Oct 31

DSC_2750 DSC_2777 DSC_2794 DSC_2796 DSC_2870 DSC_2879 DSC_2887 DSC_2892 DSC_2963 DSC_2978 DSC_3039 DSC_3136 DSC_3175みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

お陰様で昨晩のラベリントでのライブは無事終了しました。ありがとうございました!セビージャは日曜に夏時間から冬時間に変わり、一挙に寒くなりました。特に昨晩は本当に寒くて・・・厚手のセーターやコートをひっぱり出し、それでも出かけるのが億劫になるくらい・・・自分が踊るから出かけましたが、もしお客さんだったら外に出ないだろうなあ、しかも22:30開演だし・・・。(笑)そんな中お越し下さいましたお客様、本当にありがとうございます!とても嬉しかったです!

共演のエウヘニオとガジもありがとう!

セビージャでの普段のライブの時には通常、事前の合わせはしないのですが、今回のライブに向けてエウヘニオが新しいファルセータ(ギターのメロディ部分)を作曲しているから本番前に少し合わせよう!と本人に言われました。そんなわけで少し早めに待ち合わせしたのですが、なんだかんだで本人が遅刻。「フラメンコ、あるある①」

結局、作曲中のファルセータはまだ本人の納得がいかないらしく、今までのファルセータを弾くとのこと。なんだ、だったら早く来なくてよかったんじゃん、と内心思ったけど(笑)、まあエウヘニオと仕事するのは久しぶりだし、1曲目に踊るアレグリアスのファルセータを聴かせてもらう。おおおお、やっぱりエウヘニオのギターはいいんだよね、音に惹きこまれる。身体がすっと反応するというか、音に導き出されるというか。合わせようと思わなくてもすっと、さっと溶け込んでしまう。いいねー。

そんなこんなしているうちにガジも到着。あっという間に本番。ガジには何踊るの?と聞かれ「1曲目アレグリアス、2曲目ソレア」と伝えて、構成を言おうとしたら、「じゃ、君についていくから」。とのこと。そうだよね・・・構成を伝えた所でその通りになるわけでなし。これがセビージャのライブの面白い所かな?日本だとタブラオでも事前に必ず構成(踊りの流れ)を説明するし、ギタリストも歌い手もその構成を紙に書いて見ながら弾いたり、歌ったり。間違わないようにという責任感からなんだろうけど、そもそも間違いとはなんぞや?踊り手が考えている(練習してきた)構成というのが絶対正しくて、歌もギターもその通り遂行しなくてはならない、だからその通りにならないとそれは間違い、そういう考え方が根本にあるんだろうなあ。

ちなみに昨晩のアレグリアスは、事前にファルセータの部分だけエウヘニオと決めていたにもかかわらず、全然違うファルセータを弾かれるという・・・・。何のために合わせたんじゃ!やはり事前に合わせてもあまり意味がないということなんですね(笑)「フラメンコ、あるある②」

でもエウヘニオもガジもやはり一流だから、こちらがやろうとすることを、しっかりすくい取ってくれる。ただ弾くのがうまい、歌うのがうまいというだけでなく、こちらの意図と合図を瞬間的な反応でキャッチしてくれる。事前の合わせなしで、その場で急にことが起きたとしても対処可能。もちろん藪から棒に素っ頓狂な事をやっているわけでなく、ちゃんと意味があって、それがわかるようにこちらでやっているという前提があるのだけど。そこがまたセビージャでのライブの面白い所かな。

