13:45 満席のためキャンセル待ち
  • 使ってこそ身体(タンゴ) 13:50〜15:05 満席のためキャンセル待ち
  • マントン・テクニカ基礎  15:25〜16:40 満席のためキャンセル待ち
  • バタ・デ・コーラ・テクニカ基礎 16:45〜18:00 空き2名
★お申し込み先★ osakacursillo@gmail.com

4/3(日)開講「つくば国際美学院さん主催クルシージョ」

  • 10:00〜11:15 バタ・デ・コーラ・アレグリアス振付
  • 11:20〜12:35 テクニカ&コンパス

 

空き状況は casatakenoko@mail2.accsnet.ne.jp(つくばCASA TAKENOKOさん)まで直接お問い合わせ下さい。

空きのあるクラスもいくつかございますが、今後直前のお申し込みが増え満席になる場合もございます。受講ご希望の場合は各クルシージョ上記メールアドレスまでお早めにお申し込み下さいませ。

クルシージョ詳細・今後の空き状況は こちら でもご確認頂けます。

WEB用4/6アルハムブラなお、4/6(水)アルハムブラさんでのライブも1・2部共に完売御礼です。お申し込み下さいました皆様、ありがとうございました!

残りの期間も体調に気をつけて頑張りたいと思います!

ではまたお会いしましょう。

2016年3月31日

Mar 15

スクリーンショット 2016-01-23 10.38.29スクリーンショット 2016-03-15 12.43.20スクリーンショット 2016-02-15 16.32.19スクリーンショット 2016-02-07 12.12.03みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか?

お陰様で無事、昨日日本に着きました。今のところ時差ぼけもなく元気に過ごしております。

今回の滞在は4/11(月)まで。期間中のクルシージョ、ライブ情報は以下になります。

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★第18回少人数制クルシージョ★ 3/16(水)〜4/10(日)
★第9回福岡クルシージョ★ 4/8(金)
★第9回大阪クルシージョ★ 4/9(土)
★国際美学院さん主催クルシージョ★ 3/21(月祝)、27(日)、4/3(日)

上記クルシージョ詳細、クラス空き状況は→http://www.layunko-flamenco.com/JA/cursillos/ でご確認下さい。

WEB用4/6アルハムブラなお、4/6(水)西日暮里アルハムブラさんでのライブはお陰様で1部・2部共に完売となっております。誠にありがとうございました!

では約1ヶ月間の滞在になります。体調に気をつけてがんばりたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します!

2016年3月15日 日本にて。

Mar 13

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

明日セビージャを発ちます。日本に着くのは月曜になります。ヘレスからセビージャに戻ってきて、バタバタと帰国の準備をしたりなんやかんやと忙しい日々でした。我が家では、旅立つ者が家の掃除をし、料理を作りだめしておくという暗黙の了解(?)があり、実は荷造りよりもそっちの方が大変だったりします。(笑)とはいえ、残された者が掃除をして料理をし、帰ってくる者を待つという暗黙の了解もあるため、結局は同じなのですが。というわけで、今日は料理と掃除に明け暮れやっと今落ち着いた所です。

3月11日が過ぎました。いろいろ考えているうちに今日になってしまいました。5年前のあの日、私はヘレスにいました。あの時一緒にハビエル・ラトーレのクラスを受講していた日本人のある方が仙台出身でした。彼女がヘレスにいることで、お子さんはご実家のお母様の所にいたようで、無事だったそうです。でも家が・・・と彼女は話していました。あれから5年経って、彼女とばったりまたヘレスで会いました。「大丈夫?」と聞いたらお祖母様のお話を声を詰まらせてされていました・・・。

あっという間に5年経ってしまったように思えるけど、長い長い5年だった方がまだたくさんいらっしゃるのでしょう。そしてそれがもっと続くのかもしれません・・・。

震災後、セビージャのチャリティー公演で踊ったソレアがあります。→ https://www.youtube.com/watch?v=aPovUSqmSZI

私は踊ることしかできないけど、誰かの心に何かを届けられる踊りがしたい。そうでなかったら自分が踊っている意味がありません。

本当につらくて苦しいことは、誰にも話せないし、ましてやブログにもFacebookにも書けません。

でも踊りという手段がある。そして、それを感じるという手段もあるのではないかと思うのです。

2016年3月13日 セビージャにて。

Mar 9

みなさんこんにちは。

毎日ブログを更新していると、やっぱり私は書く事が好きなんだなと思う。文章を書く(ブログの場合、正確には「打つ」のかもしれないけど)ことで初めて物事を整理して考えることができる。そして自分が何を感じたのか理解することができる。それをなしにしても公演を楽しむことができるのだけど、やはり後から書くという行為を伴う経験は何かが違う。不思議な事実だ。

