Apr 3
¨SOMOS JAPON¨ ⑬ ナノ・デ・ヘレス
La Yunko | Somos Japon | 04 3rd, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はナノ・デ・ヘレスへのインタビュー&彼からのメッセージです。昨日行われた、「FESTIVAL FLAMENCO A BENEFICO DAMNIFICADOS DE JAPON」(日本の被災者のためのチャリティー・フラメンコ・フェスティバル)に急遽駆けつけてチャリティー出演して下さいました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第13回 ナノ・デ・ヘレス

(フラメンコ歌手)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】今だよ。仕事がない。昔は自分のグループを持っていたり、一人で歌ったりして仕事があった。でも今はない。スペインは経済危機だから。世界的にも。2004〜2005年くらいから仕事がなくなってきた。以前はフェスティバルがたくさんあって、例えば一つのフェスティバルで8人も実力のある歌い手が出演していたとするだろ。でも今は2〜3人しか出演しない。フェスティバル自体も減っている。今が本当にひどい時期なんだ。私は今62才。40年以上アーティストとして歌っている。昔はチョコラーテやチャノ(・ロバート)達と一緒に仕事をしていたのに。今本当に仕事がないんだ。

【答え②】以前だったら歌わなかったような場所でも歌うしかない。出演料が安くても。今度8つのペーニャ(萩原註: “ペーニャ・フラメンカ”フラメンコ愛好会のこと。)を回るよ。でもペーニャ公演だって、ペーニャがお金を払うんじゃないんだ。行政がペーニャにお金を出して、行政から出演料が支払われる。だから支払いが滞るんだよ。歌った後、何ヶ月も経ってからやっと支払われるんだ。もうすぐフェリア(萩原註:各地で行われるお祭りのようなもの。1週間続く場合が多く、フラメンコの催しものが行われたりするので、一部のフラメンコ・アーティストにとってはある意味稼ぎ時でもある。)もあるから。とにかくあるもので稼ぐしかない。食べていくために。

【答え③】自分のCDを録音したいんだ。今自分の中にある歌を10曲くらいね。CD用に歌を作ったりしない。自分の心の中から歌を取り出すんだ。今年中に完成させたい。フェスティバル出演に向けてね。

【メッセージ】トウキョウへ愛をこめて。ナノ・デ・ヘレス
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ナノの話していたことは、本当に切実な問題です。ナノに限ったことではありません。たくさんのスペイン人アーティストが仕事を失っています。もしくは少ない出演料でも引き受けざるを得なかったり・・・。スペイン人アーティストだけでなく、一般スペイン人も。仕事を失って途方にくれている人はたくさんいます。そんな状況の中でも日本のためにチャリティー出演して下さるアーティスト。生活が厳しくてもチケットを買って下さるセビージャの人達。
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私が日本人グループの中でチャリティー出演した、30日の公演の義援金は2755.52ユーロだったとのことです。アーティスト達が、セビージャの人達がどんな経済状況で日本のために協力して下さっているのかを思うと胸がつまります。その気持ちはお金には換算できないけれど、お金よりも本当はもっと価値があるのではないか・・・・復興に必要なものは確かにお金だけど、でもお金じゃないものも必要なんじゃないか、と私は思います。
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2011年4月3日 セビージャにて。

 

Apr 2
¨SOMOS JAPON¨ ⑫ エバ・ルイス
La Yunko | Somos Japon | 04 2nd, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はエバ・ルイスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第12回 エバ・ルイス

(フラメンコ歌手)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】スクールバスの交通事故。13年前の昨日、起きた。3人の友達が亡くなった。私はその日バスに乗っていなかったの。その日、なぜだか分からないけど学校に行きたくなかったの。なぜだか分からない。でもどうしても行きたくなくて、母に「喉が痛い」とか適当な理由をつけて学校を休んだ。だから私はバスに乗らなかったの。そんなこと今まで一度もなかったけど、その日だけは乗らなかった。そしてその私が乗るはずだったバスが交通事故にあった。

