May 31

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

エバ・ジェルバブエナのセミナー5日目。昨日はいろいろありましたが、一晩寝て、朝起きたらなんだかどうでもよくなっていました。ネガティブなことはすぐに忘れてしまうんです。いや、忘れるわけではないのですが、ま、いっか、そういうこともあるし。と思えるようになってしまう。それがいいのか悪いのかよくわかりませんが。

・・・・が、朝起きてゲッと思った。エバに宿題を出されていたんだ・・・すっかり忘れていた。どうしよう。その宿題というのは、何でもいいから自分の好きな音楽を用意し、それに振付するというもの。ただし、典型的なフラメンコの動きは使ってはいけない。そして単なる振付ではなく、何を伝えたいのか訴えるもの、そして今回のセミナーで学んだ内容を使うこと。げーーーー。家を出るまであと20分。脳みそをフル回転させて、そうだ!ドローレス・アグヘータのマルティネーテを使おう!と思いつきました。ちょうどその前の日の晩、ドローレスの歌を聴いていて、でもその公演では私の好きな歌詞を歌わなかった。だからそれを使おう!と。でもあまりに典型的すぎるな・・・とも思いました。今回のエバのセミナーでは固定観念を破るというか、視野を広げることを学んでいる。その趣旨にあったものがいい、でも音楽はフラメンコがいい・・・

はっ!!!と思いついたのが古いアレグリアスの歌詞でした。

Al tiro de un cazador una paloma caía

Al tiro de un cazador que cuando la recogía

El mismo se ve horrorizó

Porque bajo de la ala vio que tenía

????  chiquito casi decía;

A mi consuelo mare y a mi consuelo

Dale el ultimo beso porque me muero.

自分で聴き取りしたので間違っているかもしれません。???の所はどうしても聴き取れない。でも内容はこういうことだ。

猟師の一撃で鳩が撃ち落とされた。

その猟師が鳩を拾い、あるものを見て恐れおののいた。

それは鳩の羽の下にあった小さなメモだった。

「母に安らぎと慰めを。最後のキスを母に。私はもう死ぬから。」

アレグリアス。喜びという意味を持つ曲の歌詞がこれだ。これを初めて聴いた衝撃は今でも忘れられない。そしてこの歌詞の持つメッセージ性。最後にぐわっと胸をつかまれ涙が出る。死ぬ間際に母へのメッセージを伝書鳩に託した人、その鳩を撃ち落としてしまった猟師。何も知らずに子どもの死をいつの日か知ることになる母。たった一つのアレグリアスの歌詞の中にこれだけのものが詰まっている。

朝からさめざめと泣いて、でも泣いている場合ではなくそれをUSBに落としてクラスに向かう。猟師と、鳩と、メッセージを託した人とその母。その4人(厳密には3人と1羽)を表現するにはどうするか。重要なことは感じること。そしてその動きを客観的に見ること。根本的なことはフラメンコと変わらない。ただフラメンコ特有の動きを使わないだけ。

クラスでは立候補した人がその宿題を発表してゆきました。コンテンポラリーみたいな振付が多かったかなあ。確かにセミナーで学んでいる内容はその中に含まれているのは分かったけれど、振付としては興味深いし、みんな踊りも上手だなあと思うのだけれど、何かこう、イマイチ伝わってくるものがない。難しいなーと思ってみていたら、エバにあてられ私の番になりました。

ところが・・・持って来たUSBが使えない・・・なんとしたことか・・・

・・・結局私は発表できませんでした。ちゃんと事前にUSBが使えるかチェックすべきだった。宿題を忘れていて直前にバタバタと準備した私が悪い。大大大反省。

その後、ちょっと変わった(とセミナー内で噂されていた)女の子が発表しました。それがすごかった。彼女はタラントのファルセータを使って即興で表現していったのだけれど、有無を言わさず彼女の世界に引き込まれてゆきました。すごいなー、こんな人もいるんだ、と私は感心していたのですが、彼女の発表が終わった後、みんなの質問や批評が厳しかった。

「あなたは何を表現してもいつも同じような表現方法」

「なぜいつも髪の毛を下ろして顔を隠すのか」

「なぜ正面を一度も見ないのか」

確かに、これまでのセミナーで行ったパントマイムのクラスでやった彼女の表現方法と大して差がない。みんなの言っていることはある意味正しい。すごいなーと感心していた私は、見ていたようで何も見ていなかったのかもしれない。

その後エバは彼女と、もう一人の発表した男の子を選び、二人同時に音楽なしでその動きを各自やるように指示しました。それぞれがそれぞれの動きを全く関連なしで踊っている。そして時としてエバが一人に、その動きをしながら前に進め、とか、もう一人にその場から動くな、とか指示をする。そして最後の瞬間、それまで全く別々だった二人の動きが関連性を持った時、鳥肌が立ちました。すごい・・・エバ。その瞬間それまでの意味が全てつながり、一つの作品になっていました。