問題は2部のソレア。エスコビージャ(足を打つ部分)でこちらが考えている音の取り方とは全然違う取り方で弾いてきた・・・がーん。ソレアのエスコビージャはここ10年以上、ほぼ原型を保ったままやっている。どう考えても問題ないのだけど、過去に1度だけギタリストが音が拾えない時があった。しばらくギター無音・・・そしてやっと弾き始めたと思ったら、とんでもないテンポで弾き始めて、あの時は本当に頭真っ白、泣きそうだった。あれはもう10年くらい前。踊り終わった後、すごく落ち込んでいたら、その時にいた歌い手のルビオ・デ・プルーナに「ジュンコ、今の時代、君のようなソレアのエスコビージャをやる人はいない。だからギタリストが拾えなかったんだ。でも絶対に変えるな。それを守るんだ、君のエスコビージャがソレアの伝統だから、誰かがその伝統を守り続けなくてはならない、だから絶対に変えるな」と言われたんだ。それから10年以上バカ正直に私はそのまま続けているわけなのだけど(笑)、あの悪夢がまた起きてしまった・・・昨晩。そういうこともあるんだ、プロでも。なぜなら私たちは人間だから。→「フラメンコ、あるある③」

その後、さすがに頭真っ白にはならなかったけど、一体このソレアはどうなるのー?!という感じで、なんとか収拾をつけるのに四苦八苦。ソレアはどう踊っても私の踊り、萩原といえばソレア、ジュンコといえばソレアなのに、昨晩はあららら・・・。得意な踊りがいつもいいとは限らない。こんな夜もある・・・。→「フラメンコ、あるある④」

なんとか切り抜けて(多分。笑)ソレア終了。フィン・デ・フィエスタはお客さんとして来てくれたAさんとMちゃんに飛び入り参加してもらい、めでたし、めでたし。AさんとMちゃんからは、ソレアがそんなことになっていたとは全然分からなかった!と。ひえー、あれだけ四苦八苦してたのに。(笑)なんとかバレずに済んだのは、この10年間で面の皮が厚くなったからか。(笑)でも、それも重要。舞台の上では何が起きるか分からない。しかし動揺して一番目立つのは、前に立っている踊り手。たとえ踊り手が間違ってなかったとしても。(笑)→「フラメンコ、あるある⑤」

ライブの後は見にきてくれたSちゃんが反省会に付き合ってくれた(ありがとう!)。あれはどのように切り抜ければよかったのかと、いろいろ意見交換をしていると、ああ、ああすればよかった、こうすればよかった、と・・・。さらには、ちょっと待て、そういえばあの部分も、この部分も・・・。と次から次へと反省材料が湧いてくる・・・・。そして改めてガビーン。→「フラメンコ、あるある⑥」

そんなこんなで、いろいろな意味で勉強になったライブだった。

本番では即興ばかりになってしまったけど、実はこのライブに向けて、これまで何万回と踊ってきたアレグリアスとソレアの振付を数年ぶりに見直したのだ、実は。なんというか、自分の中でアレグリアスとソレアがルーティーンのようになってきているような気がしていて、それじゃダメだと。私は常に挑戦し、ぶつかり、脱皮しなくてはならない。その場に留まって淀んではならない。

そうやって準備してきたものが全て昨晩のライブに出たか、というとそうではないのだけど、(本番とは練習の半分くらいの実力しか出ないもの。→「フラメンコ、あるある⑦」)それでも自分なりに準備してきたことは、何らかの形で自分の身体に残っていると思う。そして即興という場において、そこで出てくるものがやはり本当の意味で自分のものだし、そこで出てこないのはやはり付け焼刃か、もしくは不必要なものなのかもしれない。不必要なものは削除して、付け焼刃は、本番何が起ころうとそれがちゃんと「手裏剣」になるように準備しておかないとね。シャシャシャー(→手裏剣の音。笑)

最後に、写真は1部アレグリアスの時のもの。夫、アントニオ・ペレス撮影です。2部のソレアの写真がないのは1部の後の休憩中にアントニオが外で電話をしていたら、ドアを閉められてしまって2部は中に入れなかったとのこと。(笑)いずれにせよ、いつも写真を撮ってくれてありがとう。

というわけでまた明日からがんばろー!