  • 3月2日(火)21:00開演 Shoji Kojima 小島章司先生(会場:ビジャマルタ劇場)

9dbe741559この公演タイトル「A este chino no le canto」を目にした時、本当にぎゃふんとしてしまった。直訳すると「この中国人には歌わない」。ただしここで言う中国人というのは、多くのスペイン人からすると東洋人の総称。つまり、中国だろうが日本だろうが韓国だろうが、彼らからすれば全部ひっくるめて中国人。そしてこの言葉が東洋人一般に使われる場合、差別的なニュアンスをも含むこともある。スペインに住んだ経験のない方にはピンと来ないと思うが、ここスペインでは、少なくともアンダルシアでは東洋人に対する差別というのが確実にある。アンダルシア人全員が差別主義者と言っているのではない。差別主義者ではないアンダルシア人だってもちろんいる。しかし、ある、差別は確実に。

2002年に渡西した当初、毎日のように私は道端で「china!」(チナ!)とバカにされた。野菜を投げつけられたこともある。見ず知らずの人達に。「チナ」というのは中国人女性のこと。つまり最初に説明したように、状況やその言葉のニュアンスによっては東洋人女性に対する差別用語にもなる。なぜ東洋人であることでバカにされなければならないのか?ただ道を歩いているだけなのに?私が一体何をしたというのか・・・? それまでの27年間、日本人として日本で育ち自分が差別されるなんてこれっぽちも想像したことすらなかった私は、留学当初、毎日怒り、悲しみ、憤り、家に帰って泣いた。なぜなら言われた時には何も言い返すことができなかったからだ。大体バカにされる時は、その相手は複数の男達だ。(彼らは一人では言わない、複数でないと言えない卑怯者なのだ)彼らに対して女一人で何ができる?そこで何か言い返して、もし彼らがナイフでも持っていたら?もし彼らに暴行されたりしたら?・・・私は一巻の終わりだ。だから毎日毎日我慢して家で泣いた。でも、セビージャでフラメンコ留学をするということは、その差別から逃れなれないことを悟ってから私は何があろうと外に出た。毎日毎日が弱い自分との闘いだった。泣いても、涙をふいた後にはさらに強くなっていった。そうしなければここで生きてゆくことができなかったから・・・。

あれからもう14年程経つ。セビージャの状況も随分変わってきた。昔のように道端でバカにされることも物を投げられることもほとんどなくなった。むしろ日本が好きだというアンダルシア人に出会うことも多い。しかし、フラメンコの世界ではまだ東洋人に対する差別がある。日本人がフラメンコの“顧客”でいるうちは差別を感じることはないだろう。特にここ数年のスペイン国内の不況で、フラメンコアーティスト達は日本を含む他の国の“顧客”の存在なしには生きてゆけない。当然その“顧客”に対する追従というものも存在する。でもその世界の中で彼らと同じ土俵に立つ場合、(同じ土俵に立たせてさえもらえない時の方が多い)そこには厳然たるものが存在する。それがここ数年私が感じていること。でも家に帰って泣いたりはしない。差別があったとしてもそれをはねのける実力をつけること、誰がどう思おうとも自分自身の頭の中で自分に対する差別意識を持たないようにすること、自分自身の可能性を自分で限定しないこと、その闘いを、自分自身との闘いを今続けている。そしてそれはここで踊り手として生きる限りずっと続けてゆくだろう。

・・・と、自分の話が長くなってしまったが、現在でさえ、14年前でさえそうなのである。ということは、小島先生が渡西された40年前というのはいかなるものだったのか。それを想像するだけで胸が痛くなる。公演の中で、恐らく小島先生が当時のタブラオに出演されていた設定の場面で、小島先生がソレアを踊り始めようとする時に、歌い手の一人がこの言葉を叫んだのだ。「オレはこの東洋人には歌わない!」「東洋人が踊ってるのなんて見た事ない!」そしてその歌い手を含め、タブラオ出演者の全てのアーティスト達が舞台から去ってしまい、小島先生が舞台に一人残される。ソレアを踊り始めるポーズのまま。その状況でビジャマルタの劇場内でどっと笑い声と拍手がおきた。意表をつく展開に劇場内の空気がゆるんだのだろう。でも私はその瞬間、全く笑えなかった。他の観客が笑っているのは頭では理解できても、私全く笑えなかった。公演タイトルとなったこの言葉は、きっと本当に小島先生が浴びせられた言葉だったのだろう。この苦しみを、悔しさを、やるせなさを、痛みを、怒りを理解できる人があの劇場内に何人いたのだろうか。

