Mar 24
¨SOMOS JAPON¨⑦ フアン・ポルビージョ
La Yunko | Somos Japon | 03 24th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はフアン・ポルビージョへのインタビュー&彼からのメッセージです。

第7回 フアン・ポルビージョ

(フラメンコ舞踊家、「フアン・ポルビージョ・フラメンコスタジオ主宰」)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】叔母の死。私にとって叔母は母同様だった。いい時も悪い時もいつも自分を助けてくれたんだ。その叔母が9年前に亡くなった。私は何もする気がなくなった。他人との関わりを断ち、踊る気になんてもちろんならなかった。人生の一時期、完全に落ち込み、それが私の人生の分岐点となった。

【答え②】自分を救ってくれたのはフラメンコ。フラメンコは私にとって「自由」なんだ。そして自分が感じること。愛、それを失うこと、悲しみ、全ての感情を踊りで表現することで私は救われた。そして「POR ELLA」という舞台作品を創って叔母に捧げたんだ。家族の死にあっても、落ち込み続けていてはだめなんだ。闘わなければ。常に前に進むために。今でも叔母のことを思い出す。ある場所に行って「ああ、ここは叔母が好きな場所だったな」とか。そして自分が踊る前には必ず叔母のことを思うんだ。必ず。・・・・まだ私は乗り越えていないのかもしれない・・・

【答え③】学校を続けること。フラメンコを活性化させること。教授活動。自身のフラメンコ公演を行うこと。自分の恩師であるファルーコ、マティルデ・コラル、マノロ・マリンに捧げる公演をしたいんだ。

【写真の中メッセージ】前に進み続けるめのたくさんの元気と強さを。あなた達の国は素晴らしい。あなた達が素晴らしいように。たくさんの愛をこめて。 フアン・ポルビージョ フラメンコのキスを全ての人々へ。

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2011年3月24日 たくさんの方々からメールを頂いております。私もがんばります。 セビージャにて。

Mar 23
¨SOMOS JAPON¨⑥アデラ・カンパージョ
La Yunko | Somos Japon | 03 23rd, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はアデラ・カンパージョへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第6回 アデラ・カンパージョ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】すばらしいことがたくさんあったように、つらいこともたくさんあった。交通事故。その瞬間私の足は車の天井まで上がり、頭が肩に陥没した。私の弟が私の身体を伸ばした時に、首にものすごい熱さを感じた。熱さを。そして全身の震え。社会保障の医者(萩原註:無料で医者にかかることができるが、診療予約をとれるまで数ヶ月かかるなど、デメリットもある。)に行ったら、首の骨に問題があると言われたので首にギプスをしていたわ。最初は手先の感覚が少し弱くなったくらいだったの。それがどんどんひどくなり足も動かなくなった。レントゲンもとったし、精神科医にも通ったわ。それで5ヶ月過ぎた。でもある日階段が昇れなくなり、そして意識を失って倒れた。

そして一般の医者(萩原註:医療費は患者が全額負担だが、すぐに診療予約がとれるなどメリットがある)に行ったの。そしてその医者に言われた。「目を閉じて手を鼻につけて。」私の手は胸の位置にしか上がらなかった。「目を閉じたまま手を耳につけて」私は自分の耳がどこにあるのか分からなかった・・・。その時初めて脊髄に問題があることがわかったの。

その医者にかかってからは早かった。すぐに専門医のところに行き、 神経が集中している部分に3つの損傷があるのが分かった。だから手足にまで支障をきたしていたの。5ヶ月もの間ね。そしてその専門医に診てもらってから5日後に手術することになった。

でもその5日間が私の人生にとって最悪の日々となったの。なぜならその手術をすることにより全身付随になる可能性が80%だと医者に言われた。脊髄の5ヶ月間の圧迫を取り除く手術により、反作用で脊髄が完全に破壊される可能性が高い、そしてその場合は全身付随になると。それを聞いてから手術までの5日間私は言い続けた。「もし全身付随になるなら私を殺して!」「踊れなくなるなら殺して!」と。自分の母に一生下の世話をしてもらうなんて私にはできない。「私を殺して!」と。

5日後手術は行われた。その後40日間私は、あごから胸の高さまでのギプスをして全く動けなかった。母に身体をふいてもらい、ストローで食事をした。そしてそれからの4年間、私の踊りのレベルは下がった。ものすごく。コンパスは外す、回転はできない。多くの人が気づいていなかったかもしれないけど、自分には分かっていた。そしてそんな状態の身体でどう踊るべきか、見つけるまでに4年かかった。

