Aug 28

]みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか?

先週土曜に出演したロンダでのフェスティバルから、もう1週間経ってしまいます。今日ロンダの新聞に私の踊りの批評が出るそうです。フェスティバル当日に取材に来た新聞記者が、その記事を送ってくれると言ってましたが・・・・あんまりあてにせずに待とうと思います。もし届いたらブログにアップしますね!

前回のブログの続きは以下です。(写真:アントニオ・ペレス)

フェスティバルの後、なんだか自分の踊りをできなかったような気がして、すごくすごく落ち込んでいました。あんなに練習したのにな。コンクールで優勝して、せっかくフェスティバルに出るチャンスをつかんだのにな。どうすればよかったんだろう・・・って。もちろん毎回毎回自分の思うように踊れるとは限らない。それは自分だけの問題ではなく、様々な要因が絡んで来ることもある。ロンダの人達からものすごい拍手を頂いたらしいけど(セビージャから観に来てくれたお友達が教えてくれた)、でも自分の心の中では、自分で自分に拍手を送れずにいました。

ホテルに着いてからもずっと考えていたからか、次の日の朝はものすごい頭痛で目が覚めました。チェックアウトの時間もとっくに過ぎていたし、どうせ今日は疲れているからゆっくり休んで、もう一泊しよう。せっかくロンダにいるのだから。なんたって、あのミッシェル・オバマが訪れた街ですからね。

ズキズキする頭をかかえながらとりあえず外に出て朝食。(すでに昼食の時間だったが)食べるとすぐに眠くなる私。ありえないけど、カフェテリアで寝てしまった。ホテルに帰ってまた寝るか、と思ったけどせっかくだから展望台まで行く。

ロンダは崖の上にある街。旧市街と新市街を結ぶヌエボ橋から下を眺めると本当に断崖絶壁。そしてアンダルシア独特の広大なオリーブ畑が広がっている。ロンダの山々も。ぼ〜っと眺めていたら、なぜか涙がぽろぽろこぼれてきた。ひよこ豆のような涙が。今私の目の前に広がっているものに比べたら私はなんて小さいんだろう。

そして思った。私は小さな種だ。外来の、日本からやってきた種。その小さな種は意思を持って大地に落ちた。雨や風や強烈な太陽にさらされ、時には踏まれたり上から石を乗せられたり・・・・それでも9年かけてやっと根っこがはえ、ちょっぴり芽が出て来た。そしてその芽を育たせるために、根っこがアンダルシアの大地の栄養分を吸収しているのだ。

でもその種はちょっと芽が出たら、もう花が咲くものだと思っている。コンクールで優勝したから、もうおいしい実がたわわになると思っている。まだ芽が地上から顔を出しただけなのに。この広大な大地に何十年、何百年と生えているオリーブの木。何百万年と存在する岩。それが「フラメンコ」なんだよ。小さな種が「踊れた」「踊れない」って騒いで、だからなんなの?ぽろぽろ涙が崖の下に落ちて行く。でも涙はその大地にすら届かない。熱い熱い太陽の熱で蒸発してしまうから。

その時言われた。「泣きたかったら泣いていいよ。でもジュンコが悲しんでいると誰も幸せになれないよ」

小さな種を踏みつぶそうとする人もいる。「すごいね〜がんばってるね〜」と言いながら、実は「芽なんて出るわけないじゃん、日本人なんだから」と陰で笑っている人もいる。でもそんな人達だけではなかったのだ。時々水やりをしてくれた人、石を取り除いてくれていた人、成長をいつも楽しみにしてくれている人達が私にはいたのだ。私が特別な種だったわけではない。たった一人で耐え忍んで芽を出したわけではない。そんな当たり前のことに気づくのに9年もかかったばかな種。そう思ったら涙が止まらなくなってしまった。

ロンダの街にありがとうと言いたい。この風景に出会うために、私はロンダのコンクールで優勝したような気がしてきた。人生に出会うべき人がいるのと同じように、訪れるべくして訪れる場所があると思う。そしてそれは来るべき時に来る。私にとってそれがロンダだったのだろう。