誰もいない。なぜならそれは同じ経験をした人間にしか、決して分かり得ないものだからだ。

たくさんの素晴らしいアーティストが出演していた。ミゲル・ポベダ、エバ・ジェルバブエナ、ハビエル・ラトーレ、クリスティアン・ロサーノ、タマラ・ロペス、レベルの高い群舞(小島章司先生の舞踊団の前田可奈子ちゃんもがんばっていた!可奈子ちゃん、おめでとう&お疲れ様でした!)それぞれに素晴らしい瞬間があった。特にエバのソレア。バタ・デ・コーラで始まり、最後のブレリアではマントンも使うソレア。歌い手のホセ・バレンシアが歌うブレリアを踊るエバにはこの世のものとは思えない「何か」、神がかったものが乗り移っていた。そしてその後に登場したハビエル・ラトーレ。エバが支配した空気を、その一振りでまた公演のそれへと難なく戻す。あんなことはハビエル・ラトーレでないとできない。あの場面でハビエル・ラトーレが登場しなければ、あの公演は全てエバに持っていかれて、筋の通らないものになっていたろう。それを全部お見通しの上での演出なんだろう。だからこそ、それでこそ、ハビエル・ラトーレなのだ。すごすぎる。

最後のフィン・デ・フィエスタでエバはソレアと同じバタ・デ・コーラでブレリアを踊る。ソレアの時はクプレ(歌謡曲)のブレリアだったので、その時のブレリアとは全く違う雰囲気。同じブレリアでも同じ衣装でもカンテが変われば全く変わってしまうエバ。観客からの拍手喝采の中、エバは引っ込まずに小島先生を招いた。・・・感動的な瞬間だった。・・・なんと崇高な人なんだろう、エバ・ジェルバブエナという人は。自分に送られた拍手喝采を自分のものにせず、小島先生に花を持たせる。でもそれは花を持たせようと思ったのではなく、エバが小島先生を信頼し敬愛しているからこその行為だったのだろう。エバに招かれた小島先生。幸せそうにブレリアを踊る先生を見て、「この東洋人には歌わない」というタイトルを公演名にした先生の強さ、賢さ、そして長い年月を経ての心の柔らかさに、私は惜しみない拍手を送った。

最後に付記したいことがある。私は“小島先生”とお呼びしているが、先生に師事したことはない。それでも「先生」なんだと思う。なぜなら「先生」とは「先」に「生」きている人のとのことだからだ。この地に「先」に「生」きた人がいたからこそ、私達、そしてこれからの世代の人間が生きてゆける。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157514199

  • 3月3日(水)21:00開演 エステベス/パニョス舞踊団 (会場:ビジャマルタ劇場)

d9bfb9f69b申し訳ない、この公演では寝てしまった・・・・

踊り手としても演出家としても一流のラファエル・エステベス。しかし、開演後よく意味が分からず、しばらくしても意味が分からず、ラファエル・エステベスなら何か面白いことが起きるんじゃないかと、一生懸命目を開けようと頑張ったのだけどその甲斐むなしく・・・ZZZZZ

公演中のかすかな記憶では観客からのヤジが飛び、途中退席する人もちらほらいたみたい。終演後の劇場ロビーでは憮然とした顔をしている人が大勢いたという・・・

うーん・・・・

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157671110

  • 3月4日(木)ソラジャ・クラビホ(会場:ラ・グアリダ・デル・アンヘル)

01guarida04guaridaソラジャの踊りが好きだ。シンプルで率直、フラメンカ。そのソラジャが、レブリーハの奇才ギタリスト、リカルド・モレーノをゲスト・アーティストに迎えソロ公演を行うという。ソラジャのソロ公演、しかもリカルド・モレーノとの組み合わせ、一体何が起きるんだろう!とわくわくして会場に向かう。共演はギタリストにラモン・アマドール(息子の方)、歌い手にルビオ・デ・プルーナ、パルメーロにレブリーハのマヌエル・バレンシア。そして先のリカルド・モレーノ。こちらもシンプルながら強力な共演陣。ソラジャはブレリア、シギリージャ、アレグリアスなどをその共演陣達と繰り広げてゆく。ソラジャの踊りはやはりいつ見てもフラメンコで好きだ。そして現代的な音遣いをするリカルド・モレーノと伝統的なソラジャの動きの掛け合いで出す音遣いも面白くて、思わずoleが出てしまう。そんな掛け合いが続き公演は終了、フィン・デ・フィエスタに突入。そのブレリアはさすがソラジャ。なんてことはない動きとコンパスのブレリア、でもとてつもないフラメンコ。個人的には、共演陣全員とソラジャの、こちらの希望を言えば、ソレアが観たかったなあ。最後にソラジャの威力で全員をがっとまとめてソラジャの世界に引きずり込む、そんながつんとした1曲。例えばソレア。そんな私は欲張りか?(笑)