つらかったのはそれだけではない。他人からの言葉。手術後いろいろな人から電話がかかってきた。私には容態を聞いた後で「アデラはもう踊れない」「彼女は終わった」と吹聴する人がたくさんいたのを私は知っている。そして誰も私に仕事の話しを持ってこなくなった・・・。

医者からは「2年間は踊るな」と言われたの。踊ったら保険会社からお金をもらえなくなるから。保険会社は最終的に500万ペセタしか私に支払わなかった。アントニオ・カナーレスとの舞台に出演した私の踊りのビデオを持ち出され、それで終わり。「ほら、もう踊っているじゃないか」って。そのお金で私は大きな大きな車を買った。もし自分が事故にあってもこれだけ大きな車なら私を守ってくれると思って。

これが私の身に起きた事。過不足なく話したわ。でも私に起こったことなんて、今の日本に比べたら何でもないわ。何でもない。

【答え②】私の母には全てを語ったの。他の家族にも話していないことすら。母が全てを知っている。だから私は自分の家族のために乗り越えた。そして踊ることへの意欲。毎日「明日がある、明日がある」と思って踊った。神を信じる事。私にとっての神様は「サンタ・アンへラ」なの。重要なのは身体じゃない。だって私の身体は思うように動かなかった。ここ(自分の頭を指さす)。どう考えるかで乗り越えることができた。

そして私を助けてくれたアーティスト仲間がいる。メルチェ・エスメラルダ。彼女との公演で、私は自分の出番の後、めまいで倒れ、吐いた。踊り終わったメルチェは着替えもせず私を介抱してくれたの。ハビエル・バロン、ファルーカ。いつも電話をかけてきてくれた。そして一番はアントニオ・カナーレス。アーティストとして彼は私を助けてくれたの。彼との公演でカナーレスは「3分しか踊れないならそれでもいい。その日全く踊れないなら、ただ舞台に立てばいい。」そう言って私を彼の舞台に出演させてくれたのよ。

【答え③】今現在を生きる、ということを私は学んだ。今を生きるだけ。闘い続けること。息子を育てること。よい母になること。踊りは踊れるように踊るだけ。どんな公演をしようとか、そんなプロジェクトはない。プロジェクトのある人は私みたいな経験がない人よ。健康さえあればいい。そしてその健康は息子のため。息子が元気で将来家族を持ってくれることが私の夢なの。

【答え④】1秒で人生は変わる。過去は終わったこと。未来は不確か。今現在を十分に生きて健康でいること。落ちこんで泣いていては何も変わらない。どこかに到達することを考えること。探すのよ。悪いことは勝手にやってくるけど、よいことは探さなければならないから。

写真の中のメッセージ:「あなた達は私の心にいます」。このメッセージを書く前に、アデラはかなりの間悩んでいました。「私の人生から得たことを要約することはできないし『前に進め』なんて書けないわ。自分の子供が死んでしまった人に。私は自分が母親だから分かるのよ。子供に与えるミルクや水がない状況の人達になんて書いたらいいの・・・」

アデラが悩んでいる間に、私は今までに見た彼女の踊りを思い出していました。インタビューの中にあった、アントニオ・カナーレスとの舞台。容姿に恵まれたアデラの踊りは美しかった。でもなんだか精彩を欠いているな、と思った気がする。・・・そうか、そういうことだったのか・・・そして昨年のセビージャ・カハソル劇場での初のソロ公演のソレア。今思い出しても涙が出て来るほど素晴らしかった。多分私はあのソレアをずっと覚えているだろう。そしてついこの間のヘレス・フェスティバルでの公演。アデラの踊りはどんどんよくなっていると私は思う。以前と全然違う。そのことをアデラに話したら、「カハソルの時は調子が悪かったのよ」・・・・信じられない。あんな素晴らしいソレアを踊ったのに?「ヘレスの時はプレッシャーがあった。たくさんのアーティスト達の前で踊ったから」・・・・アデラでもそんなこと思うんだ・・・「でもね、一昨日のオランダでの公演のソレアが最高だった。私は今やっと、自分が完全復活しているのを感じる。踊りを通して語るべきことがたくさんあるのよ。」

そして最後にアデラは私に向かって言いました。「あなたはきっと苦しむ。このインタビューを続ける事によって。他人の苦しみを背負い込んで、それを伝えなくてはならないから。あなたが今苦しんでいるよりも、もっと苦しむわよ。でもあなただからこの企画を思いつくことができた。あなただからそれを実行することができた。続けなさい。そしてあなたは最終的に、たくさんのことを学ぶでしょう。今自分が思っている以上に。」

