Mar 22
¨SOMOS JAPON¨⑤ アンへリータ・バルガス
La Yunko | Somos Japon | 03 22nd, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はアンへリータ・バルガスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。彼女の姪・フランチェスカさんのご自宅でアンへリータと会いました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第5回 アンへリータ・バルガス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】立て続けに、兄弟(萩原註:イシドロ・バルガス、チャンギート)・夫・母・息子を亡くしたことよ。日本で起こったことと同じようなことが私の人生にも起こった。

【答え②】とにかく闘うこと。生きること。上を見ること。他の家族のために。自分のために。

【答え③】無回答。

【メッセージ】フラメンコを続けなさい。そして他人を助けなさい。スペインのフラメンコ界と日本のフラメンコ界は結びついている。同じ神様が見守っている。だから前に進み続けなさい。

アンへリータは字が書けません。写真のサインは姪のフランチェスカから一字一字つづりを教えてもらい、アンへリータ本人が一生懸命書いてくれたものです。書き終わった後、「生まれて初めて自分の名前をちゃんと書けたわ」と感慨深く自分のサインに見入っていたアンへリータが印象的でした。

そして彼女が右手に持っているのは、来週3月28日に日本(大阪)に行くという彼女のE-ticket。「スペインの皆に『日本には行くな、行くな』と言われて、私が『行く』と言っているのに誰も信じてくれない。だから今日、このチケットを証拠に持って来たのよ。」とアンへリータは言っていました。

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アンへリータが帰った後、フランチェスカが私にこんな話しをしてくれました。「ヒターノ(ジプシー)の多くは学校に行かないため、読み書きができない人が多いの。『学校ではスペイン人に洗脳される』と思っているヒターノが多いから。そして子供でも仕事が入れば学校に行かずに働きに行ってしまう。『お金を稼いで何が悪い?』と彼らは思っている。スペイン人とヒターノは全く考え方が違う。彼らには彼らのものの見方、生き方があるの。最近では、仕事を得るには読み書き計算ができた方がいい、と気づき始めているヒターノも増えてきたから学校に行き始めているわ。でも学ぶのは最低限だったり、学校に全く行かないヒターノもいることも事実なのよ。」

その後フランチェスカはアンへリータのこれまでの人生の苦しみを私に語ってくれました。アンへリータが直接語ったことではないので、このブログにはアップしませんが、本当に壮絶なものでした。人づてにその話しを聞いたことはありましたが、フランチェスカが話したことはそれ以上であり、そして真実はもっともっと壮絶なものだったと思われます。

2011年3月22日 人を生きさせる強さについて考えています。 セビージャにて。

Mar 21
¨SOMOS JAPON¨ ④ カルメン・レデスマ
La Yunko | Somos Japon | 03 21st, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日は、セビージャのフラメンコ学校「Centro de Arte y Flamenco de Sevilla」で教授活動を行うカルメン・レデスマへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第4回 カルメン・レデスマ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】いろいろあったけど、最大のものは父の死。(カルメンは涙目になる。)父は私の身体の一部だったの。私には夫がいないから、別離しているから、父がいつも経済的にも精神的にも助けてくれたの。でもその父が亡くなってしまって、私は病気の母と幼い息子と残されてしまった。(息つく暇もないほどの勢いで語るカルメン)そしてその父の死後、6〜7年前・・・確か・・・の交通事故。3ヶ月ベッドに寝たきりになった。もう二度と一生踊れないと思った。精神科医にも通ったの。本当に大きなトラウマが残ったわ。殺されたも同然だったのよ。

【答え②】人生にしっかりつかむものが必要なの。(身を乗り出して、自分の手のひらをぎゅっと握りしめるカルメン)私にとってのそれは踊ること。子供を育てること。その決意。そしてそれを乗り越えることなのよ。家族の結びつきも重要。特にスペインではね。物質はいつか元に戻る。でも人の死は戻らない。でも常にそこから這い上がる強さを持つの。あなたが生きてさえすればできる。それが必要なの。常に心の中には欠落がある。でも、とても強くならなくてはならないの。それと、その経験をした人しかそれを感じることはできない・・・。