最後にソラジャが観客に挨拶をする。「私はずっと昔にヘレスから飛び出たけれど、今、またヘレスに戻っている。ここはコンパスの町、ここにあるのはコンパス」そんなような内容のことを話していた。ところで、この公演名は「La Reja 1942」。これはヘレスのバルの名前(ビジャマルタ劇場の近くにある)のことだと思うのだけど、ソラジャの中で何か思い入れのある場所なのかな?自分がヘレスに戻ってきた原点をこのバルに見立てたのかな?劇場公演ではないのでプログラムなどなく、そこをもうちょっと知りたいと思った。公演内での衣装も独特なデザインで、それも公演内容と関係しているのかな?今度ソラジャに会ったら聞いてみようっと。

※アントニオ・ペレス撮影の公演写真がレブリーハのフラメンコHPに掲載されました。以下クリックしてご覧下さい。写真からもソラジャのフラメンコが漂ってくるようです!→http://www.lebrijaflamenca.com/2016/03/espectaculo-la-reja-1942-de-soraya-clavijo-con-rycardo-moreno-de-artista-invitado/

小島章司先生、エステベス/パニョース舞踊団公演写真:フェスティバル・デ・ヘレス公式HPより。Foto Javier Fergo para Festival de Jerez

ソラジャ・クラビホ写真:アントニオ・ペレス

3月8日 セビージャにて。 鑑賞記は次回で終了になります!

Mar 7

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

すでにフェスティバルも終わり、私はセビージャに戻りましたが鑑賞記の続きです。いろいろ思い出すのも楽しいものです♪

  • 2月29日(月)21:00開演 メルセデス・ルイス(会場:ビジャマルタ劇場)

JAVIERFERGO_MERCEDESRUIZ_08_copy人気・実力ともにヘレスの踊り手No.1といっても過言でないメルセデス・ルイス。その彼女がヘレスのフェスティバルでビジャマルタ劇場で自身の公演を引っさげて踊るのだから、これはもう盛り上がらないはずはない。共演アーティストもギターのサンティアゴ・ララ、カンテのヘスス・メンデス、ダビ・パロマール、そしてゲストアーティストにパコ・セペーロ。ヘレスのアーティスト達を中心に豪華共演陣となっている。公演名は「Déjame que te baile」(デハメ・ケ・テ・バイレ)。踊らせてよ、あなたに踊るから、みたいな感じの意味。(上手く訳せないな〜)メルセデス・ルイスのファンだったら、「どうぞ、どうぞ、どんどん踊っちゃって下さい!」と思わず言いたくなるようなタイトル。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157217360

最初の幕開き、メルセデスが舞台中央に一人立ち,照明があたっている。とても素敵。その後の舞台転換でのホリゾント(舞台の背景部分)の使い方もよかった。ホリゾント部分を舞台場面によって大黒幕(ホリゾントにかける幕。その幕を全部かけるとホリゾント部分は真っ黒になる。)で部分的に区切り、幕のない部分に照明をあてる。実はこの方法、日本で開催した私の公演「ハモンは皿にのせるだけでよい」でも使った手法で、大掛かりな舞台装置を必要とせずに場面転換を効果的に行えるので、時々他の舞台でも見かける。劇場公演というのは舞台空間の芸術でもあるので、ただ踊ればいい、歌えばいい、弾けばいいというわけではないと私は思っている。その意味で今回のメルセデスの公演のホリゾントの使い方はなかなかいいなと思った。

フラメンコファンならご存知の通り、メルセデスは全ての技術に長けた踊り手。何をやっても上手い。公演名通り、これでもかこれでもかと次から次へといろいろな曲を踊ってゆく。ただ個人的に気になったのは、踊れば踊るほど、さっき観た前の踊りとかぶる部分が増えてゆく。例えばガロティン(帽子なしでコリンで踊った)とアレグリアスとブレリアと曲種を変えて踊っても、なんだかどれも同じに見えてくる。恐らく彼女の中で気に入っている動き、もしくはやりやすい動きが曲種が変わっても何回も登場するからなのではないか?それをメルセデスの個性ととらえることもできなくはないが、何度も繰り返される動きや仕草を観ていると、もうそれは見ましたが・・・、とつい言いたくなってしまう・・・・何を踊っても上手な分、その部分が私の目には際立ってしまって残念だった。公演名の通り、とにかくメルセデスが一人で踊りきることを目的とするなら、振付をもう少し考える、つまりそれぞれの曲にはその曲のルーツや雰囲気、その曲なりの動きというのがあるのでそこをクローズアップすれば、曲が変わっても同じ様な動きがまた出て来るというのは必要最少限にとどめられるのではないだろうか。この点に関しては私自身がソロ公演を行う時にものすごく注意していることで、だからこそ気になってしまったのかもしれないけど・・・。