2011年3月23日 私のことまで気遣ってくれたアデラ。ありがとう。私は続けます。  セビージャにて。

Mar 22
¨SOMOS JAPON¨⑤ アンへリータ・バルガス
La Yunko | Somos Japon | 03 22nd, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はアンへリータ・バルガスへのインタビュー&彼女からのメッセージです。彼女の姪・フランチェスカさんのご自宅でアンへリータと会いました。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第5回 アンへリータ・バルガス

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】立て続けに、兄弟(萩原註:イシドロ・バルガス、チャンギート)・夫・母・息子を亡くしたことよ。日本で起こったことと同じようなことが私の人生にも起こった。

【答え②】とにかく闘うこと。生きること。上を見ること。他の家族のために。自分のために。

【答え③】無回答。

【メッセージ】フラメンコを続けなさい。そして他人を助けなさい。スペインのフラメンコ界と日本のフラメンコ界は結びついている。同じ神様が見守っている。だから前に進み続けなさい。

アンへリータは字が書けません。写真のサインは姪のフランチェスカから一字一字つづりを教えてもらい、アンへリータ本人が一生懸命書いてくれたものです。書き終わった後、「生まれて初めて自分の名前をちゃんと書けたわ」と感慨深く自分のサインに見入っていたアンへリータが印象的でした。

そして彼女が右手に持っているのは、来週3月28日に日本(大阪)に行くという彼女のE-ticket。「スペインの皆に『日本には行くな、行くな』と言われて、私が『行く』と言っているのに誰も信じてくれない。だから今日、このチケットを証拠に持って来たのよ。」とアンへリータは言っていました。

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アンへリータが帰った後、フランチェスカが私にこんな話しをしてくれました。「ヒターノ(ジプシー)の多くは学校に行かないため、読み書きができない人が多いの。『学校ではスペイン人に洗脳される』と思っているヒターノが多いから。そして子供でも仕事が入れば学校に行かずに働きに行ってしまう。『お金を稼いで何が悪い?』と彼らは思っている。スペイン人とヒターノは全く考え方が違う。彼らには彼らのものの見方、生き方があるの。最近では、仕事を得るには読み書き計算ができた方がいい、と気づき始めているヒターノも増えてきたから学校に行き始めているわ。でも学ぶのは最低限だったり、学校に全く行かないヒターノもいることも事実なのよ。」

その後フランチェスカはアンへリータのこれまでの人生の苦しみを私に語ってくれました。アンへリータが直接語ったことではないので、このブログにはアップしませんが、本当に壮絶なものでした。人づてにその話しを聞いたことはありましたが、フランチェスカが話したことはそれ以上であり、そして真実はもっともっと壮絶なものだったと思われます。

2011年3月22日 人を生きさせる強さについて考えています。 セビージャにて。

Mar 21
¨SOMOS JAPON¨ ④ カルメン・レデスマ
La Yunko | Somos Japon | 03 21st, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日は、セビージャのフラメンコ学校「Centro de Arte y Flamenco de Sevilla」で教授活動を行うカルメン・レデスマへのインタビュー&彼女からのメッセージです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第4回 カルメン・レデスマ

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】いろいろあったけど、最大のものは父の死。(カルメンは涙目になる。)父は私の身体の一部だったの。私には夫がいないから、別離しているから、父がいつも経済的にも精神的にも助けてくれたの。でもその父が亡くなってしまって、私は病気の母と幼い息子と残されてしまった。(息つく暇もないほどの勢いで語るカルメン)そしてその父の死後、6〜7年前・・・確か・・・の交通事故。3ヶ月ベッドに寝たきりになった。もう二度と一生踊れないと思った。精神科医にも通ったの。本当に大きなトラウマが残ったわ。殺されたも同然だったのよ。

【答え②】人生にしっかりつかむものが必要なの。(身を乗り出して、自分の手のひらをぎゅっと握りしめるカルメン)私にとってのそれは踊ること。子供を育てること。その決意。そしてそれを乗り越えることなのよ。家族の結びつきも重要。特にスペインではね。物質はいつか元に戻る。でも人の死は戻らない。でも常にそこから這い上がる強さを持つの。あなたが生きてさえすればできる。それが必要なの。常に心の中には欠落がある。でも、とても強くならなくてはならないの。それと、その経験をした人しかそれを感じることはできない・・・。