当時私はレブリーハに住んでいてヘレスの高校に通っていた。スクールバスはレブリーハやいろいろな村の生徒達を乗せていた。ものすごい急なカーブが途中にあるの。とても危険な。運転手は毎日毎日20年以上その通学路を往復していたから、そこが危険なのも知っていたし、万が一事故にあった時のことを頭の中でシュミレーションし、どのようにハンドルをきるのか準備もしていたらしい。でもだめだった。ブレーキが間に合わなかった。バスの左側に乗っていたの生徒達のうち3人が亡くなった。片目を失明した子も、全身付随になった子もいた。

私は思った。私が乗るはずだったバス。私の友達は亡くなって、私は生き残った。なぜ私はバスに乗らなかったのだろう、って。事故は私のせいではない。でも自分に罪があるような気がしていたの、ずっと。もし乗っていたとしても死傷者が増えるだけだから乗っていなかった方がいいに決まっている。でも、なぜ私は乗らなかったのだろう、私が死ぬはずだったんじゃないか、でも友達が死んだ、とずっと思っていた。そして私のように思っていた友達が20人以上いた。普段そのバスは50人以上の生徒でいっぱいだったの。でもなぜかその日に限ってバスはがらがらだった。20人以上の生徒がその日学校を欠席したの。皆、私のようになぜか分からないけど、「今日は学校に行きたくない」って思って休んだ、と後から聞いた。私たちは助かってしまったのよ。

別の私の友達はバスに乗っていた。彼女はいつも運転席の真後ろに座っていて勉強をしていたの。いつも。でも事故の日、急にバスの電気が消えたらしいの。勉強できなくなってしまったから、通路をはさんで座っていた隣の子に「席を交換して」と言った。その子と私の友達は席を代わった。そしてその3分後に事故は起きた。席を代わった子は亡くなった。「席を交換して」と頼んだ私の友達は生き残った。隣の子は私の友達のいとこだった。私の友達はずっと自分を責め続けた。「私が死ななければならなかったのに。私のせいでいとこが死んだ。席さえ代わらなければ、いとこは生きていたのに。」

無事だった人も生き残った人も私たちはみんな苦しんだの。あの「オンセ・エメ(11.M)」(スペイン同時列車爆破テロ事件。9.11テロから2年半後の2004年3月11日、マドリッド中心部の3つの駅で4つの列車が次々と爆破された。通勤通学客でのラッシュ時を狙った卑劣なテロで、200人が死亡、約1500人が重軽傷を負った。)の時もそうだった。あの時マドリッドにいなかったスペイン人全員が皆苦しんだのと一緒。

【答え②】話すことで、よ。私たちは話したの。話して話して話して、話して・・・・。事故後1年経っても2年経ってもずっと。何度も何度も私たちは話した。話すためのグループを作ったの。あの時何が起こったのか、自分が何をしていたか。何を感じて、何を思っていたのか。私たちは話したの。泣き出す人もいた。でも誰も止めなかった。泣きたければ泣けばいい。とにかく話したの。同じ話しを30回繰り返そうが、何度も何度も話したの。

【答え③】フラメンコ。フラメンコの歌い手として成長すること。そして人間としても。それ以外のことを答えるのは難しい。本当は分かっていなくてはいけないのかもしれないけど・・・。私は一日一日を、今を生きているの。5年後自分が何をしているかなんて分からない。でもフラメンコと共にいることは確かだわ。フラメンコの歌い手として成長したいの。人間としても成長したいの。

【メッセージ】日本の人達へ、私の全ての愛情と賞賛と気持ちをあなた達へ送りたいと思います。これほどまでの大惨事にどのように立ち向かうのか模範例を示しているのはあなた達だから。私たち全員が、日本人の平和的な振る舞いと努力できる力、素朴さから学ばなくてはならないでしょう。

フラメンコの抱擁を全ての人へ。

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2011年4月2日 このエバが、今日のチャリティー公演で私にソレアを歌ってくれます。 セビージャにて。