個人的に心からのOleが出たのは、ゲストアーティストとして登場したパコ・セペーロのギター。彼のギターを生で聴く事ができて本当に感謝している。歴代の歌い手達の伴奏を担ってきたパコ・セペーロが、バタ・デ・コーラのアレグリアスを踊るメルセデスに伴奏。カンテはカディスの若手実力派カンタオールのダビ・パロマール。パコ・セペーロ伴奏のアレグリアスといえばやはり大御所の歌い手ランカピーノだけど、このダビ・パロマールとの組み合わせも悪くない。なかなかいいぞ。メルセデスの踊りはバタがよくないのか、動かし方に問題があるのか・・・、バタの動きはちょっと?という部分もあったけど、パコ・セペーロのギターを尊重して踊っていた所、そういう振付構成にしている部分はいいなと思った。(そうでなかったらゲストにパコ・セペーロを呼ぶ意味がないか。)それにしてもあのギター。いろいろ音を詰めて弾く必要も、複雑なリズムでソニケーテを繰り出す必要もない。音の1つ1つがフラメンコだから、親指で一音出しただけでフラメンコに染まる。あの大きな舞台空間が。そしてその音と音の「間(ま)」。その間があるからこそさらに染み渡るフラメンコ。その場にいて彼のギターを聴くだけで身体の中にどんどんフラメンコが充満してゆく。だからOleが出るんだよね。Oleっていうのは溜まりにたまったフラメンコの発露だから。

  • 2月29日(月)24:00開演 バルージョ(会場:ラ・グアリダ・デル・アンヘル)

_DSC7560_DSC7673_DSC7518これが観たくて観たくてたまらなかった。バルージョのソロライブ。何年か前に観たセビージャのペーニャ・トーレス・マカレナで観た彼のソロライブの興奮を思い出すといても立ってもいられなくなる。バルージョ。本命はフアン・フェルナンデス・モントージャ。フラメンコ史に偉大な名前を残した踊り手、故ファルーコの孫にあたる。ファルーコの孫といえば現代フラメンコ界で最も有名なのはファルキートだろう。そしてその弟のファルー。つまりバルージョはファルキートのいとこにあたるわけだ。これまでファミリア・ファルーコ(ファルーコ一族)として活動することが多く、そうするとどうしてもファルキートやファルーの影に隠れ気味になってしまっていたバルージョ。しかし、あれは何年前だったか、もう10年くらい前か、ファルキートとファルーと、バルージョがそれぞれソロを踊る公演がセビージャであって、その時に踊ったバルージョのソレアが忘れられない。あれからというもの、私はバルージョ派(そういう派が本当にあるのか分からないが)になっている。もちろんファルキートは素晴らしい。でもそのファルキートさえ持っていないもの、それがバルージョにあるような気がしてならない。思うに、これは本当に私見だけど、故ファルーコの血を一番濃く引いたのがバルージョの母ピラールであり、そしてその子どものバルージョなんではないか。そこには外国人である私にも、さらには一般のスペイン人、アンダルシア人、ヒターノのアーティストにも持ち得ない、ファルーコ一族の一部の人間だけが持ちうる「血」が関与しているとしか思えない。もし「フラメンコ・プーロ(純粋なフラメンコ)」という言葉を真の意味で使うとすればファルーコの血、バルージョの血というところに最終的には行き着くのではないか。

前置きが長くなったけど、その前置きのままのライブ。それ以上の踊りとなった。そして特筆すべきは、ギター伴奏のエル・ペルラ。久しぶりに聴いたペルラのギターに血液が沸点に達する。あの音の立ち方。そこにそう音を入れるか!!!という絶妙なレマーテ。特にブレリア。彼のブレリアを聴いた時の興奮度合いはトマティートのそれに匹敵する。バルージョもペルラのギターを心から感じ、ペルラもバルージョの踊りを引き出し、こんなにギターと踊りが共鳴し合い、高みに昇っていく場を目の当たりにすることはめったにないように思う。バルージョはオープニングに短めのアレグリアス、そしてコルドベス(帽子)を使ったタラント、そして最後にソレア・ポル・ブレリアの計3曲を踊った。本当はバルージョのソレアを観たかったのだけど、ソレア・ポル・ブレリアでブレリアに入ってからのあるレマーテの瞬間、あの一瞬があればそれだけでいい、と今では思う。その瞬間が来ることは分かっていたのだ。でもその瞬間に思わず身体が飛び上がってしまった。Oleだけでは済まされない何かがそこにはあった。飛び上がったのは私だけではない。最前列にいた彼の一族も。だって、そうだろう、あれは座ったままOleなんて言う訳にはいかない瞬間だったもん。