どこにおいしいアイスクリーム屋があるのかよく分からなくて、地元の人に教えてもらった。でもあんまりおいしくなくて、セビージャのRayasのアイスクリームの方が100倍おいしいよ、と思ってしまった。でもロンダは特別だ。街を歩いていたら「昨日踊ったでしょ!」「アンタ、すごいね!」「ただの踊りじゃなかったよ。伝わってきた。これからも踊り続けるんだよ!」と声をかけられた。ここにも種の成長を喜んでくれる人達がいる。

そして海の向こうにも。ロンダの絵はがきを2枚買う。両親と妹に出すんだ。

この種は単なる種ではない。字も書けるしブログまで書いてしまうのである。

2010年8月28日 セビージャにて。

そういえばRayasのアイスが冷凍庫にあったはず。食べちゃおう、夜中だけど。

Aug 24

みなさんこんにちは!いかがお過ごしでしょうか?

私は先週の土曜のロンダ・フェスティバル出演後あちらに2泊し、一昨日セビージャに戻ってきました。

フェスティバル出演に際し、たくさんの方々から応援のメールを頂きました。本当にどうもありがとうございました。みなさまに返信しようとずっと思っていながら、本番前の緊張や不安から、落ち着いて返信することができずにいました。ごめんなさい。フェスティバルが終わり数日経ち、今新たな自分になった気分です。これからお一人ずつきちんと返信させて頂きます。遅くなってごめんなさい。

今回のブログはちょっと長くなると思いますので、まずロンダ・フェスティバル当日の模様をブログにします。また後日、その続きをアップしますね。それでも長いと思いますが・・・お時間とご興味のある方にお読み頂ければ幸いです!(写真:アントニオ・ペレス)

コンクール優勝者として40年以上の歴史を持つフェスティバルで踊ること。外国人初の優勝者として。ずっとその責任というかプレッシャーというか重みというか・・・・そのようなものを背負ってロンダに着きました。出演順は①コンクールギター部門優勝者 ②カンテ部門優勝者 ③ルビート・イホ ④クーロ・ルセーナ ⑤私 ⑥ホセ・メルセーとのことでした。今年のフェスティバルの看板アーティストであるホセ・メルセーがトリを務めるのは当然として、その前が私????フェスティバル関係者の話によると、踊りを見て帰ってしまう人も多いとのこと。だから踊りはできるだけ最後の方に、とのことでした。・・・・ということは・・・・相当待つ。待つ。待つ。待つ。そしていつまで待つのか全く分からない。フェスティバルには時間制限がないし、特に歌い手というのは興に乗ればどんどん歌う。興に乗る前からマイクをつかんで離さない歌い手もいる。待っている方からすれば、これは体力と気力の闘い。

むき出しの土の上に立てられた仮設テントがその日の楽屋。裸電球、鏡、イス、テーブルしかない。水道もなく、もちろんトイレもない。トイレに行くには客席を通り抜けなければならない。床が土なので寝っ転がってストレッチもできないし足慣らしもできない。日本のなんでも揃っている楽屋に慣れているとびっくりしてしまうかもしれない。でもスペインでは(もしくはアンダルシアでは)ではよくある楽屋だ。もっとひどい楽屋に通されたこともあるのでがっかりはしない。もちろん飲み物や食べ物をどっさり御馳走して下さったり、私専用のシャワー室と新品のバスタオルまで用意して下さった所もあったけど。スペイン人アーティストの多くが日本で働きたがるのはお金のためだけではないだろう。予算の問題もあるので一概には言えないけれど、アーティストに対する敬意というものが楽屋にきちんとあらわれている国、それが日本だと思う。

5時間は待ったのだろうか?すぐ横の舞台から大音響のカンテが聞こえて来た。極限の精神状態の中であと何時間待てばいいのだろう。私のギタリストやカンタオール達は「こんなところで何時間もガマンできないよ」とすでにテントから出てしまっている。でも私は残る。出演アーティストが客席近くをうろうろしているのはおかしいでしょ?そして本番では何が起こるか分からない。去年のウブリケ・コンクールの決勝でも本番まで6時間以上待ったけど、なぜか勝手に順番を変えられて、出番がいつの間にか早くなっていたことがあった。もしその場にいなかったら・・・と思いぞっとした。あの時のことを思うと楽屋から離れられない。