【答え③】(目を大きく見開き、肩をすぼめるカルメン)私は一日一日を生きているの。今日と明日は違うから。そう、もう一つつらかったことを話すわ。昔ペドロ・バカンとのプロジェクトがあったの。コンチャ・バルガスやペパ・デ・ベニート達とも一緒のね。2ヶ月間、スイスで公演するはずだったのよ。そのリハーサルが土曜日にレブリーハで行われるはずだった。そしてその次の日にスイスに発つはずだった。でもそのリハーサル前日の夜中、ペドロは交通事故で亡くなったの。電話がかかってきたの。「カルメン、レブリーハに来て。でもリハーサルのためじゃない。ペドロがこの世からいなくなってしまった・・・・。」あの公演はもう二度とできない。そんな経験から、私は朝起きたら毎日、神様にありがとう、と言う。次の日に生きているかどうか分からないから。本当に本当に強くならなくてはならない。もちろん、ある時期は本当につらい。そういう時期があるのは分かっているわ。

(ずっとがまんしていた涙がこぼれ落ちそうになった時、私の手をカルメンがぎゅっと握る。そして二人で涙をぬぐう。)

9月に日本に行くことになっているの。ヨウコ(萩原註:小松原庸子スペイン舞踊団)の公演よ。4つの公演がある。その公演の計画を絶対に続けたい。(身を乗り出して声が大きくなるカルメン)絶対日本に行きたい。なぜならそれが「しるし」なのよ。この国はもう大丈夫だっていう。私が日本に行くことでそれを証明できるのよ。日本人は責任感が強い。私は日本を、日本人を、日本の文化をよく知っている。もう何年もいたから。 日本は私にたくさんのことを与えてくれた。私は日本という国に敬意を払っている。日本人は常に闘う。そして勤勉。絶対に復興するわ。私にはそれが分かるのよ。

【写真の中のメッセージ】「『前へ進もう』と言うだけでなく、日本の人達と一緒にいなければならない。この本当につらい状況において彼らを助けるために。 私は私の踊りでたくさんの元気と愛情を送ることができる。カルメン」

 

メッセージを書く前に、カルメンはインタビューとはうって変わって、小さな声で言いました。「私は字を書くのが苦手なのよ。きっとつづりを間違える。私が言うことをジュンコが書いて」No.と答える私。「カルメン、これはあなたが書かないと意味がないの。つづりなんて間違えたっていいじゃない。重要なのは心だから。踊りと一緒でしょ?」 そしてカルメンは言いました。「そうね。間違えたっていいわ。私がどういう人間かみんな分かっているだろうから。」そして書き終わった後、カルメンは言いました。「なぜこれを書いたか説明するわ。踊りは私の人生なの。人生の中でとてもつらいことがある度に私は闘った。踊った。働いた。踊りが私を立ち上がらせてくれたのよ。今が大変な状況なのはよく分かる。でも続けなければならないの。踊り続けるのよ。」そしてこう言いました。「彼(写真の中の絵の人物)はティオ・フアニ。ナノ・デ・ヘレスのお父さんよ。彼と一緒に写真を撮って。彼も彼の人生の中で本当に闘ったから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年3月21日 カルメンと別れた後、私は涙を止めることができませんでした。 セビージャにて。

Mar 20
¨SOMOS JAPON¨③ ミラグロス・メンヒバル
La Yunko | Somos Japon | 03 20th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日は、クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校にて教授活動を行っている、ミラグロス・メンヒバルへのインタビューと彼女からのメッセージです。「ミラグロス、差し支えがあるなら別の質問に変えてもいいですし、無回答でも問題ありません。」と言うと、ミラグロスは「何でも答えるわよ。日本のために。全部。」とおっしゃって下さいました。レブリーハのペーニャ公演後、楽屋でのインタビューです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第3回 ミラグロス・メンヒバル

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】背中の手術。1991年のことだった。医者に「もう前のようには踊れない」と言われたの。医者は私の踊りをビデオで見たのよ。私が以前行っていたバタ・デ・コーラでの動きやブエルタ(回転)はもうできないって。私は会社員のように背中をまっすぐにして座って仕事をする訳ではないの。(パソコンのキーボードを打つまねをする。)私の踊りのためには、背中を動かさなければ。でもそれがもう無理だと言われたの。本当にショックだった。それから私は2年間踊らなくなったの。そしてその後も手術は続いた。今も。今度は3度目の背中の手術をする。首の手術だってしたのよ。