ああああああ、なんという夜だったのだろう。

  • 3月1日(火)21:00開演 ヘスス・カルモナ (会場:ビジャマルタ劇場)

JAVIERFERGO_IMPETUS_08_copy勝手ながら夫と私の間で、このヘスス・カルモナにあだ名をつけている。そのあだ名とは「宇宙人」。ヘスス・カルモナの踊りを観た感想を「あの踊りは地球の人間では絶対にできっこない。違う惑星から来た踊り手なんだよ!!!絶対!!!」と私が言って以来、ヘスス・カルモナは「宇宙人」になってしまった。(笑)・・・にしても、本当にそうなのである。あの完璧な技術を、そしてあり得ないレベルの技術をどうして、自分と同じ種族の人間が持てるのか?いや、自分と比べてはへそで茶をわかしてしまうか。(笑)世の中には同じ種族の人間でも、ものすごい踊り手というのはあまたいる。そんな踊り手達と比べたとしてもヘスス・カルモナは人間とは思えない。そして技術だけでない。フラメンコ性も傑出している。技術オンパレードで、全くフラメンコを感じられない踊り手というのも世の中にはいるが、ヘスス・カルモナは全部完璧。あえて欠点をあげるとすれば、完璧すぎる所か・・・?

これまではヘスス・カルモナといえばその高過ぎる技術とフラメンコ性を駆使した、アレグリアスのイメージが強かった。でも今回のソロで踊ったのは重厚なシギリージャ。歌はフアン・ホセ・アマドール。この人の歌も聴けば聴く程いい。アーティストとしての存在感、伴奏者としてのコンパス、そして年齢とともに厚みと深み、艶を増すカンテ。こんな歌い手のカンテに太刀打ちできるのは、やはりヘスス・カルモナのような大物舞踊家になるのだろう。この二人のシギリージャがあっという間にフラメンコの世界に引きずり込む。そして最後はマチョと呼ばれる盛り上げの歌、もしくは高速弾丸サパテアードで終わらせるのではなく、あえてフアン・ホセ・アマドールのトナーと共に歩いて去ってゆくヘスス・カルモナ。これは彼だからこそなせる業としかいいようがない。拍手が止まらない。

群舞のレベルも高く、特にフェルナンド・ヒメネス(写真左)の舞踊性とマリア・モレーノ(写真右)のフラメンコ性が傑出。照明はたまにタイミングがずれる時があって少し残念だったけれど、紗幕を利用した照明効果が功を奏していた。(ちなみに紗幕とは、薄い幕のことで、その後ろにアーティストが位置し照明を後ろからあてると客席からはその人物が透けて見え、照明を前からあてるとその人物は見えない。)公演内の群舞の量が多過ぎた感もあり、もう少しヘスス・カルモナの踊りをソロで堪能したかったかな・・・とも思ったけど、いい舞台だったと思う。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157356802

メルセデス・ルイス、ヘスス・カルモナ公演写真:フェスティバル・デ・ヘレス公式HPより。Foto Javier Fergo para Festival de Jerez

バルージョ公演写真:アントニオ・ペレス

2016年3月7日 セビージャにて。

Mar 6

みなさんこんにちは。

ヘレス・デ・ラ・フロンテーラで開催のフラメンコ・フェスティバルは昨日終了しました。期間中に観た公演鑑賞記第2弾です。

2月28日(日)、この日はヘレスから電車で1時間程のウトレーラという町でアンへリータ・バルガスのオメナへ公演があり、ヘレスからウトレーラへ移動。アンへリータ・バルガス。フラメンコ界全体が敬意を表する国宝級の踊り手。しかし4年前に脳梗塞で倒れ、右半身麻痺となってしまった・・・。この公演のレポートはまた別の機会にブログにしたいと思います。本当に感動的な公演でした。

  • 2月28日(日)マヌエル・リニャン公演(会場:ビジャマルタ劇場)