舞台の板は「これは紙ヤスリか」と思うほどざらざら。そして板と板の間には段差があって、バタ・デ・コーラ(裾の長いフラメンコ舞踊の衣装)で踊るには致命的。大きな舞台だったけれど、ところどころボコボコ浮いている板があるので場所を選ばないとサパテアードがきちんと打てない。でも文句は言わない。私達が会場に着いた20時頃にはその屋外舞台はすでに完全に設置されてた。つまり逆算すればあのアンダルシアの最も暑い「魔」の時間帯にスタッフは屋外で働いていたことになる。それだけでも頭の下がる思いがするから。

やっと私の出番になった。もう時間の感覚はなかった。何時間待ったのかなんてどうでもよい。重要なことは自分の出番が来ることである。1曲目はソレア。踊っている途中、小さな男の子が駆け寄って舞台にお花を投げてくれた。そして歓声、拍手、拍手、拍手。感動。そしてそれに続くモイの歌。この人のカンテには何か恐ろしいものが含まれている。いつも必ず遅刻してくるし、電話をしてもほとんどつながらない。行きの車の中ではホセ・メルセーの歌マネをしてみんなを爆笑させていたモイ。でもこの歌い手が歌うソレアは一体なんなのだろう。上手な歌い手はいっぱいいる。でもこの歌い手のソレアは・・・・

1曲目の後はすぐに2曲目のアレグリアス。セビージャから駆けつけて下さった、フラメンコ・ジャーナリストの志風恭子さんが着替えを手伝って下さった。カンテソロもギターソロもなく、もうアレグリアスが歌われている。そしてギターのトレモロが聞こえて来た。やっとここでアレグリアスを聴く精神状態になる。その音が私を舞台に向かわせる。しかし・・・・自分で思ったよりも1曲目のソレアで体力を消耗していた。そしてそれを回復できていなかったことに気づく。ざらざらの床はバタ・デ・コーラに噛み付いていつものように動かない。クラスでは「床のすべりが悪い時は・・・・」なんて偉そうに教えていたけど、実際本当に自分の身に振りかかって初めて分かるバタの難しさ。時々襲ってくるめまいと闘いながら、絶対に最後まで踊りきる、と覚悟を決めてアレグリアスを踊り始める。

ピクオの歌が終わり、ミゲルのファルセータも終わる。そして、まただ。この人、モイ。あの日モイはピニー二のカンティーニャスを歌っていた。もう私はバタ・デ・コーラごと宇宙にふっ飛ぶかと思った。この歌い手は・・・・怪物だ。あの日彼が歌ったカンティーニャスは・・・・ブログにするのが不可能だ。でもあの時の私はあのカンテを飲み込んで、自ら放出することができなかった・・・・。なぜだろう?体力が残っていなかったから?集中力も欠けてしまっていたから?舞台の状況が悪かったから?そうかもしれない。理由はいくらでも思いつく。でも本当のところはそうでない気もする。・・・・それは「なぜ日本人はフラメンコが好きなのか?」という問いの答えを考えるのと似ている。

アレグリアスを踊っている最中にもまた小さな子が(今度は女の子だった気がする)舞台にお花を投げてくれた。「すごい拍手で歌い出せない時があったよ」と終わった後にピクオが言っていた。数ヶ月前からのプレッシャーとあの過酷な状況の中、私は踊りきった。以前の私だったらその状況に押しつぶされてガタガタの踊りになっていただろう。よくもまあ踊れたものだ、と自分でも思う。私にお花を投げてくれた小さな子供たちや、満場のロンダのお客さんからの拍手は本当に嬉しかった。・・・でも私は落ち込んでいた。落ち込みからなかなか立ち直れなかった。

踊れればいいというものではない。あのモイのカンテを聴いて私の中で「ぶわっ」と何かが起こったはずである。でもそれが私自身から放出されなかったのだ。その放出がなければ、私の踊りはフラメンコでもなんでもない。ただの踊り。フラメンコの振付けを持ったただの動き。そんなもののために私は生きているのではないのに。

エバ・ジェルバブエナは言っていた。「一度 “あの” 感覚を持ったのなら、後は “sintonizar” をすればいい。その “sintonizar” の仕方を知ればいい。それを舞台で行えばいい。」