そしてその後のエバの指示がまたすごかった。その彼女にある命題を与えたのです。

「周りの人間は皆、あなたが狂っていると思っている。でもあなたは本当は狂っていない。それを表現しなさい」

一瞬、シンとなりました。セミナーのみんなが、彼女のことをちょっとおかしいよね、と噂していたことをエバは知っていたのだろうか?その噂をエバが耳にしていたのかしていなかったのかは分からない。でも数日間のセミナーでエバはそれを見抜いたのだろう。その命題を彼女に出したエバはやっぱりすごい。

その後の彼女の表現もすごかった。本当は狂っていないのに、人から狂っていると思われて、自分ではもう狂っているのか狂っていないのか分からなくなってしまった人、そのギリギリの所を彼女は表現しているように私には感じました。でもそれでは本当は狂っていないということがよく分からない、これだけだとやはりこの人は狂っている・・・そう思った瞬間に、エバが一言言いました。

「あなたは狂っていない。シャツを直し、髪をきちんと結んで狂っていないことを証明しなさい。」

その通りにした彼女は、本当に狂っていない人になっていました・・・・

エバすごい・・・

そしてさらにエバはたたみかけます。

「今度は狂っている風をするのではなく、正常な状態で他人から狂っていると思われているように表現しなさい。」

こ、こ、これは難しい・・・狂ったふりをするのは簡単だ。でも正常な状態で実は狂っていると思われているというのを表現するにはどうしたらいいんだ・・・

そしてエバはパントマイムの先生に彼女を指導するように言いました。マイムの先生は彼女をずっと見続けていました。何も言わず、何分間も。彼女は先生を見ない。先生に「私を見なさい」と言われてようやく先生に向き合う。でも身体が斜めになっている。正面から見ていない。髪の毛で顔を隠して、その隙間から先生を見ている。先生が「こっちに来なさい」と言う。彼女は少しずつ近づく、四つん這いの半身のままで。でもある所まで来てそこから近づかない。マイムの先生の言葉は落ち着いていたけれど、中に厳しいものが含まれていたように感じた。多分私には分からないことをマイムの先生は見抜いていたのだと思う。そしてそれはエバもきっと気付いていたのだと思う。だからマイムの先生に託したのだ。今度はマイムの先生が、「他の人に近づきなさい」と指示を出す。彼女は自分を取り囲んでいる他の生徒に少しずつ、一人、一人と近づいてゆく、段々と彼女の心がほどけていく(ように私には見えた。)。

そして今度はエバの指示で受講生の男の子(フアン)が彼女の真後ろに立つ。エバが言う、「フアン、今あなたか感じていることを彼女に言いなさい」。フアンは静かに彼女の耳元で言う。「お前は狂ったふりをしているだけだ。分かってるんだよ。」エバが言う。「もっと大きな声で」。フアンが叫ぶ、「お前は狂ってなんかいないんだよ!!!」

その瞬間、彼女が真顔になり、泣きそうな顔になる。エバは言う。「泣きなさい。」彼女が泣きたいのか泣きたくないのか私には分からない。涙は出ていない。でも顔が泣いている。そしてまたエバは言う。「笑いなさい」その瞬間、彼女は微笑んだ。

今まで一度も見た事がなかった、彼女の微笑みだった。

そしてそのクラスは終了した。

(エバ・ジェルバブエナのセミナー2015/5日目②に続く)

May 30

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

たくさんの方からブログに関してコメントを頂き嬉しいです。お読み頂きありがとうございます。

さて、4日目。(実はこのブログを書いている今はもう最終日が終わってしまっているのですが、たまっていた分を少しずつアップしてゆきますね。)のっけからなんですが、とても悲しいというか、がっかりというか・・・そのようなことがありました。エバのクラスの時です。エバに「あなたの名前は?」と聞かれました。わっ!!!、エバに名前を聞かれた!!!嬉しくて嬉しくて一瞬目の前に虹が広がり、私が「ジュンコ」と答えると、その瞬間エバは首をふり、何人かの生徒がクスクスっと笑ったのです。

・・・・え・・・・どういう意味・・・

そしてその瞬間、私の頭によぎったのは、あ、エバは私の名前を覚える気が全然ないんだ。私の名前を耳にした瞬間に覚えるのを諦めたんだ、ということでした。

誰がクスクスと笑ったのかは分かりません。でもその瞬間目のあった他の生徒は、あなたの気持ち分かるよ・・・という眼差しを送っていました。私の口から出た言葉は「簡単なのに」それだけでした。

それからしばらく私の頭の中はぐるぐるとそのことばかり巡っていました。カルメンとかマリアとかじゃない。外国人の名前というのはスペイン人にとって覚えにくい。でもジュンコというのはそれ程難しい発音ではない。「ジュン・コ」たった母音2つ。亡くなったファラオーナは私の名前を聞いて「“ジュンケ”(yunque)みたいだね。なんてフラメンコな名前なんだ」と嬉しそうに言ってくれた。これまでに習ったフラメンコの先生も皆、ジュンコと呼んでくれた。時間はかかっても、時々他の日本人の名前と間違っても、最後にはジュンコと呼んでくれた。確かにたった数日間のセミナーで20名もの生徒の名前を全員覚えるのは難しい。でも名前を聞いたのはエバ、あなたじゃないか。だったら少なくとも、ジュンコって発音してみればいいのに。ジュンコって名前を耳にした瞬間に首をふるってどういうこと?