0fceb0adbdウトレーラでの公演が意外と早く終わったので、公演後へレスにまた戻る。とはいえ21:00開演には間に合わず、22:30くらいに劇場に着いたかな?公演途中から客席に入れてもらったので、多分公演の最後の方少しだけを見られたかな?マヌエル・リニャンとルシア・ラ・ピニョーラがそれぞれ衣装を変えて同じ踊りを繰り返す場面。その衣装の1つはバタ・デ・コーラ。本来は女性特有の衣装とされている裾の長いフラメンコ舞踊の衣装だけど、マヌエル・リニャンはそのバタをはいて踊る珍しい男性舞踊家。しかもとてつもなく上手い。何年か前のやはりヘレスのフェスティバルで、バタ・デ・コーラとマントンの確かカラコレスを踊り、観客の度肝を抜いた。考えてみれば男性の方がどう考えても筋力があるから、肉体的にはバタを動かしやすいのだろう。動きが女性のそれに比べるとダイナミック。でもルシアも負けず劣らずバタを上手に扱っていた。派手なバタの動きは特にないのだけど、シンプルなバタの動きにそれが現れていた。

そしてゲストアーティストのトロンボも登場。この人は本当に真のアーティストなんだな。舞台の上に立っているだけで何かを発している稀有な人。そしてちょっと踊ればまたすごい。前述のリニャンやルシアのように複雑な技巧を用いたサパテアードはしない。シンプルな昔ながらの音使い、動きも伝統的。でもそれなのに、いや、だからこそトロンボのアーティストとしての光が輝き出す。彼が持っているアルテ、フラメンコ。その大部分は故ファルーコ(現在のファルキートの祖父)から譲り受けたものなのかもしれないが、トロンボそのもののアルテに昇華している。トロンボの出す一音一音に、一振り一振りにオレーが出てしまう。とはいえ、劇場内でオレを連発しているのは私くらいか?(笑)多分他にもいるはずだが、少数派なんだろう。ビジャマルタ劇場にいる観客の大半は、派手で超絶技巧を駆使した分かりやすい踊りには大歓声を上げるけれど、そうでないフラメンコ(いや、それでこそフラメンコなんだろうけど)には反応が薄いという傾向がある。

最後はリニャンのバタ・デ・コーラとマントンのソレア。もうリニャンといえばバタなんですね。でも私は前述したバタとマントンのカラコレスの方が好きだったなあ。初めて観たから印象が強かったのかなと思うのだけど、そもそもバタとマントンでソレアを踊るというのは難しい。技術的にというよりも、なんというか・・・、例えばカラコレスだと曲が明るくテンポも早い。リニャンのように体育会系でバタを扱う踊り手にはもってこいの曲。とにかくバンバン元気よく動かして、観客をあっと言わせることができるから。明るい曲だから衣装も見栄えがするし(あの時は確か真っ赤なバタだった)。でもソレアとなると曲がゆっくりでシリアスになるため、その“体育会系”バタではない部分でバタを、マントンを、ソレアを魅せなくてはならない。・・・それが難しいんだよね、ソレアを踊ることも、バタやマントンでソレアを踊ることも。でもそれがあるからこそバタ自身にアルテがこもる。だからバタ「も」ソレアを踊る。バタ「で」ソレアを踊るんじゃなくて。私も(と比較するのはおこがましいのだけど)バタでソレアを踊る時があるので、やっぱり難しいんだなあと思いながら観ていたのでした。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157073504

  • 2月28日(日)23:30開演 マカニータ(会場:ラ・グアリダ・デル・アンヘル)

_DSC6314
_DSC6340_DSC6472上記マヌエル・リニャンの公演の後、一緒にヘレス入りしている夫と一緒に夕食。劇場公演は21:00から始まるし、その前はいろいろ予定が入っているので、結局公演後、23:00近くに夕食をとることになってしまう。この日から1週間ピソを借りているので、自炊ができて便利。ホテルだとなかなかそうもいかないですね。が、一度ピソに帰って食事をしてしまうと、また外に出るのが億劫になってしまう。今日はウトレーラにも行ったし、そのまま休もうかなと思っていたのですが、いや、やはりヘレスで歌うマカニータを聴きに行こう!ということで、グアリダへ行く。私達が着いた時にはもうコンサートが始まっていて、終わりの頃だった。でもそれでも行ってよかった。これまでマカニータを聴いていたのは、主にセビージャの劇場で。でも何度聴いても、そんなにみんながいいっていう程マカニータすごいなと思ったことがほとんどなかった。でもこの日は違った。やはり自分の土地で歌うというのは全然違うんだろうなあ。今迄聴いたマカニータと別人のようだった。これが、みんなが言うマカニータか!と。特にソレアがよかったなあ。あのソレアを聴けただけでも大満足。伴奏のギタリスト、マヌエル・バレンシアもよかった。