・・・これだからフラメンコはやめられない。(笑)→「フラメンコ、あるある⑧」

2018年10月31日 今日も雨で衣装の洗濯ができない・・・セビージャにて。

Oct 24

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

来週の火曜10/30にセビージャのタブラオ「ラベリント」にて踊ります。

2018.10.30(火)//  Laberinto (ラベリント、Calle Castellar 52, Sevilla ). 22:30開演 、入場料8ユーロ

チケットご予約はこちら→https://www.myplayz.com/experiencias/junko-hagiwara/?fbclid=IwAR3jXPUa2tPU3TylirTv-0nmsWOM2i8VQNpZpGFO90_ESV1Uznl55z56uRg
Cartel Labrinto

Baile Cante Guitarra
  • 萩原淳子
  • ダビ・エル・ガジ
  • エウヘニオ・イグレシアス

ガジとの共演は3月のウトレーラでのタコン・フラメンコ・フェスティバル以来。あの時踊ったアレグリアスは自分ではあまり納得がいかず・・・今回リベンジできるかな?(笑)そのアレグリアスとソレアを踊ります。

エウヘニオとの共演は3年ぶりくらいか???エウヘニオのフラメンコな音が大好き。とても楽しみな共演です!

セビージャにいらっしゃる方、是非いらしてくださいね。

では!

2018年10月23日 セビージャにて。

 

Oct 22

01funi03funi04funi05funi12funi08funi11funiみなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

こちらセビージャはやっと最近秋らしくなってきました。ブログ更新が遅れましたが、先々週の金曜に開催されたペーニャ・トーレス・マカレナでのミゲル・フニの公演写真をアップします。

本当に、本当に素晴らしかったです。舞台に立っただけで観客総立ちの拍手・・・歌も踊りも、ヌディージョ(拳でテーブルを叩きコンパスを刻む)一つの音だけで鳥肌が立ちました。

フラメンコを歌い踊るというよりも、彼そのものがフラメンコであり、フラメンコの歴史そのものでした。「アルテを持っている」という表現がばかばかしく思える程、フニはそれを超越して、彼自身がアルテの権化になっていました。

先月行われていたビエナルの公演とは全く異なるフラメンコ。確かにビエナルの公演も興味深かったけれど、個人的にはペーニャでのフラメンコの方がしっくりくる。しかもミゲル・フニ。1939年生まれと紹介されていたので、来年80歳になられる。ええええええ、ありえない!そんなお年には全く見えない、しかも歌えば歌う程エネルギーに満ち、若返っていくようなそんな感じがしました。

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DSC_6665DSC_6670DSC_6681公演後、ペーニャの中庭に残っていると、しばらくしてからフィエスタが始まりました。公演でパルマを叩いていたルイス・ペーニャやその仲間のヒターノ達、ペーニャ会員のおじさん達数名、フニとフニの奥様、フニのお嬢さん、日本からフニの公演に見にいらしたCさん、そして夫のアントニオと友達のサラと私。サラと私はルイス・ペーニャ達のグループの隣、そして少し外側の輪っかの中。私たちのお向かいにフニが座って下さったので、ちょっと離れていたけど真正面からフニの歌を聴ける。ああ、なんと嬉しい。ペーニャ公演での歌も素晴らしかったけど、やはりフィエスタになるとまた格別の味がしみ出す。サラと目を輝かせて聴いていたら、フニが真正面に座っている私たちに「君たちは踊れるの?」と・・・。すると斜め隣に座っていたルイス・ペーニャが「ジュンコが踊れるよ」と・・・・。

なんということ・・・しかしそこで「いえいえ、私は踊れません」なんでうだうだ言っているとフィエスタに水を差してしまうので、泣きそうになりながら(ホントです)私は立ち上がり踊ることに。

フニの歌で。

ありえない展開・・・。

それが現実に起きてしまった、自分の身に。

もう足がガクガクで、手もガタガタしてました。ただ聴いて、マルカールをしていただけ。気が遠くなりそうと思いながら意識をこっちに持ってこなくてはと気を確かにしていたことくらい・・・、他はあまり覚えていません。踊り終わって自分の椅子に座った時も手が震えていました。