Mar 28
¨SOMOS JAPON¨ ⑪ ピラール・オルテガ
La Yunko | Somos Japon | 03 28th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はピラール・オルテガへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第11回 ピラール・オルテガ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】私は日本の人たちと同じ状況にいない。そこで生きていない。自分の人生と比べることはできないわ。私の人生はよくある人生よ。比べられるものがないわ。

【答え②】言葉に表すことができないわ。比べられる人生ではないから。

【答え③】家族が幸せになること。素晴らしいアーティストになること。素晴らしい人間になること。素晴らしい人間というのは、例えば人を助ける人ね。

【写真のメッセージ】「このつらい時を乗り越えるための、たくさんの元気と強さを。あなた達を支え、私の全ての愛情を差し上げます。 ピラール・オルテガ」

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2011年3月28日 セビージャにて。

※3月30日(水)に、セビージャ・チャリティー公演第2弾が行われます。(左記チラシ。公演詳細に関しては、スペイン、セビージャ在住フラメンコ研究家であり、今回の企画責任者である志風恭子さんのブログ3月28日付にて。blog-post_28.html

前回26日の第1弾公演では裏方としてお手伝いさせて頂きましたが、30日の公演では企画協力し、日本人グループの中の一人として踊ります。昨日初めて日本人グループ全員顔合わせの練習を行いました。出演者が確定したのが一昨日、本番まであと2日ですのでしっかり準備をしたいと思います。明日から公演日までのインタビュー掲載はお休みになるかもしれませんが、自分のできる形で日本のためにがんばりたいと思いますのでよろしくお願い致します。

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Mar 27
¨SOMOS JAPON¨ ⑩ アリシア・マルケス
La Yunko | Somos Japon | 03 27th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はアリシア・マルケスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第10回 アリシア・マルケス

(フラメンコ舞踊家、「アリシア・マルケス・フラメンコスタジオ主宰」)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】2年前の母の死と、5ヶ月前の夫の死。

【答え②】ずっとつらかった。でも私にはつかむものがあった。娘よ。彼女が私を助けてくれたの。そして自分に愛情を注いでくれる人達。彼らのためにも乗り越えた。

【答え③】一日一日を生きること。今現在、それだけよ、持っているのは。明日あれをやろう、これをやろうと考えて後回しにしないの。今のうちにそれをやるのよ。今日できることを。そして人生を楽しむこと。人はいつ死ぬか分からないから。それを私は学んだわ。

【メッセージ(写真)】生には、前に進みたくないことや時があるのは分かっています。でも乗り越えるためには愛の全てを心の中から探して取り出さなければならないのです。 愛と時間を。」

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このインタビュー企画を始めるまで、私はアリシアに習っていました。一人一人生徒をきちんと見て、毎日毎日一生懸命教えて下さる。時には厳しく、時には冗談を交えて。そして私は、アリシアが楽しそうに笑う時の目元のしわがとても素敵だなとずっと思っていました。幸せに年齢を重ねた女性のしるし。たくさんの生徒に愛され、かわいいお嬢さんの成長を見守るアリシア。今の私は「小じわ小じわ〜」と気にして目元美容液を塗りこんでいるけど、いつの日かアリシアみたいなしわが刻まれている女性になりたいなと思っていたのです。

だからインタビューの第一質問の答えを聞き、私は凍り付いてしまいました。全然知らなかった・・・。そんなことをおくびにも出さずに教授活動を続けていたアリシア。彼女にはきっと、彼女が考えている以上に、彼女を愛している人がたくさんいると思う。なぜならアリシアはどんな人にも愛を与えているから。

このインタビューのせいでつらい思いをさせてしまった。「ごめんなさい・・・。」と言ったきり胸が詰まって何も言えなくなってしまった私に、アリシアは優しく微笑んで言いました。「正直言って、今の私には日本の人に与えられるほどの元気がない。でも重要なことは、一人一人が力を合わせることなの。そうすることで何かを動かすことができる。私で何か役に立てるのなら、いつでも声をかけてね。」