昔、こんなことがあった。とあるクラスでとある大先生が、外国人の生徒に「サラ!サラ!サラ!」と呼んだ。彼女はサラ、という名前ではない。「サイ○○」という名前だった。要するに、「サイ○○」では覚えにくいから、なんとなく似ているスペイン女性の名前「サラ」にされてしまったのである。本人の許可なく。「サラ」というのがどうも自分を呼んでいるらしいと気付いたサイ○○はつかつかつか、といつもその大先生が座っていらっしゃる場所まで歩いてい行き、何かを話した。そして私達生徒の所に戻ってきた。サイ○○は明らかに怒っている。私が心配して「どうしたの?」と聞くと、彼女ははっきり言った。「『私はサラじゃないわ、サイ○○よ。私は毎日毎日、あなたのすっごく難しい振付やテクニカを一生懸命学んでいるというのに、あなたは生徒の名前一つすら覚えられないのですか?』って言ったの。」

!!!!

あっぱれ、である。全くもってその通りである。数日のクルシージョではない。毎日毎日クラスがあり、それが何ヶ月間も続くクラスなのだ。多分その時だと思う。

初めて、自分の名前は大切なものなんだ、ただの名前じゃないんだ、自分の存在そのものなんだ、って気付いたのは。ちなみにその大先生は、その日一日中「サイ○○、サイ○○、サイ○○・・・」と彼女の名前を念仏のように唱えていたらしい。・・・さすが、大先生もあっぱれである。

そんなことを思い出し、またその前の日のクラスでのエバの言葉を思い出した。

「私には限界がない」

その瞬間私はどん底に落ちた。舞台の上で限界のない人が、生徒の名前すら覚えようとしない?覚えられないのではない、覚えることを放棄したのだ。だったら最初から名前なんて聞かなければいいのに・・・。「tú」(君)でずっと呼ばれる方がまだいい。外国人の生徒だ、始めて耳にする名前に違いない、覚えるのは無理だろう、そう瞬間的に判断して首をふったのだろう。「私には限界がない」と言った本人が。名前を覚えてもらえないことが残念なのではない。覚えるのが大変なのは十分承知しているが、記憶力の問題でもはない。そうではなく、最初から脳みそをシャットアウトしている、その彼女の限界に気付いた時、そして彼女自身がそのことに気付いていないということに私が気付いてしまったから、愕然としてしまったのだ。数年前のセミナーで○○でなければフラメンコではない、とか、フラメンコとは△△である、という凝り固まった考えから解放してくれたのがエバだった。そして彼女の踊りは言わずもがな・・・限界がない。だからエバのセミナーを受けているのに、それなのになんで????

その後のクラス内容はなんとなく覚えているけれど、もう集中できなくなってしまった。途中からなんとか頭を切り替えて学ぼうとしたけど。タラントのコンパスに合わせて一人ずつ歩き、コンパスのある部分で、あえてフラメンコらしくない、フラメンコでは使われないポーズで止まるというもの。全員一通りやって、そのうちのいくつかの動きをエバが選び、それらを生徒達につなげさせ、振付にしてゆくというもの。それから、似たような趣旨で皆の前で好きなポーズをとり、何を表現したのか言葉で表現すうるというもの。エバが影響を受けたピナ・バウシュのレッスン方法、作品の作り方らしい。

そんなこんなでエバのクラス終了。もんもんとしたまま、パントマイムのクラスが始まる。そのクラスで学んだことは、パントマイムというのは、ただ物体がない状態で、あたかも物体があるように動くということではないこと。(これまで私はそう認識していた。)よりリアルに見せるために動きを誇張したり、あえて逆にすることもあるということ。例えば、肉料理を食べるパントマイムでは、実生活ではナイフは自分の方に動かし肉を切るけれど、マイムでは逆にナイフを外側に大きく動かして肉を切っているように見せる。そうすることで肉を食べるために切るという動作がより観客に伝わる。先生が試しに両方やってみたけど、本当にその通りだった。びっくり。

ロダンが始めて彼の彫刻を世の中に出品した時、世間の人は、皆ロダンがモデルの身体に直接石膏を塗って型をとり、彫刻にみせかけたと疑ったらしい。それだけ本物そっくりだったということ。でも実際は、彫刻の方が本物の人間のモデルよりも筋肉が隆々としていたらしい。その隆々さは比でなかったという。つまり、ロダンはより本物に見せるために、本物そっくりにそのまま彫刻したのではなく、あえて強調したということだ。何かで読んだそんなエピソードを思い出しながら、多分同じようなことなんだろうな〜と思う。でもフラメンコはどうなんだろう、効果を狙って誇張したりあえて逆にしたりすることはあるけど、それでフラメンコの真実からかけ離れてしまうこともあるんじゃないか・・・