こんな踊りで申し訳ないと思ったけど、フニの歌で踊らせて頂けただけで本当に光栄でした。

本当はこれは自分の心の中にしまっておこうと思っていたのですが、アントニオがその時の写真を撮ってくれていました。なので、せっかくだからアップしようと思います。

このフィエスタは夜中12時くらいまで続き、アントニオと私はそこで帰りましたが、フニ達はその後トゥリアーナの方へ繰り出していったそうです。きっとさらに盛り上がったのではないでしょうか。

本当にすごい、フニ。

写真:アントニオ・ペレス

2018年10月22日 セビージャにて

Oct 5

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

ビエナルが終わり、日本からいらした最後の生徒さんの個人レッスンも終了。10月になり、少し落ち着きを取り戻したセビージャではまた新たな毎日が始まっていますが、ビエナル最後の週を思い出してみます。ブログにしておかないと忘れてしまうので・・・

9月24日(月)「Flamencolorquiano」アンダルシア舞踊団(マエストランサ劇場)

BFA-©-Óscar-Romero-·-002BFA-©-Óscar-Romero-·-008BFA-©-Óscar-Romero-·-006前回観た同舞踊団の公演があまりにも暗くつまらなかったので(公演名は忘れた・・・)、今回ビエナルのチケットは購入していませんでしたが、お友達のチケットが余っているとのことで急遽劇場へ。(Iさんありがとう!)

ロルカをテーマにしたこの作品、面白かったです。舞台の使い方、曲構成などはさすが舞踊団だけあって見ごたえがありました。監督のラファエル・エステベスとゲストアーティストのマリア・テレモートの掛け合いのタンゴも面白く、oleの言葉が出る前にゲラゲラ笑ってしまった。うまく表現できませんが、楽しすぎてタガが外れてしまうというか。

ラファエル・エステベスの片腕ナニ・パニョスよりも、舞踊団員のアルベルト・セジェス君の存在感が光る。成長著しい若手舞踊家。数ヶ月前にアルベルト君の踊りをタブラオでみたら、ラファエル・エステベスそっくりに踊っていてそれはどうかと思ったけど(笑)なんでも吸収している時期なんだろうな。今後のさらなる成長が楽しみな一人です。

ビセンテ・ヘロやセバスティアン・クルスの舞踊団専属歌手に加え、今回ピアノの弾き語りをした若手ホセ・ルイス・ペレス・ベラの存在も公演の流れの中でうまく使っていたな。彼の登場のシーンからあえて彼に注目をさせるような演出でうまいなあ。

とにかく舞踊団員の皆さんは踊る踊る、よく踊るなあと感心しましたが、マリア・テレモートが歌いながら途中でちょっとブラッソをあげたりした時に香るフラメンコ。そんなシンプルな動きに心が惹かれる私でもありました。

9月25日(火)マリア・モレーノ「De la Concepción」(セントラル劇場)

María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-014María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-015María-Moreno-©-Óscar-Romero-·-018マリア、素晴らしかった!!!最初の方の演出はプログラム記載の通りのエバ・ジェルバブエナ色が強くって、この公演はどこに行くのだろう・・・とちょっと心配してしまったけど(余計なお世話ですが。笑)ソレアが素晴らしかった。ものすごいフラメンコの塊でした。最後に踊ったバタとマントンのカンティーニャスも良かったです。日本のタブラオでマリアの踊りを見た時は、バタが短めだったせいか動きがうまく生きていなくて残念だなあと思っていたので、大きな舞台でちゃんとした長さのバタの踊りを観ることができて大満足。

彼女の踊り自体が素晴らしいフラメンコなのであまりゴチャゴチャした演出は必要ないような気もしたけど、どうなんだろう?