“sintonizar” とは、日本語に直訳すると「同調させる」とか、「調和する」という意味。ラジオの周波数を合わせる、とか言う時などに使われる単語だ。ただ実際その直訳をあてはめるとちょっと違う気もする。言葉というのはその時その場所で、その本人の口から出た瞬間にのみ本来の意味を放つから、あの時私が感じた感覚を今ブログにすることは難しい。でも一つ言えるのは、私はその “sintonizar” の仕方を知らない、ということだ。エバの言う “あの” 感覚は突然やってくる。いつ、どこから、なぜやって来るのか私には分からない。やって来ない時もある。そして同様になぜやって来ないのかも分からない。

自分の踊りが終わり呆然としたままだ。志風さんから「早く着替えないと風邪引いちゃうよ」と心配される。その通りなのだが、頭が働かない。着替えと後片付けの順番がごちゃごちゃになっている。やっと着替え終わったらすでにホセ・メルセーのカンテが始まっていた。私はテントから出て横から舞台を見上げる。ちょうどその時反対側のテントからパルメーロ(手拍子でリズムを司る人)のチッチャロが出て来た。すぐそばにいる。うわ〜やっぱりすげ〜な〜(すごいな、ではなくあえて「すげ〜な〜」と表記させて頂きます。失礼!)、このコンパス。さっき踊った自分の踊りのことなんぞすっかり忘れて私は幸せいっぱいになる。

フェスティバルが終わり、そのチッチャロとモライート(この日ホセ・メルセーに伴奏していたギタリスト)と一緒に写真を撮ってもらう。会場を後にし、今度は私が「一緒に写真を撮って」とロンダの人達から声をかけられる。「すばらしかった!」と。嬉しいけど・・・変な気分。今度はコンクールの時から私の踊りを観て下さっていた、というロンダのペーニャ会員のグループに取り囲まれる。みんな興奮していてそのまま拉致されそうだったので、丁重に何度も何度もお礼を述べ、先に行ってしまった志風さんを追いかける。

よかったのかな・・・・不思議な気分が続く。自分がダメだと思っている時ほど人は賞賛する。自分でよし!と思っていても他人の反応は逆だったりする。でもそれが一致している時もあるし・・・なぜだろう。志風さんには「あんまり考えすぎないでね」と言われたけれど・・・・。でも考えてしまう。どうして今日の踊りはああだったのだろう・・・。ホテルに着いてからもそれがずっと頭から離れなかった。

次回ブログに続く。

Aug 14

2010.8.21 // ロンダ・カンテ・グランデ・フェスティバル

Baile Cante Guitarra
  • 萩原淳子(ロンダ・コンクール2010バイレ部門優勝)
  • ホセ・メルセー(カンテソロ)
  • クーロ・ルセーナ(カンテソロ)
  • ルビート・イホ(カンテソロ)
  • アントニオ・ポルクーナ エル・ベネーノ(コンクールカンテ部門優勝)
  • モイ・デ・モロン(舞踊伴唱)
  • ミゲル・ピクオ(舞踊伴唱)
  • モライート・チコ
  • アンヘル・マタ
  • パトロシニオ・イホ
  • マノリート・エレーラ
  • フランシスコ・ゴメス・モンカジョ(コンクールギター部門優勝)
  • ミゲル・ペレス(舞踊伴奏)

みなさんこんにちは!いかがお過ごしでしょうか?

こちらセビージャは昨日あたりから気温がぐっと下がって随分過ごしやすくなりました。先週は毎日40度以上あって大変でしたが!

さて、8/21(土)に「第42回ロンダ・カンテ・グランデ・フェスティバル」に出演します。そのポスターをアップしてみました。(ポスター部分をクリックするとでっかくなります!)出演アーティストはホセ・メルセー、クーロ・ルセーナ、ルビート・イホらカンテソリストと、今年のロンダ・コンクール優勝者となっています。開演は22時となっていますが、恐らく始まるのは早くても23時過ぎ、夜通し行われるこのフェスティバルが終わるのはきっと明け方でしょう。