その日はクラスの受講生の2人と一緒にクラスの後ご飯を食べる。セミナーの話をいろいろして、やっぱり自分の中でひっかかっていた名前のことを2人に話す。1人は私のそばにいて、同情の眼差しを送ってくれた人。もう1人はこう言ってくれた。「私もその時、ひどいなと思った。皆の前では何も言わなかったけど・・・」

それを聞いて、やっぱり私だけの妄想ではなかったんんだ・・・とさらに落ち込む。家に帰ってそのことを夫に話す。「クラスの写真を撮りに行きたいと思ってたけど、行かない。そんな人の写真なんて撮るつもりはない」と怒っている。

なんだか決定的になってしまったようで、完全に落ち込む。「で、どうするんだ?」と夫に聞かれ、「明日、エバと話そうと思う」と言った。別に文句を言うつもりはない。でも自分が感じたことを落ち着いて伝えようと思う。エバならきっと受け入れてくれるだろう。逆恨みするような人ではない。

昨日のクラスでこんな話もあった。ある生徒が、自分はやせっぽっちで背が高いのでタンゴには不向きだと習っている先生に言われたんだけどどうしたらよいか、とエバに質問した。エバは怒った。「もし私がそんな先生に習っているなら、その瞬間にクレーム書を提出し、金輪際その先生のクラスを受けない。どんな先生であれ、生徒の肉体的な特徴をあげつらって生徒を踏みにじることは許されない。」

きっと、そんなエバとなら腹を割って話せるだろう・・・エバにとって大して重要でないことかもしれないけれど、私にとっては私自身の存在に関わることだったから。

これが4日目の出来事でした。このブログの最後に、皆様にお願いがあります。この話しには続きがあります。この4日目だけだとエバがとっても悪い人みたいになってしまう。でもそうではないことが、次の日のセミナー5日目に判明しました。エバと直接話した結果、それはほんのちょっとしたコミュニケーションの行き違いから起こってしまったことだということが分かったのです。エバはやっぱりエバだった。それをこちらのブログアップ後、5日目としてアップしますので、そちらもお読み頂ければ幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。

2015年5月30日 セビージャにて。

May 30

みなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

あっという間にエバのセミナーは明日最終日になります。とにかく毎日あっと言う間に時間が過ぎてゆきます。今日はフラメンコを観に行きたかったのですが、がまんがまん。ここ数日毎晩公演やライブに出かけていたので、今日はお休み。せっかくセミナーを受けていても受けっぱなしになってしまうと意味がない。というわけでセミナー3日目を振り返ってみたいと思います。前回のブログ同様、私の覚え書きという感じが強いかもしれません。お許しを。

【3日目】

昨日のゼーハートレーニング(笑)の次の日。今日のトレーニングは今回のセミナーの中で最も激しいトレーニングだそうで、それを先生が事前に告知したからか、なんと遅刻&欠席の生徒が続出。あり得ない・・・・、這ってでもクラスに通う私としては。実際は普通にスタジオに着きましたけど。確かにキツいトレーニングだった。昨日のセーハーの内容をその倍くらいのスピードでこなしてゆく。たった20分間なのだけど、ほとんど休みなし、ハードトレーニングが次から次へと繰り広げられる。これは、そうだ、昔観た、映画〝フラッシュダンス〟の主人公が自宅でやっていたトレーニングに似ている。当時は、ダンサーになるためにはあんな努力をしなくてはならないのか!と驚いたが、それを30年(?)経った今やっている私。人生とは不思議なものですな。

それはそうと、不思議なことになぜか、全然疲れない。昨日はあれだけゼーハーして、今日のトレーニングはそれよりもっとキツいはずなのに。身体がびっくりする程軽い。周りを見渡してみると、みんなゾンビみたいになっている。え、なんで?私だけだよ、キョンシーみたいにぴょんぴょん飛んでるのは。

考えられる理由は・・・砂糖水。

エバのセミナーを受講する前に、エバの秘書から以下のものがセミナーの持ち物として連絡がありました。

練習着、スニーカー、タオル、果物、飲み物、グルコサミン。

・・・・グルコサミン? グル・グル・グル・グル・グルコサミン?・・・

なぜグルコサミンが必要なのか意味がよく分からなかったので、持って行きませんでしたが、初日、2日目とハードトレーニングが続いて筋肉痛と疲労で困憊していた時に、グルコサミンの話を夫にしたら、「なんで先生が持ってこいと言ったものを持っていかないんだ!」と怒られてしまいました。え〜でも誰もグルコサミンらしきものを飲んでいる人はいなかったけど・・・なんでもグルコサミンはスペインの薬局で売っているらしく・・・え〜でも薬局行くの面倒くさいし、時間ないし・・・とか言っていたら、これはグルコサミンと同じだ!と言って夫に渡されたのが・・・