「愛と時間を」・・・・・・この言葉はアリシアが自分自身にも向けた言葉なのかもしれません。

2011年3月27日 セビージャにて。

Mar 26
¨SOMOS JAPON¨⑨ アナ・モラレス
La Yunko | Somos Japon | 03 26th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はアナ・モラレスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。「自分のつらい体験を話すことで日本の人達の役に立つなら何でも話すわ。私には隠すことなんて何もないから」そう言うアナの笑顔でインタビューが始まりました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第9回 アナ・モラレス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】父の死。(アナ、笑顔で答える。)12月で父が亡くなって1年経った。父の死は自分の人生の中で一番つらいことだったわ。父は私の身体の一部だったの。自分の人生を失ったのと同じ。自分の腕や足ともぎ取られたのと同じだった。私は完全に空っぽになったの。人は死ぬ。それは当たり前のことだけど、絶対に乗り越えることなんてできない。今までと違う方法で生きて行くしかないのよ。愛する人を失う苦しみ、悲しみに対して準備できている人なんていない。どんなに勉強しても、どんなにいろいろなことを教わってもね。
【答え②】落ち込んでそこから抜け出せない人も多い。でも私はアーティストだから、自分の痛みや苦しみを表現するの。表現できるの。踊りが私にとって立ち上がるための薬だったのよ。でも踊りでなくてもいいのよ。文章を書く、絵を描く、お年寄りを助けることだってそう。私たちスペイン人はただ黙っていることができないの。何もしないでいることができないのよ。
自分にとって「自然」でいること。無理して前に進む必要なんてない。痛みがあるならそれと一緒に生きるの。人生には喜びがあるように悲しみもある。両方あって人生なの。でもそこに留まっていてはだめ。通り過ぎなければ。でも飛び越えてはだめよ。「自然」でいるのよ。時間が少しずつ痛みを和らげてくれるから。だから「自然」にしていればいい。
周りの人達の愛情や友情も必要。人前で自分の痛みを話すことを恐がらないで。泣くことを我慢しないで。そしてそれを受け止めてくれる人達がいるということを忘れてはだめ。自分がいつまでも苦しんでいたら、そんな周りの人達が幸せになれない。あなたの周りには、あなたが幸せにしなくてはいけない人がいるのよ。
【答え③】私のプロジェクトは踊りと、家族を作ること。私個人の人生。まず踊りの方では、自分の第2作品目のソロ公演を行いたいわ。今その公演名を考えているところなの。今、社会がとても冷たい感じがする。それがフラメンコにも現れていると思うの。でもフラメンコに必要なのは「感情」よ。伝統的なスタイルだろうが、前衛的なスタイルだろうが、特殊な舞台装置を使おうが、それはいろいろあると思うけど、でもどんな形にしろ絶対に失っていけないのは「感情」。スペインは今経済危機で、たくさんの人が職を失い、皆無気力になっている。それがフラメンコにも現れているわ。でも私は、観客に楽しんでもらいたいの。自分も楽しみたいの。そういう舞台を創りたい。そして他のアーティストとの共演ね。ルベン・オルモ、ハビエル・バロンの舞台へ参加したりね。私は一人で踊るよりいろいろな人と共演したり一緒に何かを創るのが好きなの。教授活動やタブラオで踊るのも好き。でも今はソリストとして踊りたい。そういう時期なの。
そして自分個人の人生は、ヘスス・ゲレーロとの人生。素晴らしいギタリストでもあるのよ。私の公演にも参加してくれている。今日は二人で家を見に行ったの。子供を持ちたいと思っているの。
【メッセージ】
つらいことがあると夢は消える。踊る意欲も。でもそれを持たなくてはいけないのよ。持てるように自分がポジティブにならなくてはいけない。探すのよ。今それがないのなら、いつの日かそれを手に入れることができると信じること。信じるのよ。
写真の中のメッセージ:心を生まれ変わらせる力を持たなければならない。幸せになるために。あなたの周りの人もあなた自身との幸せを分かち合えるように。アニータ(萩原註:アナの愛称)
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2011年 3月26日 最初から最後まで笑顔で、そして一生懸命インタビューに答えてくれたアナ。彼女の内面の強さと優しさに心を打たれました。 セビージャにて。
Mar 25