アンダルシアの夏のフェスティバルは7月から9月まで各地で行われます。会場は屋外。地元住民はもちろんのこと、近隣市街からもフラメンコファンが駆けつけ、これぞ夏のアンダルシアのフラメンコ!特設舞台の周辺には仮設のバルが準備され、みなワイワイがやがや、飲んだり食べたりしながらフラメンコを楽しみます。家からクーラーボックスを持ってくるピクニック気分(夜中ですが)の家族連れもいますよ。日本の劇場のように席にじっと座って黙ってフラメンコを観聴きする雰囲気とは大違い。もちろんそういうフラメンコ大ファンも沢山いれば、アーティストの歌に合わせてパルマ(手拍子)をたたいたり、自分が知っている歌詞で歌われると嬉しくなって、一緒に歌ってしまうファンもいます。

私もこれまでにいろいろな村のフェスティバルに行ってきました。そこでたくさんのアーティストのカンテ(歌)を聴き・・・そう、ここではフラメンコとはカンテ。ワイワイがやがやしていたはずの観客がある一瞬になると「ooooleeee!」と叫ぶ。一体となって。有名な歌い手だからという理由で拍手を送るのではありません。有名だろうと無名だろうと、自分の琴線とフラメンコの瞬間が合致した時に出るあの「oooooleeeeee!」。こりゃすごいわ。もちろん踊りもあるけれど、ソリストとして参加する歌い手が沢山いるのに対し、踊りのグループは1つだけの所が多い。踊りだけを勉強する留学生からすると「歌ばっかり」と思う人もいるかもしれないけど、繰り返します。ここでは、フラメンコとはカンテなのです。(だからロンダのフェスティバルも「フェスティバル・デ・カンテ・グランデ」ですね。)

大物舞踊家が出演することが多い、アンダルシアの夏のフェスティバル。私もこれまでマヌエラ・カラスコ、ファルキート、コンチャ・バルガス、カルメン・レデスマなど素晴らしいアーティストのフェスティバルでの踊りに大興奮&感動してきました。かのエバ・ジェルバブエナも、子供の頃に観たとあるフェスティバルでのマヌエラ・カラスコとコンチャ・バルガスの踊りを「これがフラメンコだ、と思った」と語っています。フェスティバルで踊るのはとても名誉なこと。ただ近年は不況のため、フェスティバルの規模を縮小したり、開催すらできない状況になってしまいました。以前のように歌い手も踊り手も大物アーティストがぞろぞろ出演するフェスティバルは、残念ながら減ってきています。そんな中、今年のロンダ・コンクール優勝者という枠内でありながらフェスティバルに出演できるのは、私にとっては本当に光栄極まりない。しかも外国人だし。

フェスティバルまであと1週間。私の踊りはどうなるんだろう。緊張と不安と興奮と期待感が入り交じっています。いっぱい練習したけど、それでも技術は技術でしかない。フラメンコはカンテなんだよな・・・・その「当たり前」のことが私の中に一体どのくらいあるのだろう・・・・