いずれにせよ、エバの舞踊団員として何年も踊り続け(出始めの頃から彼女は光っていた!)、今回そのエバがこの公演の演出と振付指導をしたようだけど、それでもエバに染まっていない彼女独自の個性が一貫している。それって実はすごく難しいことだと思うんですよね。彼女よりもキャリアのある踊り手で、エバの影響を受けすぎてエバっぽく踊っている踊り手だっている。(でもエバにはなれないのは明白・・・)世の中たくさんの踊り手が素晴らしく踊り、たとえエバっぽくなかったとしても、なんだかみんな似たような踊りだなあ・・・と思ってしまう昨今、マリアの個性は本当に素晴らしいと思う。これから先のマリアも楽しみだ。一体どんな踊り手に成長するのだろう?楽しみ。楽しみ。

9月26日(水)「El Salón de Baile」ラファエラ・カラスコ、ルベン・オルモ、タマラ・ロペス、ダビ・コリア(マエストランサ劇場)

El-salón-de-baile-©-Óscar-Romero-·-001El-salón-de-baile-©-Óscar-Romero-·-011ラファエラ・カラスコ率いる一流舞踊家軍団の公演。ラファエラを始め、ルベン・オルモ、タマラ・ロペス、ダビ・コリアと出演者名を見ただけでひっくり返りそうになる。実際個々の実力はさることながら、群舞として見ても圧巻。プロのレベルというのはこういうものだ、とまざまざと見せつけられました。

でもそんな最高級な公演の中でも私が一番好きだったのは、ハビエル・バロンのソレア。Oleがとまらない。背も低くブラッソ(腕)だって長いわけではない。なのにあのエレガントさ。聞き惚れてしまうサパテアード。その音を入れる絶妙なタイミング。そうだよ、フラメンコはこう踊るものなんだよ、と改めて実感。今の時代なかなかないよね、ああいう踊り。ハビエル・バロン。すごい。さすが。彼の踊りの前には陳腐な言葉しか並べられない。お粗末。

ちなみに、そのハビエル・バロンの写真はビエナル公式HPには掲載されていない。あんなに素晴らしいソレアを記録できていないというのは、痛恨の極みとしか言いようがない・・・。

9月27日(木)「Gitanas」フアナ・アマジャ、フアナ・ラ・デル・ピパ、レメディオス・アマジャ(マエストランサ劇場)

Gitanas-©-Óscar-Romero-·-004Gitanas-©-Óscar-Romero-·-003Gitanas-©-Óscar-Romero-·-001フアナ・アマジャ、フアナ・ラ・デル・ピパ、レメディオス・アマジャと来て公演チケットを買わないフラメンコファンはいないだろう。

皆素晴らしかったけれど、なんと言ってもこの日のフアナ・アマジャのソレア。この人にはやはり大きな舞台が合う。合うと言うよりも、大きな空間が必要な踊り手なのではないか。日本のタブラオでも彼女のソレアを見たけれど、それも素晴らしかったけれど、フアナの持つエネルギーが大きすぎて、深すぎて、タブラオサイズでは収まらない。マエストランサという空間の中で見ることができて、初めて納得できる部分もあった。というより、マエストランサの空間も4人のモンスター達(エンリケ・エストレメーニョ、マヌエル・タニェ、エル・プルガ、エル・ガジ)の歌も全て飲み込み、丸ごとフアナ・アマジャになっていた。

自分の培ってきたものを、自分の道をただひたすら歩き続けてきた真のアーティスト。流行や新しいものを追いかけ、自分を見失ってしまうアーティストが多い中、彼女は彼女であり続けた。彼女はいつでもいつの時代でもフアナ・アマジャであった。唯一無二だった。それが長い年月を経て、さらなるマグマとなり彼女の身体に蓄積されてきたのだろう。それがあの夜爆発した。

彼女の名はそのソレアで、後世フラメンコ史に名を残すことになるだろう。

そして、そのフアナと私たちは同時代に生きている。感謝したい。

9月28日(金)「Sin permiso Canciones para el silencio」アナ・モラレス(ロペ・デ・ベガ劇場)

Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-001Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-003Ana-Morales-©-Óscar-Romero-·-008亡き父に捧げた公演。以前、震災直後にアナ・モラレスにインタビューした際、その父のことについて語ってくれた。そんなことを思い出しながら公演を観る。