【答え③】(目を大きく見開き、肩をすぼめるカルメン)私は一日一日を生きているの。今日と明日は違うから。そう、もう一つつらかったことを話すわ。昔ペドロ・バカンとのプロジェクトがあったの。コンチャ・バルガスやペパ・デ・ベニート達とも一緒のね。2ヶ月間、スイスで公演するはずだったのよ。そのリハーサルが土曜日にレブリーハで行われるはずだった。そしてその次の日にスイスに発つはずだった。でもそのリハーサル前日の夜中、ペドロは交通事故で亡くなったの。電話がかかってきたの。「カルメン、レブリーハに来て。でもリハーサルのためじゃない。ペドロがこの世からいなくなってしまった・・・・。」あの公演はもう二度とできない。そんな経験から、私は朝起きたら毎日、神様にありがとう、と言う。次の日に生きているかどうか分からないから。本当に本当に強くならなくてはならない。もちろん、ある時期は本当につらい。そういう時期があるのは分かっているわ。

(ずっとがまんしていた涙がこぼれ落ちそうになった時、私の手をカルメンがぎゅっと握る。そして二人で涙をぬぐう。)

9月に日本に行くことになっているの。ヨウコ(萩原註:小松原庸子スペイン舞踊団)の公演よ。4つの公演がある。その公演の計画を絶対に続けたい。(身を乗り出して声が大きくなるカルメン)絶対日本に行きたい。なぜならそれが「しるし」なのよ。この国はもう大丈夫だっていう。私が日本に行くことでそれを証明できるのよ。日本人は責任感が強い。私は日本を、日本人を、日本の文化をよく知っている。もう何年もいたから。 日本は私にたくさんのことを与えてくれた。私は日本という国に敬意を払っている。日本人は常に闘う。そして勤勉。絶対に復興するわ。私にはそれが分かるのよ。

【写真の中のメッセージ】「『前へ進もう』と言うだけでなく、日本の人達と一緒にいなければならない。この本当につらい状況において彼らを助けるために。 私は私の踊りでたくさんの元気と愛情を送ることができる。カルメン」

 

メッセージを書く前に、カルメンはインタビューとはうって変わって、小さな声で言いました。「私は字を書くのが苦手なのよ。きっとつづりを間違える。私が言うことをジュンコが書いて」No.と答える私。「カルメン、これはあなたが書かないと意味がないの。つづりなんて間違えたっていいじゃない。重要なのは心だから。踊りと一緒でしょ?」 そしてカルメンは言いました。「そうね。間違えたっていいわ。私がどういう人間かみんな分かっているだろうから。」そして書き終わった後、カルメンは言いました。「なぜこれを書いたか説明するわ。踊りは私の人生なの。人生の中でとてもつらいことがある度に私は闘った。踊った。働いた。踊りが私を立ち上がらせてくれたのよ。今が大変な状況なのはよく分かる。でも続けなければならないの。踊り続けるのよ。」そしてこう言いました。「彼(写真の中の絵の人物)はティオ・フアニ。ナノ・デ・ヘレスのお父さんよ。彼と一緒に写真を撮って。彼も彼の人生の中で本当に闘ったから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年3月21日 カルメンと別れた後、私は涙を止めることができませんでした。 セビージャにて。

Mar 20
¨SOMOS JAPON¨③ ミラグロス・メンヒバル
La Yunko | Somos Japon | 03 20th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日は、クリスティーナ・ヘレン財団フラメンコ芸術学校にて教授活動を行っている、ミラグロス・メンヒバルへのインタビューと彼女からのメッセージです。「ミラグロス、差し支えがあるなら別の質問に変えてもいいですし、無回答でも問題ありません。」と言うと、ミラグロスは「何でも答えるわよ。日本のために。全部。」とおっしゃって下さいました。レブリーハのペーニャ公演後、楽屋でのインタビューです。(インタビュー、写真:萩原淳子)

第3回 ミラグロス・メンヒバル

(フラメンコ舞踊家)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】背中の手術。1991年のことだった。医者に「もう前のようには踊れない」と言われたの。医者は私の踊りをビデオで見たのよ。私が以前行っていたバタ・デ・コーラでの動きやブエルタ(回転)はもうできないって。私は会社員のように背中をまっすぐにして座って仕事をする訳ではないの。(パソコンのキーボードを打つまねをする。)私の踊りのためには、背中を動かさなければ。でもそれがもう無理だと言われたの。本当にショックだった。それから私は2年間踊らなくなったの。そしてその後も手術は続いた。今も。今度は3度目の背中の手術をする。首の手術だってしたのよ。

【答え②】ゼロから始めたの。ゼロから。もう以前と同じことはできない。でもそのかわりに私は見つけたの。カンテを聴くこと、カンテを踊ること、踊りにサボール(sabor:直訳すると「味」)を与えること。そしてこの手。(この時ミラグロスは彼女の手の動きをしてみせる。)