2010年8月14日 涼しくて幸せな朝。日本から密輸してきたカルピスを飲む。 セビージャにて。

Aug 10
アンへリータ・バルガスのクラス
La Yunko | ブログ | 08 10th, 2010| Comments Off
みなさんこんにちは!いかがお過ごしでしょうか?
今日は月曜日。魔の月曜日。月曜はいつも調子が悪いのです。特に週末海に行っていたので・・・あんなに楽しんだのに〜!!!(写真:ボロニア海岸近くのローマ遺跡「バエロ・クラウディア」で飛ぶ私。ラララ〜♪)
月曜の朝いつものスタジオにこもって練習する自分が信じられない。いやだ〜!!!そんな調子で午前中の練習は不発に終わってしまいました。いかんいかん。
気合いを入れて午後からはアンへリータ・バルガスのクラスへ。クラスは18時から始まるので17時半には家を出なければいけません。スタジオまで歩く20分。暑い。8月のこんな時間帯に歩いているのは旅行者と私ぐらい。暑いのででれでれしそうだけど、ここで本当にでれでれ歩くとスリに狙われるので、とにかくすたすた歩く。スタジオに着く。今日のアンへリータは真っ青のワンピースにレギンス姿だ。昨日はショッキングピンクのTシャツ、その前は真っ赤なワンピース。もうすぐ還暦を迎えるはずのアンへリータ。こちらの女性は元気な色を好んで着る。太陽の光が強いので、日本人の色彩感覚からするとぎょえー!!っと思うような色が映える。逆に日本で素敵に見える色というのは、残念ながらこの街ではくすんで見えてしまうのである。
いつも時計を見て時間を気にするアンへリータ。時間通りに始まる。そして時間通りに終わる。1分でも延長するのがお嫌いのようだ。今クラスで振付けているのはソレア・ポル・ブレリア。生徒は私を入れて5人ほど。外国人の初心者の人が多い。以前の私は自分と同じくらいのレベルの生徒がいるクラスに所属したがっていた。でも最近はそうでもない。小ぎれいに上手に踊る人達というのはある程度のレベルを持っているけれど、多くの場合鏡の中の自分に満足していてそこから脱しない。脱する時は同じように小ぎれいに踊る人にライバル意識を燃やす時か、自分よりも技術レベルの低い人、もしくはパソや振付けをとるのに時間がかかる人を見て優越感に浸る時だ。そのような人達と一緒の空間にいると私は居心地が悪い。余計な疲労感を感じてしまう。本当に実力のある人というのは、もっとストイックだ。自己陶酔することもないし、クラスで自分の実力を誇示しようなんて思っちゃいない。ちなみに、こんな人間観察をしているから私の実力は中途半端のままである。
今のクラスはほとんど初心者の人なので、クラスがしょっちゅう止まる。なかなかリズムがとれなかったり、とれても足が思うように動かない人がほとんどだからだ。でもそういう時は、みんながつまずく部分が分かるし、どういう風に教えればできるようになるか考えることによって、自分の教授活動に役立つ。誰だってみんな最初は初心者なのだ。本当はみんな、永遠の初心者なのだと思う。(「みんな」というのが失礼なら、「少なくとも私は」ということにしておこう。)
この間発見したことは、初心者だからこそする質問に実は重要なことが隠されている、ということである。それらの質問は、フラメンコ歴の長い人からすれば「当たり前のこと」なのかもしれないが、実はその「当たり前のこと」が一番重要なんだと思う。でもそれは「当たり前」すぎて、もう考えなくなってしまっていたり、もしくは自分はできていると考えている。本当はできていないのに。初心者の人というのは、生半可な知識や技術を持っていない分、それだけまっさらの状態でフラメンコに接することができる。だからこそその質問は核心をついていることが多い。う〜む、とうならされる。彼女達と学べるのは本当に貴重だ。
さらに今日発見したことは、アンへリータの足さばきがなぜあんなに美しいのか、ということ。2年前彼女のクルシージョを受けた時も美しいな〜とずっと思っていた。でもどうしたらあのような足さばきになるのか分からなかった。でも今日分かったような気がした!ちょっと試してみた。するとすぐさまアンへリータに直された。形だけマネしても、それはできていることにならない。重要なことは「当たり前のこと」に隠されている。それを学ばなければなんの意味もない。
明日は何を発見するのだろう。自分のできていない部分がどんどん明るみになっていく。こんな私が来週の土曜にはロンダのフェスティバルで踊るのだ。今年のロンダ・コンクールの優勝者として。私は一体なんなのだろう。でも踊らなくちゃ。今私ができる精一杯のことをぶつけなければならない。それは本当にちっぽけな事なのかもしれない。何年学んでも何年セビージャに住んでもそのちっぽけさは大して変わらない。でもそれはそれで、私は私として受け入れようと思う。そこから私の踊りは始まるように思うから。
洗濯機がまだ動いている。もう夜中なのに。
あ、もう火曜日になってしまいました。
2010年8月10日 セビージャにて
Aug 3

みなさんこんにちは!いかがお過ごしでしょうか?