砂糖水。

えー砂糖水?だったらアクエリアスとかコカ・コーラでもいいじゃないかと言ってみたのですが、違うんだそうです。疲労には砂糖水。それは夫が小さい頃から言われていたことらしく、とにかく飲めと。カブトムシじゃないんだから・・・というわけでオレンジの絞り汁を入れてみて飲みました。コップ一杯。意外といける。

それしか考えられないのです、次の日、こんなに身体が軽くなっている理由は・・・砂糖水を飲むなんて、あんまり身体によくないような気もするのですが、これだけのトレーニングをやるからには何か特別な対処法でなければダメなのかも、なんて思いつつ本当のところはよく分かりませんが、とりあえず筋力トレーニングは乗り越えられました。

次はエバのタンゴのクラス。昨日振付られた部分から付け足し。そして今日はエバの語りと生徒からの質問の時間が長かった。ある生徒が、自分のタンゴはどうも面白くない、起伏がなくてつまらない。エネルギーをお腹のあたりでぐるぐる回してはいるんだけど・・・どうしたらよいのか?とエバに質問。その後のエバの答えというのが・・・これはちょっとブログにできない。文章にすると18禁になりそう(!!!)ちょっとそれはどうなの、クラスで言うのは、と萩原びっくりし過ぎて笑いが出そうになってしまったのですが、みんな神妙に聞いているし、エバはいつも通りにこりともしないので、私は心の中でのけぞりながら神妙な顔をしてみました。

かいつまんで言えば、(その18禁の部分を抜かして言えば)その人の人生が全て踊りに出る、ということ。興味深い人生を送っている人は興味深い踊りになるし、刺激がなく単調な人生の人の踊りはやはり単調だ、ということ。そういう結論になって話しは一件落着になっていたけど、萩原的18禁の内容をクラスの中で、公衆の面前で20歳の女の子に質問していいのか・・・20歳だから18禁でないけれど、クラスには18歳の女の子もいたよ・・・スペインの18歳は日本の18歳と全然違うか、と思いつつ。

それからは、スタジオに円陣になって座り、一人ずつ初日・2日目に学んだことや感じたことを発表してゆく。数年前に受講したエバのセミナーもそうだったけど、こういう時間が非常に長い。どうなんだろう、一人一人の話の内容にもよるかなあ。ダラダラと長く、関係のないことまで話し始める人とかもいて、そうなるとクラスがだれる。完結に皆と共有できるような内容であれば一人一人発表しても時間はムダにならない。むしろお互い学び合えるので、そういう人の発表はどんどん聞きたい。要は受講生の質によるということかな。

初日・2日目とあまりブログにしなかったけど、パントマイムのクラス。これ、結構興味深いです。パントマイムの先生がクラスを担当しています。パントマイムといってもいきなりパントマイムを始めるのではなく、そのために必要な要素をというのを準備していきます。それがフラメンコにもきっと共通している。例えばクラスの始めに生徒全員がスタジオ内を勝手にぐるぐる歩く。歩くスピードを変えたり、方向を変えたりいsろいろバリエーションがあるのですが、なんでこんなことやるのかな?と思ってマイムの先生に聞いてみました。先生の答えは

①空間認識・・・・クラス全員(生徒20名)が一斉にスタジオ内を勝手に歩き回るのですが、一カ所に固まったり、皆で円を描いて同じ方向に回らないようにしています。すると、ただ自分が歩く場所を見ている人、それからスタジオ全体を俯瞰して、空いている空間を埋めるように歩く人。もちろん後者の方が空間認識が高い。フラメンコの世界でそれを使うにはある程度大きい舞台が必要になりますが、群舞にしてもソロで踊るにしても、その空間認識が足りないと舞台を支配できないわけです。

②他人との空間の共有・・・この共有の感覚がない人は踊っていて独りよがりになりがち。フラメンコのクラスでもいますよね、クラスに人が多い時、自分勝手にばんばん動いて周りの人に相当迷惑をかけている人。いるいる。(笑)

それから、2人組になってお互い向き合い、絶対に目をそらさないというのもやりました。かなり長い時間だったように思えます。目を合わせて、もちろん笑ってもいい、何かリアクションがあってもいい。でも絶対に目をそらさない。目を見つめるというのは透明性を現す。日本だと人をじっと見つめるのは失礼にあたる場合もありますね。だから日本の感覚だとお互いの目を見つめ合うのは結構大変な訓練かもしれません。でもここでは日常生活でも相手の目を見て話すことが当たり前。逆に目を見て話さないと信用されません。文化の違いは大きいかもしれません。そして、「見る」のと「観る」の違い。それはフラメンコにも応用できるのだけど・・・それはまた後日。

