みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。
こちらセビージャはなんだかまだ暑いです。11月の中旬だというのに太陽ギラギラ、家の中では蚊がぶんぶん。今も一匹殺したところ。文章にするとちょっと怖いですが。
さて、遅くなりましたが先週の「フラメンケリーア」でのタブラオライブはお陰様で無事終了しました。たくさんのお客様にお越し頂き感謝しています。また、ちょうどスペイン旅行中だった私のおじとおばがショーを観に来てくれました。共演のゴリ・マソ、アルバロ・ラミレス、アンヘル・ファリーニャ、皆様誠にありがとうございました!
ライブの前日おじに言われた言葉がとても印象的です。
「淳子ちゃん、あなたね、人種とか民族とか関係ないの。あなたね、人間として踊りなさいよ。分かってるでしょう、だからアントニオはあなたと一緒にいるの。」
この言葉は、セビージャと日本とどちらが住みやすいかと聞かれて、「セビージャの生活の方が好きだけれど、東洋人に対する差別があるから・・・日本にいればそういう差別を受けることはないし・・・」と答えた時におじの口から出たのでした。そうなんです。おじが言う通り分かっています。でもそれを他人から言葉できちんと言われたことは初めてだったように思えます。同じ日本人でも、「セビージャで踊るっていっても日本人として踊ってるからその分楽なんじゃないの?」とか平気で言ってくる人もいます。つまり、日本人ということである程度大目に見てもらえる、もしくは踊りそのものよりも、「日本人が」踊っているということで評価されるんでしょ、ということ。もっと言うとそれを逆手にとって「日本人公演」という看板にしてしまうこともできなくはないのだから。
・・・そんなこと一度も思ったことはありませんが。あ、あるか。震災の後セビージャでのチャリティー公演の際、自分が「日本人」として踊っているという強い強い意識がありました。それぐらいでしょうか。毎回踊る時に「私、日本人なんです」とか思いません。歌とギターを聴いているだけですから、そこに「何ジン」という観点はないのではないでしょうか。そうすると何が自分に残っているかというと、自分という一人の「人間」なのだと思います。その意味でおじの言っていたことはとても正しいのだと思う。
だから「日本人なのに上手い」とか「踊りが日本人っぽくない」とか「顔は日本人だけど踊りはスペイン人」(笑)とか、それはある種の人にとっては褒め言葉なのかもしれませんが、私には違和感でしかありません。もちろん褒められているのであれば、そのお気持ちに対して感謝の気持ちは伝えますが、やっぱりどこかしっくり来ないんだよなあ・・・というのを長年ずっと思っていたのです。どうして誰もそこに気付いてくれないんだろう、と。
その意味でおじの言葉はすとーんと心に落ちました。私にとってとても大切な言葉です。
でも自分が日本人であるということを忘れているわけではありません。なぜならここに住んでいる以上、常に意識させられるから。東洋人に対する目。日常生活の中で、それからフラメンコの仕事の面でもそれは確実にあります。そして、たまにいらっしゃいますけど、自分が日本人であることを否定する人。もしくは卑下する人。そのベクトルが自分自身にだけに向けられている人もいれば、他の日本人にまで向けられる場合もある。そうなると日本人による日本人差別が生まれてしまう。スペイン人が(もしくはヒターノが)絶対正しくて日本人が日本人であるが故に間違っているとか劣っていると思い込み、自分も日本人であることを棚に上げて、他の日本人を批判したり見下したりする人。これも違うと私は思う。私の両親は日本人で、私は日本に生まれ日本の文化の中で日本人として育った。そのどこに問題があるんだ?否定しようが卑下しようが、自分が日本人であることには変わりがない。それを認めないっていうのは自分で自分のルーツを認めいてないということ。ルーツというのは日本語にすれば「根っこ」でしょ?名もない雑草にだって根はあるのにね。
それでも、それらのことを全部ひっくるめても、フラメンコの前では私はただの「人間」なんだと思う。
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何年か前にセビージャのとあるタブラオのオーナーに言われたことがあります。
「君は本当に踊りが上手いよ。でも君には問題がある。君は日本人なんだよ。」
はあああああ?????
しかし即答してしまいました。
「失礼ながらお言葉を返すようですが、私が日本人であることには何の問題もありません。もしそれを問題とするなら、問題は日本人である私にあるのではなく、それを問題だと思う考え方に問題があるのではないでしょうか?」
・・・だってそうじゃん、と今でもやっぱり思うのです。
公演写真:アントニオ・ペレス
2015年11月13日 セビージャにて。