当時のアナ・モラレスのインタビューはこちら→http://www.layunko-flamenco.com/JA/2011/03/¨somos-japon¨⑨%E3%80%80ana-morales/

たくさんの観客が劇場を後にして、ほとんど誰もいなくなってから私は一人劇場を後にした。自分の心の中のこの感情をずっと留めていたかった。友達に挨拶すらしたくなかった。唯一会ってしまった知り合いの踊り手は、幸いなことに電話で誰かと話していた。内心ホッとしながらその踊り手に手を振ってすれ違った途端、涙が出てきた。

Trasmitir

トラスミティール。

フラメンコを愛する人なら知っている言葉。直訳すれば「伝達する」ということだけど、そのtrasmitirがあってこそ、それはフラメンコとなりうる。それがなければどんなに素晴らしい技術も振付もメロディーもフラメンコではない。

それそのものだった、あの日のアナ・モラレス。

踊りが上手だとか、プーロだとかモデルノだとかスタイルの問題じゃない。全てをひっくるめ、そして全てを超越した人間が人間に伝えるもの。伝えずにはいられないその内面。それが表に出てしまうこと。表に出すのではなく。

「全ては時間が解決する」と人は言う。

本当だろうか・・・・

誰かを失うこと。例えば人の死。その人が近ければ近い程、その喪失感と残された虚無感は深い。それを解決するのは時間なのだろうか・・・

時間が経たなければならない。時間が経たないうちは何も解決はしない。でも解決するのは時間ではないと私は思う。そして解決することでもない。

アナは父の死から、その想いを彼女のフラメンコを通してアルテに昇華させた。そして同じく喪失感と虚無感を持つ人の感情を揺さぶり、共鳴させたのだ。

人はなぜ踊るのだろうか。

なぜ舞踊家は踊らなくてはならないのか。

その根源的な問題を突きつけられている。

9月29日(月)「Cuentos de Azúcar」エバ・ジェルバブエナ(マエストランサ劇場) 

Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-001Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-002Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-003Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-011Eva-Yerbabuena-©-Óscar-Romero-·-015奄美の島唄歌手、里アンナさんとエバ・ジェルバブエナの共演。2年前のビエナルの時に、エバが里アンナさんのCDをプレゼントされたことがきっかけだったという。日本とアンダルシアの文化の融合、と評されているようだけど・・・なんと表現したらいいのか、この違和感・・・。

※里アンナさんの公式HPはこちら→https://www.annasato-primitive-voice.com

ちなみに、ビエナル公式HPには里さんの写真は掲載されていない。(理解不可能・・・。)

異なる文化を舞台上で融合させるというのが悪いと言っているのではない。今回のこの公演の着眼点や発想はとてもいいと思うし、里アンナさんの歌もエバの踊りも、音楽陣も素晴らしかったと思う。それぞれにそれぞれの良さがあっていい!と思う瞬間が沢山あった。ただ構成の仕方なのか、そのいい!と思う余韻が別の場面に転換することでブツっと切れてしまい、その余韻が増長することが難しかったように思う。なんというか、場面場面、それぞれのアーティスト達の歌や踊りはいいのだけど、それぞれがバラバラに独立しているオムニバスみたいな感じと言ったらいいのか・・・それはそれで面白いけれど、転換やつなぎがもう少しスムーズに流れるといいのだろうか。その辺は演出や照明の使い方の問題になると思うので専門的なことは私には分からないのだけど・・・。

踊りはエバの他にフェルナンド・ヒメネス・トーレス(へレスのフェルナンド・ヒメネスではなく、昨年のウニオンのコンクールで優勝した踊り手の方)がいた。フェルンドくんの実力はコンクールで優勝したという実績だけでなく、長年エバの舞踊団の要として踊っているし、アンダルシア舞踊団やロシオ・モリーナの公演等でも多数活躍していることからもわかるように、そんじょそこらの踊り手ではない。とにかく上手い。舌を巻く。今回もフェルナンドくんは実力をいかんなく発揮し、脱帽。・・・といきたい所なのだが、時々出てきた気になる振付が・・・。どうしても気になるのだ、アンダルシアと日本の融合ということで、髪型や衣装もそれっぽく、というのはまだ分かるのだけど、外国人がそれが日本だと考える、あの特有の仕草とか振付の中に出てくると、それはちょっと違うんだよなーと首をひねってしまう。両手を胸の前で合わせてお辞儀する、あれだ。間違いではないかもしれない、でもそれをあなた達(この場合スペイン人達)がやるのはちょっとおかしいよ。