また眠くなりました。おやすみなさい。

2015年5月29日

May 27

みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。

本日はエバ・ジェルバブエナのセミナー2日目。ものすごい筋肉痛です、全身の。昨日と同様、スポーツトレーナーの先生から授業開始。昨日はストレッチと呼吸法だったのが、今日はもっと動きが激しくなりました。みんなゼーハーゼーハー。どう考えても受講生は私よりも10歳は若いはずなのに、ゼーハーゼーハー。もちろん私もゼーハーゼーハー(笑)普段エバが取り入れているトレーニング法だそうで、エバも一番最初にやった時は最後までできなかったそう。でも今ではもう慣れて何セットもできるらしい。恐るべし、エバ・ジェルバブエナ。一流のフラメンコ舞踊家のトレーニングとはこういうものなのか、と唸っているうちに筋肉痛が・・・(笑)いくつかの動きは、バタ・デ・コーラにつながるものがありました。バランス、軸、重心移動、骨盤を固定すること、股関節を開くことなど。バタの訓練をきちんとやっていれば大抵の動きはカバーできる。逆に言えば、本気で身体の基礎を作ればバタ・デ・コーラは技術的には難しくない。(バタの難しさは昨日のブログにも書いたけど、コントロールすること、そしてバタにアルテを宿らせること。)

今日の訓練法でキツかったのをメモしておこう。

①腹這いになって、伸ばした足をバタ足する。すごく速く。しかも骨盤を浮かせる。(太ももが床についた状態で膝先だけバタ足というのはダメ。)そしてそれと同時に両腕を前方に伸ばし、ひじを直角に曲げるという動作を同時に行う。もちろん上体も床から浮いている。

②腕立て伏せみたいなポジションで左右の足を曲げる、伸ばすを繰り返す。ただし曲げている足は床から浮いている。交代する時は片方の足が床に着く瞬間にもう片方が曲がる。(両足が両方とも床に着いていることはない。)しかもその交代がすごい早い。シャッシャッシャーと忍者のように。

ブログで文章にするとなんだか分からないかもしれないけど(笑)まあいいや、今回はこれは自分が忘れないようにするためのものなので。すみませんね。

しかし②の動きで思い出したことがある。これは、小学校の時にやった雑巾がけの動きにかなり近い。よく一列になって誰が向こうの壁まで先に着くかよく競争していたから、かなりのスピードで足を交代していたことになる。しかも、萩原、とっても得意だった。あまりにスピードが早過ぎて、雑巾に乗せている手がスピードに追いつかず突き指したこともあったくらい(笑)うーん、あの頃の体力に戻せばいいのか、トレーニングで・・・

考えてみればプロフェッショナルな踊り手というのは、スポーツ選手並みの運動量をこなしているはずである。ここでいうプロフェッショナルというのはスペインでのプロフェッショナルな実力を持つ踊り手、という意味。クラスで教えることで舞踊教師としてプロフェッショナルというよりも、第一線で舞踊家として活躍する狭義の意味でのプロフェッショナル。例えばエバ・ジェルバブエナとかイスラエル・ガルバンとか。フラメンコはスポーツではないけれど、一流の踊り手というのは身体の準備の仕方がそもそも違う・・・

エバが言っていた。

「皆、身体の準備もできていないのに、なぜパソや振付ばかり欲しがるのか?」

本当だよなーと思う。

そしてその次、エバのタンゴ!エバの踊りで素晴らしいのは、言わずもがなソレアである。でもエバのタンゴというのも素晴らしい。タンゴの振付もちょっとやったのだけど、改めてはーっと思ったのは「intención」という言葉について。インテンシオン。日本語に訳すと「意図」かな。よく、「インテンシオンを持たせる」とか使ったりする。つまり、ただパソや動きをやるのではなく、その意図を持たせてやることによってそのパソや動きに説得力を持たせるというもの。説得力があればそれだけ踊り手が何が言いたいのか、何を表現したいのかが観客や歌い手、ギタリストにしっかり伝わる。

でもどうやってインテンシオンを持たせるのか?問題はそこ。今日のクラスでは、エバは代教の踊り手(元エバ舞踊団員、ロレーナ)タンゴのシンプルなパソを使って、まず男性のように、そして冷たい感情を出させた。そして別の舞踊団員(マリア)に今度は女性らしく、甘い感情を出させた。意図が変わるだけで、同じパソがまるで違うものになる。今度はもっとシンプルなタンゴのマルカールにどのようなインテンシオンを持たせるか。例えばどのようなインテンシオンにするか生徒の一人が答える。「雲」・・・雲というインテンシオンを持ってタンゴのマルカールをする。難しい・・・

そこでパントマイムの先生がエバに当てられる。パントマイムで雲を表現するには?パントマイムの先生が面白い事をエバに言った。「雲が主体か、雲が目的か?」つまり。自分自身が雲という主体になったつもりでパントマイムをするのか、それとも雲を自分が見ているという状況かということ。

・・・そんなこと考えたこともなかった。パントマイムの先生は難なくそれをこなしていたけれど、じゃあそれをフラメンコに置き換えるとどうなるのか。ここで一つでてくる考え方の一つ。

「そんなのフラメンコではない」

問題はここにもある。なぜそれがフラメンコではない、と分かるのか?じゃあフラメンコって何なのか?それを知っているのか?それを知っている程、フラメンコを学んでいるのか?