【答え②】ゼロから始めたの。ゼロから。もう以前と同じことはできない。でもそのかわりに私は見つけたの。カンテを聴くこと、カンテを踊ること、踊りにサボール(sabor:直訳すると「味」)を与えること。そしてこの手。(この時ミラグロスは彼女の手の動きをしてみせる。)

(今さっき見たミラグロスの踊りがまさにそうであった、と萩原深くうなずく。)

現代は多くの人がたくさんの回転技やサパテアードを用いて踊る。でも私は一つの事を失って、別のことを手に入れた。その別のことが私の踊りを生まれ変わらせたのよ。でもそこに至るまでは本当に本当につらかった。

【答え③】教授活動。常にフラメンコとともにいること。そしていつか私は舞台を去る。70才になってまで踊ろうなんて思っていない。他人に言われる前に自分で分かるから。引退の時をね。

【写真の中のメッセージ】私がこんなにも愛するすばらしい国に起こったこの悪夢が全て過ぎ去りますように。この自然災害が全て過ぎ去りますように。(しかし)それによって日本が平和で勤勉で良い人達の国であることが示されました。私は私の第2の国、日本といつも一緒にいるでしょう。 ミラグロス・メンヒバル

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2011年3月20日 昨日のアンヘルのメッセージとミラグロスの人生が重なってきました。  レブリーハにて。

Mar 19
¨SOMOS JAPON¨ ② アンヘル・アティエンサ
La Yunko | Somos Japon | 03 19th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はセビージャ・トゥリアーナにイサベル・バジョン・フラメンコ舞踊学校「ADOS」を構える、アンヘル・アティエンサへのインタビューと彼からのメッセージです。

第2回 アンヘル・アティエンサ

(フラメンコ舞踊家・フラメンコ舞踊学校「Ados」主宰)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】 今日本で起こっているような・・・・困難な状況は・・・自分の人生において・・・まだ・・・ありません。(言葉を切り、考えながら話していました。)

【答え②】 踊り手としての人生の中で、最初の頃は困難でした。踊り手になれるのかどうか、踊り手として食べていけるのか、それが全く分からないまま、不安で、不安で・・・でもそれでも自分の道を選び、貫き、闘いました。その生き方が自分に力を与え、今の自分があります。

【答え③】 この学校を続けていくこと。自分自身の踊りを確立すること。それを生徒に教えること。今まで学んだこと全てを生徒に与えること。

【写真の中のメッセージ】「一つの扉が閉まる時、常に別の扉が開く。元気を出して!!!」 そしてアンヘルは続けました。「日本で今起こっていることとは比べられないけど、例えば、人とけんかをするとするよね。相手のことを嫌に思っていてでも何も言わない時は、何も起こらない。でもその相手に対して何かを言った時、言い争いにはなって、それはよいことではないのだけど、言い争いをしてみて、初めて自分が何が必要なのか、実は相手を必要としていたこととか、もしくは相手が自分を必要としていることとか、そういうことに初めて気づく。それは言い争わなければ分からないことなんだよ。言い争いをするのは痛いし、つらい。でもそれは相手を理解するための必要なステップだということに気づくんだ。私の言う事、分かってもらえるかな・・・。」

すると、このインタビューを隣で聞いていた受付のスサーナがこんなことを言いました。「これは何かで読んだけど、インドネシアで津波があった時に、たくさんの人が全てを失った。でも津波によって得たものある。今まで出会いもしなかった人と出会ったり、それによって結婚した人もいたらしいわ。これは不謹慎な言い方かもしれないと思うけど、津波をきっかけに、何かが新しく始まったとも言えるのよ。」そして彼女は続けました。「私もメッセージ書いていいかな。私はアーティストでもないし有名人でもないけど、こんな時に必要だと思える言葉があるの。誰の言葉か忘れてしまったけど。」

  • 【スサーナ・イバニェス(フラメンコ学校Ados 受付)からのメッセージ】「困難な時にこそ、その人間の質があらわれる。」そのスサーナが、学校に伴奏に来ているギタリスト2人に一緒に写真に写ろう、と声をかけました。一人のギタリストは「私は有名なアーティストじゃないし、写真に写ったからといって日本を助けた、というつもりはないよ。でも日本を助けたいという君の気持ちと僕の気持ちは一緒だ。もしチャリティーコンサートなどをやるなら、是非声をかけて。いつでも弾くよ。」と言ってくれました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011年3月18日 アンヘルのインタビューから輪が広がったことを感じました。セビージャにて。
Mar 18
¨SOMOS JAPON¨ ① マヌエル・ベタンソス
La Yunko | Somos Japon | 03 18th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