(今さっき見たミラグロスの踊りがまさにそうであった、と萩原深くうなずく。)

現代は多くの人がたくさんの回転技やサパテアードを用いて踊る。でも私は一つの事を失って、別のことを手に入れた。その別のことが私の踊りを生まれ変わらせたのよ。でもそこに至るまでは本当に本当につらかった。

【答え③】教授活動。常にフラメンコとともにいること。そしていつか私は舞台を去る。70才になってまで踊ろうなんて思っていない。他人に言われる前に自分で分かるから。引退の時をね。

【写真の中のメッセージ】私がこんなにも愛するすばらしい国に起こったこの悪夢が全て過ぎ去りますように。この自然災害が全て過ぎ去りますように。(しかし)それによって日本が平和で勤勉で良い人達の国であることが示されました。私は私の第2の国、日本といつも一緒にいるでしょう。 ミラグロス・メンヒバル

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2011年3月20日 昨日のアンヘルのメッセージとミラグロスの人生が重なってきました。  レブリーハにて。

Mar 19
¨SOMOS JAPON¨ ② アンヘル・アティエンサ
La Yunko | Somos Japon | 03 19th, 2011| Comments Off

みなさんこんにちは。

今日はセビージャ・トゥリアーナにイサベル・バジョン・フラメンコ舞踊学校「ADOS」を構える、アンヘル・アティエンサへのインタビューと彼からのメッセージです。

第2回 アンヘル・アティエンサ

(フラメンコ舞踊家・フラメンコ舞踊学校「Ados」主宰)

【質問①】差し支えなければ、あなたの人生の中で起きた、厳しくつらい状況について語って頂けますか?

【質問②】その状況をどのように乗り越えたのですか?

【質問③】あなたの将来のプロジェクトを教えて下さい。

【質問④】日本の人達へのメッセージをお願いします。

【答え①】 今日本で起こっているような・・・・困難な状況は・・・自分の人生において・・・まだ・・・ありません。(言葉を切り、考えながら話していました。)

【答え②】 踊り手としての人生の中で、最初の頃は困難でした。踊り手になれるのかどうか、踊り手として食べていけるのか、それが全く分からないまま、不安で、不安で・・・でもそれでも自分の道を選び、貫き、闘いました。その生き方が自分に力を与え、今の自分があります。

【答え③】 この学校を続けていくこと。自分自身の踊りを確立すること。それを生徒に教えること。今まで学んだこと全てを生徒に与えること。

【写真の中のメッセージ】「一つの扉が閉まる時、常に別の扉が開く。元気を出して!!!」 そしてアンヘルは続けました。「日本で今起こっていることとは比べられないけど、例えば、人とけんかをするとするよね。相手のことを嫌に思っていてでも何も言わない時は、何も起こらない。でもその相手に対して何かを言った時、言い争いにはなって、それはよいことではないのだけど、言い争いをしてみて、初めて自分が何が必要なのか、実は相手を必要としていたこととか、もしくは相手が自分を必要としていることとか、そういうことに初めて気づく。それは言い争わなければ分からないことなんだよ。言い争いをするのは痛いし、つらい。でもそれは相手を理解するための必要なステップだということに気づくんだ。私の言う事、分かってもらえるかな・・・。」

すると、このインタビューを隣で聞いていた受付のスサーナがこんなことを言いました。「これは何かで読んだけど、インドネシアで津波があった時に、たくさんの人が全てを失った。でも津波によって得たものある。今まで出会いもしなかった人と出会ったり、それによって結婚した人もいたらしいわ。これは不謹慎な言い方かもしれないと思うけど、津波をきっかけに、何かが新しく始まったとも言えるのよ。」そして彼女は続けました。「私もメッセージ書いていいかな。私はアーティストでもないし有名人でもないけど、こんな時に必要だと思える言葉があるの。誰の言葉か忘れてしまったけど。」

  • 【スサーナ・イバニェス(フラメンコ学校Ados 受付)からのメッセージ】「困難な時にこそ、その人間の質があらわれる。」そのスサーナが、学校に伴奏に来ているギタリスト2人に一緒に写真に写ろう、と声をかけました。一人のギタリストは「私は有名なアーティストじゃないし、写真に写ったからといって日本を助けた、というつもりはないよ。でも日本を助けたいという君の気持ちと僕の気持ちは一緒だ。もしチャリティーコンサートなどをやるなら、是非声をかけて。いつでも弾くよ。」と言ってくれました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011年3月18日 アンヘルのインタビューから輪が広がったことを感じました。セビージャにて。

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