私は元気です。日本での3週間は怒濤のごとく過ぎ、先週の水曜にセビージャに戻りました。とにかく今回は暑かったのと忙しかったのと・・・大変!でしたが、第4回目となったクルシージョ、そして恵比寿「サラ・アンダルーサ」でのライブ3公演など非常に非常に充実した3週間でした。受講して下さった皆様、ライブにお越し頂いた皆様どうもありがとうございました。

あ、ご報告ですが、ウニオン・コンクールの予選は落ちました。たくさんの方に応援して頂き予選通過の結果を待ち望んで頂いていたのですが、通過ならず。予選では自分の踊りをできたと思っていましたし、ギタリストやカンタオール(歌い手)とも準決勝に向けて話をしていたのですが・・・・でも実は心の中で「通らないかもしれない」とも思っていたのです。コンクールに申し込んだ日から予選の日までに、いろいろな人の、このコンクールに関するいろいろな裏情報を耳にしてしまっていたからです。もちろんそれらは噂なので真実かどうかは分かりませんが。

予選落ちを知らされたのは7/26(月)、恵比寿でのライブの当日朝でした。予想はしていたものの、実際本当に落ちたことを知らされると悔しいのと虚しいのと・・・・こんな気持ちのまま今日は踊れるんだろうか。これまでのライブ2日間でせっかく波に乗って来たのに・・・がーん。と思いながら恵比寿に着きました。共演のエミリオ・マジャに「ウニオン落ちた」と言うと、そばにいた歌い手のエンリケ・エル・エストレメーニョがいきなり激怒し、「何だと????ジュンコがウニオンに落ちただと???」「あのコンクールは・・・・(日本語訳不可能の罵倒語)だ!!!落ちるべき踊り手が予選に通って、予選に通るべき踊り手が落ちる!!!俺が電話してやる!!!」ものすごい剣幕。実際にはエンリケはコンクール主催者に電話はしないと思うし、(多分ね。でもその気持ちだけで十分嬉しい。)結果は変わらないので私としてはもうどっちでもいいや、という気持ちでしたが、エンリケの激怒を目にして、なんだか逆に気持ちがすーっと落ち着きました。

そのお陰かな?月曜のライブの踊りは、やっぱり出て来た、あの「ぶわ〜」が。それはいつも出て来るとは限らないし、いつどこで出るかは分からない。でも時にして私の踊りに出て来るもの。うまく説明できないけど、何かをキャッチした時、何かと交信できた時(私は地球人ですが)、自分の中の針のようなものがマックスにふりきる瞬間があります。そうしたら後はそれに従うだけ。そしてそれがあの日、2部で踊ったアレグリアスの、2つ目の歌が歌われた時に起こりました。今でも覚えていています。すごい。自分がすごいのではなく、その瞬間が世の中にあるということが。それが自分に巡り回って来たということが。この瞬間があるから、私はフラメンコを踊っているのだと思う。やっぱりフラメンコって素晴らしい。自分の人生の中でフラメンコに出会えた事に心から感謝する瞬間なのです。

結局のところ、あの予選落ちの真相は分かりません。私が聞いた噂やエンリケの言っていた通りのことが起こってしまったのか?単に私の実力が予選通過者よりも劣っていただけの話なのか?どちらにせよ、コンクールの結果は結果でしかない。良くても悪くても。考えても仕方がないことは考えない方がいい。ネガティブになって自分に悪影響を及ぼすから。自分の踊りの問題点だけ反省して、そしてよかった所は自分の中で守る。そして踊り続ける。日本でもセビージャでも、コンクールでもそうでなくても。同じ。いつもフラメンコを探す。

そういえば、以前日本のコンクールに出場した時に伴奏して下さった、ギタリストの俵英三さんがおっしゃっていました。「淳子ちゃん、あのな、コンクールでは何でも100点をとらなあかんけど、フラメンコってのはな、1カ所1万点があればいいんや。あとの残りは0点でもマイナスでも構わん。みんなその1万点を探しているんや。」

そして!!!!その「1万点」を持つ踊り手のクラスを昨日見学しました。その踊り手の名はアンへリータ・バルガス。彼女を人間国宝と呼んでも過言ではないでしょう。国の宝。いや、世界の宝。今日から1ヶ月、私はアンへリータに習います。「習う」というより・・・その「1万点」の瞬間に出会えればいい。自分の踊りに「1万点」があってもなくても、ここには「1万点」の瞬間を持つ踊り手がいるのです。やっぱりフラメンコって素晴らしい!!!!

というわけで・・・・これからクラスに向かいます。またブログを更新しますね!

今年はセビージャより日本の方が暑いみたいですよ。どうぞご自愛下さいね。

2010年8月3日 日焼け止めを塗っているのに日焼けしちゃうセビージャにて。