それにしても、やっぱり観客って重要なんだと思う。フラメンコを観ている側(聴いている側)は、あの公演がよかったとか言うけど、(私もそうだけど・・・)自分の観客としての質を問う事ってほとんどない。観客側に、そのアーティストのアルテを受け止める器があるか、そのアルテを輝かせる引き出しがあるのか?ただチケットを買って席に着いているのではない。有名アーティストの公演に行きました、写真とりました、っていうんじゃあ動物園に行って檻の外から動物を眺めているのと同じ。アーティストは見せ物じゃない。フラメンコはアーティストと観客の相互のエネルギーでその瞬間瞬間に生み出されるもの。だから観客の側にもそのエネルギーを担う何かがなければ、真の意味ではフラメンコは成立しない。私ですらそれを感じるもん。自分がフラメンコを感じる瞬間に、同じ様に感じてオレーが出て来る観客の前で踊るのと、そうでない状況で踊るのと・・・。

もちろんフラメンコの知識も必要かもしれない。歌詞の意味が分からなければ本当の意味ではフラメンコは感じられない。その「雰囲気」は感じることができるけど。だからスペイン語とアンダルシアの文化、ヒターノの文化を知るのも必要。でもそれで頭でっかちになっていて心が閉ざされたら、どんなにフラメンコを知っていようが、自分ではフラメンコを愛していると信じていようが、フラメンコを感じることができない。自分が愛していると信じるフラメンコのみに固執する人、そしてそれ以外のものに関しては観る前から、聴く前から先入観を持っている場合も同じ。だからフラメンコを守ってゆくには、真の意味でのフラメンコ愛好家の存在が必要なんだと思う。その観客の層があることによってアーティストは学び、自分の能力をさらに開花することができる。逆にそうではない観客、つまり表面的なカッコよさや単なる技術の高さにスタンディングオベーションをする観客ばかりだと、アーティストはその観客に感化される、そういう観客が喜ぶフラメンコに迎合するようになる・・・・好むと好まざると。

だから結局、自分はどうなんだ?という話になる。

  • 2月29日(月) ベレン・マジャ(会場:アルカサル)

d79ee50d4dフェスティバル20周年記念にちなんで、ヘレス市内の、劇場以外の20カ所の特設会場で開催されたミニ公演のうちの1つ。アルカサルという歴史的建造物の中で開催された「Romnia」という公演。

ビデオはこちら→https://vimeo.com/157144226

ビデオを先に観ると、なんだこれは?という印象を受けるかもしれない。「Romnia」というのはヒターノ(ジプシー)の言葉で、ヒターノの女性のことを表しているらしい。迫害されてきた長い歴史を持つヒターノ。その中でもヒターナ(ヒターノの女性型)はさらにヒターノの中の男性優位主義の元で二重の苦しみを持ってきた、そして今も持ち、将来も持ち続ける。その苦しみ、悲しみ、でも生きてゆく強さ、その中での喜び、そういったものをベレン・マジャは今回3つの女性像を踊りで表現した。残念ながら私は遅れてきたので、ビデオ内の最初の場面は観ることができなかったのだけど、この公演の趣旨を元に理解する限り、片胸を出しているのは母性の象徴を表しているのかもしれない。

伝統的なフラメンコ、つまり、カンテとギターの生伴奏があって伝統的なフラメンコの曲を踊る形式では全くないため、これはフラメンコじゃないという意見もあるのかもしれない。でも、ベレンがフラメンコのルーツ、そして自分自身のルーツ(ベレンはヒターノの父マリオ・マジャを持つ)に目を向け、そこから自分なりの表現を通して公演につなげていく創造性を持つアーティトであることには間違いない。そういえば、マリオ・マジャも自身のルーツ、ヒターノの迫害の歴史を元に舞台作品「アイ!ホンド」を創っていたっけ。

そして、会場であるアルカサルの空間を十二分に利用していたのも素晴らしい。3つの女性像を表すにあたって、同じアルカサル内でも3カ所に分けて観客も移動させる手法。移動の方法、移動時間等非常にうまく計算されている。そして舞台と客席が一体化されている状況をも利用して、観客を公演の中に巻き込む手法。これも上手い。ベレンのキャラクターとも相まって、そして天候にも恵まれ、観客とベレンが一体になった公演だったと思う。

マヌエル・リニャン、ベレン・マジャ公演写真:フェスティバル・デ・ヘレス公式HPより。Foto Javier Fergo para Festival de Jerez

マカニータ写真:アントニオ・ペレス撮影

2016年3月6日 セビージャにて。(本日へレスより戻りました)

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