話しが変わってエバに聞かれた。あなたの体重は?「47kgくらい・・・?」

と私が答えると、(実際何kgかよく分からない)エバは言った。「あなたの限界は47kgってことね。」

・・・?

つまりこういうことだ。タンゴを踊る時には実際の自分の体重など関係ない。100kgでも200kgでもあるということを自分で信じて踊らなければ「ペソ」は絶対に出ない。でも自分が47kgだと思ったら自分で自分の限界を作ってしまっている。エバは言っていた。

「私の限界は誰にも作れない。なぜなら私が自分の限界を作らないから」

エバはにこりともしない。エバはめったなことでは笑わない。

それからもう一つ、エバが強調していたこと。それは「visualizar」。ビスアリサール。つまり視覚化すること。自分の動きが実際に外から見た時にどのように映るのか、それをきちんとイメージして踊る。自分の踊りをビデオに撮って客観的にチェックするのではない。どういうイメージかというのを想像して、その想像の動きに自分を動かすこと。そうすることでただ踊るのではなく、観客により訴えかけられる踊りになるということ。

エバのその「visualizar」のこだわりは並ではない。多分、きっとエバが小さいからなんじゃないかと私は思っている。エバは私(154センチ)より小さい。そのエバが舞台で踊るということ。身体的に恵まれたスタイルを持つ踊り手と同じように動くことはできない。

もう眠くなってきた。パントマイムのクラスについてもブログにしたいのだけど、明日のクラスのためにもう寝よう。パントマイムで重要なことは「sentir」感じること、自分が感じることでその動きが本当のように見える。自分が感じることでそれが動きになり、表情になる。「sentir」。これはフラメンコでもよく言われることだよね、と思う。昨日は、真っ暗闇の中で道を探しながら前進してゆくパントマイムを各自やる。今日は、歩きながら、一つの感情から次の感情へ変わる変遷をパントマイムにする。面白い事に、踊りの上手な人が、このパントマイムも上手とは限らない。身体がよく動く割には、その動きが嘘くさい。もしくは幼稚園のお遊戯みたい。

だめだ、もう寝る。

最後にエバは、学んだことを何でも書き留めておくのだそうだ。自分が何を考えているのかを全部鉛筆でノートに書いてゆくらしい。

私は頑張ってブログにしてみた。多分誤字脱字がたくさんあるような気がするが、すみません。寝ます。

2015年5月26日

May 26

11245531_10153285842246085_2784457961797000228_nみなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

今日からエバ・ジェルバブエナのセミナーを受講しています。月曜から土曜日までの6日間、朝9:00から14:30まで、途中休憩がありますが、フラメンコのレッスンにしては長い方ですね。実際にはエバだけではなく、スポーツトレーニングのコーチとエバとパントマイムの先生の3人によって授業が行われています。

まずはスポーツトレーニングの先生によるストレッチと呼吸法の訓練。今日行ったストレッチは私のクルシージョ(短期講習会)や自主練習の時に行っているものと共通しているものがたくさんありました。ただし、呼吸法に関しては自分では無意識にやっていた部分があったので、それを今度から意識的にやってみよう。ストレッチにしても呼吸法にしても、ただやるのではなく、なぜそれが必要なのかを理解してきちんと意識することが重要なのだそうです。よくストレッチを軽視している人がいますが、そういう人はたいてい踊れていない。本人は踊っているつもりかもしれないけど。そして呼吸法というのは一見踊りと関係ないようですが、実は大有り。これができないと踊れない。

その先生がおっしゃっていました。若いうちは勢いで踊れるけれど、そのうちガタが来る。そうなる前に自分の身体をメンテナンスすること。踊れなくなることを年齢のせいにしないこと。それは年齢のせいではなく、自分がきちんと身体と向き合ってこなかった証拠。ほんとうにそうだなあと思う。

次はエバの授業。まずエバからの質問。「何を学びたいか」「何を不得意としているのか」何人かの生徒が口々に答える。それを元にエバがクラス内容を組んでゆきます。エバのクラスではよく考える。自分は一体何を学びたいのだろう?自分に何ができて何ができないのだろう?その自問自答があってこそのクラス。ただお金を払ってスタジオに行けば先生に何か教えてもらえる、エバのクラスを受けるというだけでなんだか特別な気持ちになる。そうじゃないんだと。要は自分なんだと。自分が自分のことを分かっていなければ何も学べない。