本日より、こちらセビージャのフラメンコ・アーティストへのインタビューと日本のみなさんへのメッセージを掲載します。この企画名は「SOMOS JAPON」。日本のみなさんを勇気づけるために、「日本と一緒にいる」こちらのアーティストの気持ちを届けるためのものです。自分がここセビージャで今すぐにできることを、と思いこの企画を始めました。4月中旬の一時帰国まで、できる限りたくさんのアーティストの声をアップしていきたいと思います。

第1回目はトゥリアーナにフラメンコ舞踊学校を構える「マヌエル・ベタンソス」です。

(インタビュー、写真:萩原淳子)

第1回 マヌエル・ベタンソス

(フラメンコ舞踊家、「マヌエル・ベタンソス・フラメンコアカデミー」主宰)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

上記の質問に答える前に、マヌエル・ベタンソスはスタジオ入り口左に置いてあるアルバムの中から、日本人との写真を探し始めました。ゆっくり1枚1枚ページをめくっています。そして上記の質問に答える前に、こう話し始めました。

「私は日本人ととても近い関係にあります。非常に。本当に非常に。なぜならば日本人はこのフラメンコというアルテ(芸術)に対して愛を持っているから。そしてそのアルテに従事しているから。私は日本という国、文化を愛しています。日本には私の友達も生徒もたくさんいます。私はどんな時でも一緒にいます。」

答え①】今回日本で起きたようなことは今の所私の人生では起きていません。私の近しい家族も元気です。今の所は。その意味で日本人と同じように感じることはできませんが、理解することはできます。

【答え②】アーティストとしての道のりの中で困難な状況はたくさんありました。とにかく闘うことです。

【答え③】自分のフラメンコ学校を続けること。自分の生徒達をプロフェッショナルな踊り手に育てること。自分の教授方法を世界に広めること。自分の舞踊団を作る事。時間をかけてね。

【答え④】日本の友人、生徒達、先生方。長い長い年月の、本当に昔からの・・・・(しばらくの沈黙)・・・・・。日本人は強い。確固たるものを持っています。世界の皆の力をかりてどんな状況も乗り越えられると思います。今の状況の日本の人に言葉をかけるのは難しい。でも、落ち着いて。そして我慢強く。セビージャにいる日本人も自分の国から離れていることで苦しんでいると思います。本当に本当に、大変な状況に、私は心を痛めています。

【写真の中のメッセージ】あなた達のことを考えています。この時を乗り越えるための強さを。私は自分があなた達のうちの一人であると感じています。できるだけ早く全てが過ぎ去りますように。NIPON人のために力強さを。エネルギーを。あなた達は私の一部です。

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2011年3月18日 たくさんのアーティストが協力してくれそうです。 セビージャにて。

Mar 16

みなさんこんにちは。

この度の東日本大震災により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。被災地の皆様、そのご家族の皆様、心よりお見舞い申し上げます。

大変な時にメールを下さった生徒のみなさん、ブログ愛読者のみなさん、本当にどうもありがとうございました。毎日毎日テレビとネットにかじりつき、情報を得るのに必死です。私の家族は無事だったとはいえ、自分の国で起こっていることと考えると涙が出てきます。

自分ができることは何かを考え、4月16日〜30日に東京・中野で行われる「第7回少人数制クルシージョ」で生徒の皆様から頂く受講料を義援金として日本赤十字社に送ることに致しました。もともと少人数制のクルシージョなので大きな金額にはならないのですが、少しでも自分ができることがあれば、と思っております。

またこちらセビージャでも、義援金を送れるような企画を検討中です。この企画は私の一存では決められない部分が大きいのですが、セビージャの多くのフラメンコ・アーティスト達の熱い気持ちを届けられればと思います。詳細が決まりましたらこちらのブログで発表してゆきたいと思います。

私ができることは本当に小さなことですが、一人一人が力を合わせれば大きなエネルギーになると信じています。

2011年3月16日 セビージャにて。

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