うまく言えないのだけど、例えば日本で「フラメンコやってます」と言うと、「ああ、あのあれでしょ、バラを加えて手のひらパンパンって叩く踊り?」と言われた時の違和感に近いか?今時そう言われることは少なくなってきてはいるが、以前はそう言われることが結構あった。その度にいや、そうじゃないんだよね、って心の中で思ってしまうあの独特の感覚・・・。

同じく、公演最後のアレグリアスでエバが出てきた時に一瞬目をこすってしまいそうになったのだけど、エバの顔が白塗りされているように見えたのは私だけか???(それとも照明の関係でそう見えたのか・・・?)いずれにせよ、その瞬間、これも日本を知らない外国人がよく考える「日本女性=白塗りの芸者」みたいな図式が頭の中に浮かんできて、またか、とのけぞってしまう。ブレリアに入ったところで、ギターがブレリアのコンパスのまま、里さんがそこに彼女の歌をかけ、それをエバがブレリアとして踊った箇所はすごい!と思った。日本とフラメンコの融合問いう観点でみた時、唯一いいと思った場所だ。

そんな感じでアレグリアスも盛り上がって終わり、公演終了というところで、里さんがお盆に急須とお茶を乗せて袖から出てきたのだ・・・ま、まさか・・・・

そう、そのまさかが起きてしまった・・・

里さんが正座し、向かい合ってエバが正座をする。里さんがお茶を汲みエバにお茶を渡す。エバはお辞儀をしながら里さんと会話して(そんな風な演技)二人でお茶を飲む・・・・。

会場、割れんばかりの拍手・・・

緞帳が降りる・・・

・  ・・いくらなんでもその演出はおかしいだろう、それが日本とアンダルシアの融合という公演の最後を締め括る演出なのか???

陳腐。

あれだけの素晴らしい歌とフラメンコの音楽と踊りと、たとえそれがぶつ切りになっているように見えた部分があったとしても、それぞれは一級品なのだから、そんな子どもでも思いつくようなありきたりの演出で終わらせないでくれ・・・。それもずっと気になっていた、あの、日本を知らない外国人が、これが日本だと思う固定観念に基づいたもの。ステレオタイプ。それがベースにあるということに気づいた時、私の瞼は半開きになり、目の前に「脳内緞帳」がさーっと降りてきた・・・。

こんなことを思っているのは私だけかもしれない。

思えばセビージャに住んで16年、ここで日本人として、そしてフラメンコの踊り手として生きて行く中で、その固定観念やステレオタイプ的な考え方、それを持つ人達と日々闘っている。だからそういうものに私は人一倍敏感なのかもしれない。でもそれがこの公演を見て、正直私が感じたこと。嘘やおべっかは書けないから・・・。

・  ・・と同時に思うこともある。それは私達外国人がフラメンコを踊る時にも同様に起こりうるのではないか。

フラメンコの、アンダルシアの、ヒターノの文化を知らずに、フラメンコの表面的な動きだけで踊る。こういう動きがフラメンコっぽい、とかこういう格好がヒターノっぽいとか、何も知らずに生半可な知識で形だけ真似る。フラメンコを踊るからにはフラメンコが好きなはずだ。嫌いだったら踊ったりしない。でもその大元の文化を深く学ばずに、ただカッコだけで踊るということがどういうことなのか。しかも自分が知らないということすら知らない場合は・・・さらにタチが悪い。

自省する人・・・・?

はい、私です・・・。

写真:Oscar  Romero(ビエナルHPより抜粋)

2018年10月4日 セビージャにて