エバの説明はどんどん話が飛んでゆく。その時その時でエバが思いついたこと、思い出したこと、目に入ってきた生徒の動き、いろいろなことを糸口にして彼女の語りたいこと、教えたいことがあふれてきます。話が変わる度に私は頭を切り替える。これも結構大変。私は一つのことを自分が納得するまでずっと考えるタイプなので、話が変わってしまうとその思考が中断されてしまう。だからとりあえずその瞬間瞬間で習った内容を頭の中にストックしておく。そして後から引っ張り出して熟考する。

タンゴやブレリアのパソを使って身体をコントロールする訓練をする。重要なことはパソを早くすればいいのではない。パソの早さよりも、アクセントやセンティードを探すこと。そして早さに限って言えば、早いのはパソだけではない。身体の動き、ブラッソの動き、それらにも早さがある。そのためには身体をコントロールする訓練が必要。サパテアードの打ち方、回転の方法、ブラッソやマノの使い方などテクニカの部分ではエバがやっていることは私も普段から行っている。だからそれ程苦ではなかった。でもコントロールする。これが難しい。

テクニカがないと踊れない。だからテクニカは持たなくてはならない。ただしテクニカのある人はただテクニカを使って踊りがちだ。テクニカがあればあるほど技術が高くなる。身体がたくさん動く人、強くて早いサパテアードを繰り出せる人、マントンやバタ・デ・コーラをがんがん使える人。そういう人は世の中にたくさんいる。でもその中の一体誰が身体をコントロールできているのか?ただむやみやたらに動かすのではなく。そして、その中の一体誰がサパテアードをコントロールできているのか?ただドカドカ足音を出すのではなく。その中の一体誰がマントンとバタをコントロールしているのか?ただマントンをぶんぶん振り回し、バタをばんばん蹴り上げるのではなく。

つまりコントロールできていない。その違いがよく分からない人は、テクニカてんこもりの踊りを見ると「わーすごい」と驚く。確かにそれは難しいテクニカが押し込められた踊りだから、ある意味驚嘆に値する。ある意味見た目が派手。ある意味ウケがいい。でもそれってフラメンコなの?・・・・そう私は問いたい。そういう踊りを見る度に脳裏に浮かぶ言葉がある。

「サーカス」

そう、サーカスなんだ。難しいことをたくさんやってお客さんをびっくりさせて喜ばせる。すごーいって拍手をもらう。そう、サーカス。

でもフラメンコの踊りってそうじゃない。そう私は思っている。

なぜ?

カンテがあるから。

カンテを聞いているから。その踊りはカンテから生まれるから。

だとしたらどうして、そこにそんなにたくさんのテクニカをてんこ盛りできるの?何のためにそのマントンとバタは存在するの?テクニカを見せつけるため?コンクールで高得点をたたき出すため?

サパテアードも身体の動きも、カンテやコンパスがあるからこそ。その曲にはその曲なりのコンパスがあり、アクセントがあり、うねりがあり、ためがある。なのにそれを無視してなぜカウント化して詰め込むのか?何のためのテクニカなのだろう。スーパーの詰め放題セールじゃないんだよ。

そこなんだ。だからコントロールされていないテクニカで踊られる踊りというのは、フラメンコにならない。それは技術の問題だけにとどまらず、一見技術とは真逆の位置にあるように思える「フラメンコ性」にまで及んでいるんだ。

ちなみにこのブログの「*」から「*」部分はエバが教えたことではありません。エバのクラスを受けて私考えたこと。だから間違っているかもしれない。でも残しておこう。今感じていることを忘れないために。もしかしたらあと何年か後の自分を助けてくれるかもしれないから。

2015年5月25日 セビージャにて。

May 18

CARTEL.inddCARTEL.inddみなさんこんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

早速ですが先週の土曜より、「第2回アントニオ・ペレスの仲間たち en OSAKAフラメンコライブ」チケットのお申し込みが開始しました。早々にたくさんのご連絡を頂き、在、1部8割、2部6割ほどのお席が既に埋まっております。誠にありがとうございます!チケットご希望の方は早めにバイレ出演者、もしくは

ticket.layunko@gmail.com(ハギワラ) までご連絡下さい。

ライブ詳細等はフライヤーデータをクリックして頂くか、こちら  にてご確認下さい。

  • フライヤー表面写真:アントニオ・ペレス
  • デザイン:マリア・サバテル

昨年開催したライブにお越し下さった皆様、共演者の皆様からの熱いご要望にお応えしての大阪ライブ第2弾。昨年に引き続きのリピーターのお客様、昨年逃してしまったので今年は是非!という方、過日のイベリアさん主催フラメンコフェスティバル大阪公演にて私の踊りをご覧下さった方(ありがとうございます。涙)etc…たくさんの方々がお申し込み下さっているようです。誠にありがとうございます!!!

出演者一同&アントニオ・ペレスが当日会場にてお待ち申し上げます!

2015年5月17日 セビージャにて。

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