みなさんこんにちは。

今日は3人の踊り手へのインタビュー&彼らからのメッセージです。最初はマヌエラ・レジェスへのインタビューをお願いしていましたが、マヌエラのお友達ジョランダ、アレハンドロも急遽協力して下さる事になり、彼らの希望で3人一緒のインタビューになりました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第8回 マヌエラ・レジェス、ジョランダ・エレディア、アレハンドロ・グラナドス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】マヌエラ(写真上左):私には日本の状況と比較できるようなつらいことはなかったの。これまでの人生の中で浮き沈みはあり、愛を失ったことはあったけど、そんなことは比べものにならないし。そんな私がこのインタビューに答えるなんて正直言って恥ずかしいの。
ジョランダ(写真上右:私も同じ。でも私と日本の関係はきっと深いと思うの。彼らのために役に立ちたいから今日来たのよ。
アレハンドロ(写真下):私個人の問題は、自分自身の頭の中で問題を作り出していたことなんだ。物ごとへのとらえ方、考え方、そこに問題があったんだ。特に若い時にね。
【答え②】ジョランダ:私は人生の分岐点に日本にいた。例えば兄の死。彼のお葬式の時私は日本にいたのよ。自分が乗り越えた、というよりも、日本が乗り越えさせてくれたの。日本には何か特別なものがある。人を落ち着かせる何か。もし他の国にいた時に兄の死を知ったのなら、私は乗り越えられなかったかもしれない。うまく言えないけど、あなた達が人種的に持っているものだと思うの。私は外国人だから外からの視点であなた達を見ているけど、だからこそかえって日本人のことをよく知っているということもあると思うのよ。
マヌエラ:私の人生は浮き沈みの連続だった。沈む度に日本へ行った。日本人の友達が私を助けてくれたの。日本は私にとって治癒するための場所だったの。日本人は自身の感情を受け入れ、他人の感情をも認めるという哲学を持っている。「死」に関してもそう。スペインで「死」のことを話すのはタブーなの。みんな「死」を隠してふたをしてしまう。日本は違うわ。1年に1回、死者の魂が戻って来て、生きている者と一緒に過ごすでしょう?その風習を私は日本で見たわ。威厳を持って「死」を受け入れることができる。だから落ち着きと希望を掴むことができるのだと思うわ。
アレハンドロ:私の答えは個人的なものだから役に立つか分からないよ。
ジョランダ:アレハンドロ、自分ではそう思うかもしれないけど、もしかしたらあなたの答えが誰かのヒントになるかもしれないわよ。インタビューを読む人はいっぱいいるだろうし、人それぞれ状況や心境によって捉え方が違うだろうから。
アレハンドロそうか。自分と闘うこと。自分の人生の中で出会う相手を観察すること。他人は自分を映す鏡だから。他人から学ぶんだよ。でもこれは本当に、私個人のことだから、日本の状況に重ねることはできないと思うけど・・・。
【メッセージ】マヌエラ:決して忘れないで。過去も経験も。現在の愛情も。未来の希望も。あなた達への愛情を。マヌエラ
ジョランダ:あなた達は一人ではない!GANBATENE!!!!
アレハンドロ:今週土曜日にセビージャで行われる震災チャリティー公演で踊るよ。
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上記チャリティー公演にも3月30日アラメダ劇場、4月2日コレヒオ・メディコと、セビージャ各地でチャリティー公演が行われます。今週土曜日の公演(上チラシ)では私は裏方のお手伝い、30日と2日の公演では企画協力・出演します。セビージャに住む日本人達がいてもたってもいられない、何かしなければ、という気持ちがそれぞれ起こり、チャリティー3公演となりました。それ以外にもいろいろな所で募金活動などが行われているようです。セビージャ在住日本人とフラメンコ・アーティスト達が集結し始めています。全ては日本のために。
2011年3月25日  セビージャにて。

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